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宵闇と鮭の白子
バイトも講義もない木曜日。俺は来週のゼミ発表で使うレジュメを作るため、昼前からずっと大学の図書館に籠もっていた。夕方になり、ようやく及第点といえるものができたので、アパートに帰って早めの夕食をとった。大学の近くにあるアパートを借りて、一人暮らしをしている。大学の付近一帯は学生向けのアパートやマンションが乱立していて、T文大生の大半はそれらに住んでいる。
とうに日は落ち、窓の外は真っ暗になっていた。食器を洗ってから少し本を読み、それからまた薄手のコートに袖を通し、アパートを出た。行き先は、あの居酒屋だ。
足もとも不確かな夜道を三十分近く歩き、ようやく到着する。
前回はよく見ていなかったが、臙脂色の暖簾には白い毛筆で〔柏葉〕と書いてある。彼女はよく、「かしわ」と略していた。思い出す度に胸の底に痛みを覚えるが、それは次第に鈍いものになっていた。その変化が、物悲しくさえある。
明かりと共に、複数の笑い声が聞こえてくる。席が埋まっていたら、バカ学生が騒いでいたらどうしよう、などと考えながら引き戸に手をかけた。
「あら、いらっしゃい」
カウンターの奥で、女将さんがちょっと驚いた顔をした後、皺だらけの笑顔を向けてきた。
「どうも。……あっ」
奥の席。前に会った若い男が、同じように座っている。彼は不機嫌そうな眼をこちらに向けると、口もとだけで笑ってみせた。向かって右手にある小上がりでは、サラリーマンと思しき中年男性たちが酒を酌み交わしている。老け具合と頭髪の量以外に違いを見つけられない四人組だ。
奥の彼に会釈を返し、また前回のように一つ離れた席に腰をかけた。
同い年ということは分かったが、隣に座るほど距離が近づいているとは思わない。彼も促してはこない。
温かいおしぼりをもらい、手を拭いながら店内を見回した。おすすめを書いた黒板にも、雑に壁に貼られた紙にも、魅力的なメニューが輝いている。だが、すでに夕飯は済ませてきた。小鉢一つ二つで、集中して酒を楽しみたい。
「生ビールください」
それに重ねるように、
「俺も、お代わり」
彼が僅かに中身の残ったジョッキを掲げた。
「はいはい」
手際よく動く女将さんの背中を横目に、
「偶然ですね」
彼に声をかけた。
「なんか、もう来ないと思ってたよ」
「え?」
「どこか、深刻そうな顔をしてたから。なんとなく」
「ああ」
先日。一年ぶりにこの店を訪れた俺は、苦い思い出を飲み込もうとしていた。その姿は自分で考えても、あまり良いものではない。
「まあ、あの日は。いろいろ考え事があったので」
「そうか」
納得したのか分からない顔で頷くと、ジョッキの中身を呷った。
それから、
「武部だ」
「え?」
「武部亘。名乗らなかったろ、この間は。あれっきりだと思ってたから、必要ないと思ったんだ」
「ああ」
確かにお互いに名乗ってもいなかったし、再会するなんて考えてもいなかった。
「柳川です。柳川湊」
名乗ったところで、二人のビールが来た。どちらからともなくジョッキを軽く持ち上げた。よろしく、という武部の顔には、落ち着いた微笑だけが浮かんでいる。急に距離を詰めて乾杯しようとしないところが、とても好ましい。
さて、ビールだ。手を通じて伝わってくる冷気。どんなに寒い季節でも、これだけは拒めない。誘われるように、白い泡と金色の液体を流し込んだ。苦みと炭酸が喉を刺激しながら胃に落ちていく。
「やけに嬉しそうに飲むじゃないか、今夜は」
言われて、無意識に頬が緩んでいるのに気づいた。
「来週のゼミ発表の準備が、ようやく終わったので」
「なるほど」
武部が控えめに笑う。笑うと顔に差す影が濃くなる。
二口目を軽く呷ったとき、
「お兄さん、白子って食べれる?」
女将さんが聞いてきた。
「えっと、一応」
そう頷くと、よかった、と嬉しげな声。そして、
「はい、お通し」
出された小鉢。中には、一口サイズに切った白子にポン酢と七味唐辛子をかけたものが。
