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霧雨と出汁巻き玉子
場末。外観を見て、抱いた印象を言葉にすると、それが一番しっくりくる。街灯もまばらなシャッター商店街の隅で、ぽつんと明かりをつけた店。時代を感じさせる木造の二階建てで、おそらく二階は住居だろう。
夕方から降り始めた雨は、今は霧のような粒に変わっている。秋の夜に浮かぶような霧雨が、肌に当たっては体温を奪っていった。
鼻を啜った。店の前で、そうずっと立ち止まっていることもないだろう。何度そう思ったか分からないが、ようやく覚悟を決めて引き戸に手をかけた。
お世辞にも滑らかには動かない戸を後ろ手に閉めると、
「こんばんは」
女将さんがカウンターの奥から笑いかけてくれた。きっと、初めての客だと思われてるだろう。そう思いながら、カウンター席の奥に座る男から、一つ離れた席に腰を下ろした。
カウンター席が五つに、小上がりが二つ。それだけの、小さな居酒屋だ。カウンターには立派な杉らしい木材を使っていて、それでいて鼻につく高級感はない。メニューが書かれた紙や黒板たちが、ほどよく崩れた雰囲気を醸し出している。
客は、一つ離れた席の男だけだった。黒いTシャツに薄手のジャケット。服装は落ち着いているが、ビールの入ったジョッキを見つめる横顔は、まだ若そうに見えた。自分と同じくらいか、少し上か、そんなところだ。もしかしたら、同じ大学の学生かもしれない。
この店は、俺が通う大学から徒歩で三十分ほど離れた場所にある。その距離が短いとは思わないが、可能性を捨てるほどではない。
「傘、差してこなかったの?」
灰色の髪の女将さんが、皺の目立つ顔をカウンターから出して聞いてきた。ハンカチで拭ってから入ったつもりだったが、服や髪に水滴が残っていたらしい。
「はい、おしぼり。温かいのに変えておいて、よかったよ」
「ありがとうございます」
礼を言って受け取ると、熱いくらいのおしぼりが冷えて強張った手をじんわりと温めてくれた。去年の夏に来たときのおしぼりは、冷たかった。
温もりで両手を包みながら、メニューが書かれた黒板などを見回す。去年は何を頼んだだろうか。しっかりと覚えているはずなのに、思い出せない。思い出すことを、心が拒んでいる。
「寒かったでしょ?温かいお酒にする?」
「そうですね。ウイスキー、お湯で割ってもらえますか?」
「はいはい」
注文を聞くと、てきぱきと手を動かす。こちらから見えないところで、きっと見事な手際で酒と食事の用意を平行して進めているのだろう。ほとんど待たないうちに、
「お待たせ。ウイスキーと、お通しね」
「どうも」
取っ手の付いたグラスの中で、湯気を立てる琥珀色の液体。それと、小鉢に入ったポテトサラダ。小鉢には、葉を落とした木の絵が描かれている。
いただきます、と手を合わせてから、まずはポテトサラダを口に入れる。形を残した芋の食感とほどよい塩気。それから、グラスを手に取って息を吹きかけた。ちびりと飲んでみると、ウイスキーの辛さが温度という膜に包まれたようになって、まろやかに喉を通り抜けていった。後には、芳しい香りが鼻に残る。一年前は飲めなかった種類の酒だ。なんとなく、そう思った。
「連れってわけでもないのに、学生さんが二人も来るなんて珍しい」
「え?」
ふと呟いた女将さんの言葉に、顔を上げた。目が合うと、視線で先客の男を示した。
「あそこのお兄さんも、T文大だよ。ね?」
話を振られた男は眉を少し動かした後、小さく頷いた。目が合ったので軽く会釈をすると、伏し目がちに返してきた。
「常連さんですか?」
どちらに、とでもなく尋ねた。
「二週間に一度は、常連になりますか?」
「もちろん」
「だ、そうだ」
男は女将さんに一度お伺いを立ててから答えた。落ち着いているというか、律儀さを感じる振る舞いだ。
「学校の近くに、いくらでもお店はあるだろうに、よく来てくれるよ」
「あの辺だと、騒がしい店ばかりで」
「ここもよく、やかましいのが来るけどね」
「ああいう方たちは、あれはあれで好きなんです。ただ、学生の騒ぎ方っていうのが、好きじゃなくて」
「まあねえ。それが若さでもあるんだけど」
笑顔で頷きながらも、女将さんの目は調理場内や客のグラスに向けられている。
「分かりますよ、それ。俺もなんか、ああいうノリについていけなくて……」
「ついていく必要なんて、ないと思う。無理しても、酒が不味くなるだけだ」
そう言って、ぐいとビールを呷った。
「で、ですよね」
俺もグラスに口をつける。少し温くなったウイスキーは、丸みはそのままに、よりスムーズに口の中に入ってくる。
なんだか気まずさを感じ、カウンターに立てられてたメニュー表を手に取った。初対面の、それも居酒屋で会った人と話を弾ませるというのは、いくら同年代が相手でも難しい。同じ大学とはいえ……、うん?不意に頭の中で疑問が生まれた。
「あれ、女将さん。そういえば、どうして俺がT文大生って知ってるんですか?」
「だって、言ってたじゃない。前に来たときは二年生だったから、今は三年生?」
留年してなければ、と最後に笑い混じりに付け加えた女将さんに、俺は少しの間ポカンとしてしまった。
「え、覚えてたんですか?去年に二・三回来ただけの俺ですけど」