「へえ、お通しで白子ですか……」
嫌いではないが、白子のような珍味は高価なイメージがある。そんな不安を見透かされたようで、
「白子といっても、それは鮭の白子。タラなんかに比べて安いから、心配しなくてもいいよ」
「あ、そうなんですか。ありがとうございます」
恥ずかしさを隠すように笑いながら、箸を手にした。鮭の白子は初めてだ。以前、実家で一度だけ鍋で食べたのはタラだっただろうか。目の前のものより、細かった気がする。鮭の白子の形は、明太子に似ている。明太子をそのまま白くしたようなものだ。
「いただきます」
一切れを口に入れた。少し慎重に、おそるおそるといった感じで噛むと、プチッという皮が切れる食感の後に、ねっとりとした白子が舌の上に流れ出した。濃厚な旨味が残っているうちに、ビールを流し込む。
「安いって言いましたけど、美味しいですね」
「そうでしょ?それに栄養満点だから、この時季はよく作るのよ」
「へえ。そうか、もう鮭の季節ですもんね」
次の切れは、少し唐辛子を多めに付けた。クリームのような食感に、鋭い辛さが良いアクセントになる。日本酒の方が合うだろうか、などとビールを飲みながら考えた。
「文学部のゼミってのは、大変だろうな」
武部の声。彼は経済学部といっていた。別の学部から見て、文学部はどう見られているのだろう。
「作家だの、小説だのについて研究する、ってのがイメージできない」
横顔に苦笑いを浮かべながら、彼は彼で白子を口に運んだ。間を置かずに、ビール。
「はは。俺は国文学専攻だから、読むのにはさほど苦労しないですけどね。確かに、興味のない作家についての研究論文なんて、三行で眠くなりますよ。でも、好きな作家についていろいろ探っていくのは、面白いです」
「そういうもんか」
国文学とは日本文学のことだが、T文大には英文学科や仏文学科などもある。外国語で書かれた文学作品や論文を読むなど、俺にも想像できない。
「ただ、来週のための準備は辛かったですね。ゼミで扱うのは、好きな作家じゃないし。俺が好きな作家とほとんど同時代の人のはずなのに、訳の分からない言葉ばっかり使ってるんです」
来週の発表で扱う小説を書いた作家は、明治中期に活躍した作家で、小説の他に俳句を嗜んでいたためか、他の作家の小説では見たことのない季語を多用する。それを見つける度に、日本国語大辞典や歳時記などを開かなければならなかった。そんな苦労を、一つ席の離れた相手に向かって語った。どこか滑稽な状況のように思う。
「歳時記?」
武部が小さく首を傾げた。仕草の全てが控えめな男だと、なんとなく感じた。
「俳句に使う季語をまとめた、辞典のことです。季語というのもいろいろあって、それが季節ごとに植物や時候、天体などに分類されて載ってるんです」
「ふうん。難しそうだけど、風流って感じがして格好いいな」
「どうですかね」
ジョッキに手を伸ばしながら笑った。言葉を知るだけでは、風流なんてものには近づけない。ただ、どうすれば近づけるのかは分からなかった。
「ねえ、女将さん!」
背後からの大きな声。首を捻って肩越しに見ると、サラリーマンたちの一人だった。顔は赤く、だらしのない笑い顔で小鉢を手に持っている。
なんです、と女将さんが応えると、
「白子ポン酢、お代わりもらえない?」
「あるけど、やめておきな。痛風が悪化するよ!」
そう言われてサラリーマンは、ちぇ、と唇を歪めた。仲間たちが、そうだそうだと茶化す。
「痛風って、足とかが痛くなる?」
まったく、と呆れる女将さんに小声で聞いた。
「そう。ビールだったり、白子みたいな内臓系はプリン体が多くてね」
「そうなんですか?」
俺は小鉢と女将さんを交互に見た。
「細胞がぎっしり詰まってる。痛風患者には、毒みたいなもんだよ」
横からの、武部の声。
「俺の爺さんが、痛風でね。発作が起きると、歩けなくなるくらいだ」
「それは、怖いですね……」
小鉢の中に残った白子を見る。味にあれだけ感動したのに、今では凶器のようにすら思える。