「そりゃ、そうよ。客商売だもの」
軽く言ってくれる。俺も何度か接客業のアルバイトをしたことがあるが、常連の顔を覚えるのにかなり苦労した。
「ま、若いお客さんは少ないから、覚えやすいだけなんだけどね」
「ああ、なるほど」
ということは、一緒にいた人のことも記憶しているのだろうか。そのときの、俺の様子も。深く考えたくなくて、メニュー表に目を戻した。空腹、というわけではない。お湯で割ったとはいえ、ウイスキーは一度飲んでしまうと、身体を食事モードから飲酒モードに切り替えてしまう強さがある。少なくとも、俺にとっては。
「三年ってことは、俺と同じか」
注文に悩んでいると、男が自分のジョッキを見つめながら言った。いつの間にか、空になっている。お代わりを注文してから、俺の方を見た。頷く。
「同じ、ですか?」
「ああ。俺も三年だ。経済学部の、な。ちなみにダブってもいない」
「俺は文学部です。まさかタメとは、偶然ですね」
「本当にな」
そこで、男は目を細めた。アルコールのせいで赤らんだ顔が、明るく崩れた。彼の笑顔を初めて見た。
彼が頼んでいたビールが来る。肌寒い季節でも、水滴の付いたジョッキと黄金色のビールは魅力的だ。一緒につまんでいるのは、焼き魚らしい。
つられそうな気持ちを抑える。自分の目的を忘れてはいけない。グラスの中身を飲み干す。閉じた自分の心を無理矢理こじ開け、痛いほど鮮やかに記憶を彩る、その料理を注文した。
「すみません。出汁巻き玉子と、お湯割りもう一杯」
注文を聞いたとき、一瞬女将さんが何かを言いたげに口を開いたが、何も言わずに頷いただけだった。
玉子をかき混ぜる音。フライパンの上で玉子が焼ける音。この店が開店してから今まで、数え切れないほど響いてきたであろう音に耳を傾けているうちに、料理が完成した。
目の前に置かれた長方形の皿には、崩れそうなほど柔らかい玉子焼きが載せられている。弁当のおかずとしても一般的で庶民的な印象のある料理だが、添えられた大根おろしと並ぶと途端に高級感が増す。
ウイスキーのお代わりも一緒に来たので、早速箸を手にした。
まず、玉子焼きを一口。出汁の旨味と玉子本来の甘さが絶妙で、その美味しさがまた、記憶を蘇らせる。甘さが残っているうちに、ウイスキーを口に放り込んだ。香りが鼻を抜けていくと、後は何も残らない。これを、皿の上に何もなくなるまで繰り返した。
「難しい顔をして飲むんだな」
最後に残ったウイスキーを流し込んだとき、男に言われた。責めるような色も、笑い飛ばすような表情もなかった。淡々と感想を述べたというだけのようだ。
「美味しいんですよ、めちゃくちゃ」
「それは知ってるけど」
「一年ぶりにここに来たのも、これを食べたかったからなんです。去年来たときに食べた、これを……」
言いかけて、やめる。初対面の人に打ち明ける話ではない。なんとなく察したようで、彼もそれ以上聞いては来なかった。
彼はちょっとだけ残っていたビールを飲み干すと、先に会計を済ませて、じゃあな、とだけ言って帰った。
女将さんと俺だけになった。女将さんはカウンターの奥でしばらく動き回った後、こちら側に回ってきた。右手にはビールの小瓶、左手にはグラスが握られている。隣に腰掛けると、手酌で飲み始めた。個人経営の居酒屋だ。うるさいことは言わない。
「出汁巻き、あのお姉ちゃんが好きだったね」
ぽつり。それは言葉のようで、店の外から聞こえた滴の落ちる音のようにも聞こえた。
「そうですね」
「あの子、元気にしてる?」
そう聞いてきた眼には、うっすらと寂しさが滲んでいた。淡くしか感じ取らせないところが、年季といえるのだろう。
「さあ。もう、しばらく会ってませんから」
「そう」
どこまで察しているのか分からないが、女将さんは小さく頷いてから俺のグラスにビールを注いだ。ウイスキーが入っていたグラスだが、別に気にしない。どうも、と頭を下げてから口を付ける。苦みを飲み込まずに、しばらく口の中に残す。
「玉子焼き、本当に美味しかったです」
去年と変わらない味だった。それだけにあの日の記憶が、情景が、彼女の姿が、声が、今そこにあるかのように蘇る。
辛くもあったが、食べなくてはいけない気がしていた。向き合うことでようやく、記憶というものは上書きできるのではないか。そう考えたのだ。
心に突き刺さった後悔という楔。残念ながら、今夜はその存在と痛みを再確認しただけだった。それでも、ようやく前に進める気がしている。
グラスを空け、勘定を済ませた。
「ありがとうね」
「ごちそうさまでした。また、来ます」
「傘、貸そうか?」
「いえ。たいした雨じゃありませんから」
引き戸を開けた。微かな霧雨が、店の明かりに照らされる。
酔いが回っているな、と胸の内で呟く。
火照った肌を霧雨で冷ましながら、一年ぶりの夜道を歩いた。
あの日、隣を歩いていた人。
泥酔と悲しみと痛みでボロボロになっていた人。
彼女は、もういない。
きっと、雨が彼女の存在を攫っていってしまったのだ。酒で鈍磨した思考。もう少し濡れれば、彼女の思い出も攫ってくれるだろうか。そんなことを考えて、黒いだけの夜空を見上げた。
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