「なにも、今から怖がることないのよ。まだ若いんだから、好きな物を食べなきゃ」
「そう。いくらプリン体が多いとはいえ、俺たちにとっては、食べ過ぎなきゃ問題ないレベルだよ」
二人に笑われる。別に、心から怖がったわけじゃない、……こともないかもしれないが。
それに、と武部が続ける。
「プリン体を多く含む食べ物は、美味い物ばかりだ。適度に楽しまなきゃ、損ってやつだ」
なるほど。俺は頷いてから、白子を一口、そしてジョッキを空けた。
「女将さん。次はハイボールで」
「あら、飲み物からのプリン体を避けたね」
「心から白子を楽しむためです。まあ、ハイボールが好きってのもありますけど」
「ちょっと待ってね。濃いめに作ってあげるから」
そんな女将さんの言葉が聞こえたらしく、
「あっ、酷いなあ女将さん。俺たちのサワーや水割りは、いつもと同じなのに」
サラリーマンたちの、笑いが滲んだブーイング。女将さんも白い歯を見せて、
「薄めないだけ感謝しなよ、あんたたちは!少しは身体のことも考えな!」
そう叱った。そのやりとりがおかしくて噴き出すと、武部も俯いて笑いを堪えていた。
騒がしいのに、嫌な気がしない。だから武部はここに通っているのだろうし、俺もまた来てしまったのだろう。
店内の至る所に見られる、汚れや傷によって刻まれた時間。それはけっして、明るいものばかりではなかっただろう。嫌なことや苦しいこと、誰かの笑い声や涙が、そこに染み込んでいる。そこに感じる包容力に甘えたくて、俺は足を運んだのかもしれない。
それから一杯ずつ空けて、俺と武部は一緒に店を出た。まだ、夜はこれからという時間だが、二軒目なんて話にはならない。
ただ、並んで夜道を歩く。暗いと思ったら、まだ月が出ていなかった。
商店街を出た後、国道から一本外れた道に入る。住宅街は静かなものだ。
「こんな日には、どんな季語が似合うんだ?」
急に武部が聞いてきた。話題に困ったという雰囲気は、ずっと感じていた。そうですね、と少し考えた。俺も詳しいわけじゃないですが、と前置きをしてから、
「宵闇なんて、ぴったりですね」
「よいやみ?」
頷く。
「十五夜から日が経つごとに、月が出るのが遅くなるんです。日が落ちてから、月が出るまでの長い闇。ちょうど今みたいな夜を、宵闇というみたいです」
「へえ」
武部は立ち止まり、空を見上げた。
「やっぱり、風流だな」
「まあ、例の作家が使ってたから知っただけですけど」
「関係ないさ。今に相応しい言葉を教えてくれた。それだけで十分だ。なあ、ついでってわけじゃないが、聞いてもいいか?」
「答えられるものなら」
「この前は初対面だから遠慮したけど、あの日、何のために〔柏葉〕に行ったんだ?あんなに難しい顔して、酒を飲んで」
「……」
眼。武部の、闇だけを反射する瞳。興味本位という色は、感じ取れない。なんだろう。不気味なようで、どこか憐憫の情すら抱かせる。俺は、首を横に振った。
「過去を、思い出に変えに。人に話せるのは、そこまでですかね」
「そうか。いや、すまない。答えにくいことを、聞いたのは分かってる」
そう謝ってから、武部はまた空を見上げた。彼の横顔は、闇の中に溶け込むような暗い微笑みを浮かべていた。空を見上げる眼も、本当は何か別のものを見つめているように思える。
俺の言葉は、間違ってはいないはずだ。過去として俺の心が引きずっていたもの。それは心と癒着するように、常に側にあったのに、目を向けることが出来なかった。あの店に行くことで、ようやく俺はそれを思い出として、心の中にしまい込むことが出来たのだ。
だが、人に話すことではない。
しばらく黙ったまま、お互い何も言わなかった。
ふう、という声。ようやく、武部は再び歩き出した。
駅に向かう彼と途中で別れ、アパートまでの道を一人で歩く。空を見上げても、まだ月は出ていない。何色でもない空が、ひたすら冷たかった。
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