霙とモツ煮

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霙とモツ煮

 〔柏葉〕は静かだった。先客がおらず、俺が注文した料理を女将さんが準備する、その音だけが響いた。女将さんはもう、彼女について何も聞いてこない。聞いたところで、欲しい答えが返ってこないことを悟ったのかもしれない。  先にもらった生ビールを、ちびりと飲む。  席。誰もいなかったのに、奥から三番目の、武部と飲んだときと同じ席に座っている。無意識だった。  口の中に残った炭酸の刺激を弄びながら、耳を澄ます。外から、車が水を跳ね上げる音がした。今日は夕方から(みぞれ)が降り始めたので、道路は溶けかけたかき氷のようなものに覆われているだろう。  冬が始まったのだ、と店内で赤々と燃える石油ストーブを見遣りながら思った。季節とは、否応なく変わっていくものだ。 「はいはい、お待たせ」 「どうも」  大ぶりの椀に、山盛りになったモツ煮。これを頼みたくて、今夜はお通しを断った。にしても、なんだこのボリュームは。 「すごいですね、これ」  値段を考えると、気前のいい量だといえる。 「こんな天気の中、来てくれたからね。ちょっとおまけ」 「すみません、いただきます」  頭を下げると、嬉しそうに女将さんが頷いた。  箸で持っただけで分かる、モツの弾力。それを口へ運ぶと、肉の旨味が広がった。味噌ベースの味付けの中に生姜が効いていて、まったく臭みがない。そこへビールを流し込むと、心地よい苦みがモツの後味と共に喉を通り抜けていく。  大根やニンジンにも味がよく染みていて、野菜だけでも酒が進んでしまうほどだ。コンニャクの歯触りも楽しい。  気づけば、あっという間にジョッキが空になっていた。  お代わりを頼んだとき、入り口の扉が開いた。なんとなく目をやる。 「あれ」  俺の声に、客もこちらを見た。傘立てに傘を突っ込みながら、よお、と武部が手を挙げる。どこか険しい顔だ。 「いらっしゃい」  女将さんがいうが早いか、 「こんばんはー!」  武部に続いて、茶髪の男が声高らかに入ってきた。 「うるせえ」  ギロリと睨みつけるが、男はいやあ、と笑うだけだった。知り合いなのか。  不機嫌そうな表情で、武部はいつもの席に座った。茶髪の男は、俺と武部の間に座る。 「いやあ、亘君ってこんな渋いお店に通ってんだ。マジかっけえわ」 「お前みたいな馬鹿が来ないから、静かに飲めるんだよ。ちくしょう」 「そんなこと言わないでさー、たまには楽しく飲もうぜ」 「断る」  わざとらしく唇を尖らせる男。会話や見た目から察するに、俺たちと同年代のようだ。頭の側面は刈り上げ、茶髪をオールバックにしている。日焼けした肌。無駄な装飾ばかりの、機能性の悪そうなコートの下に、青のグラデーションのシャツを着ている。  苦手だ。こういう頭の中が常時パーリナイな奴が、大衆居酒屋で騒いだり、未成年の新入生にカルアミルクなんかを飲ませようとしたりするのだ。ちなみに俺の場合はテキーラだった。もちろん断ったが。  歳不相応に落ち着いている武部が、こういうタイプの男と知り合いだということが、意外に思われた。武部本人も、一緒に来店したことは不本意そうだが。横目で二人が会話するのを眺めていると、クルッと男の顔がこちらを向いた。 「そういえば君、亘君の友達?」  ぎょっとして、 「いや、ここでたまに会うだけで、友達というほどじゃ、知り合いというか……」   どう答えるべきか分からず、とろとろと曖昧な言葉を継ぐ。その、人懐っこいキラキラした目はやめて欲しい。世界に不満とか一切なさそうで腹が立つ。目つぶししたくなるほどだ。 「やめろ。そいつまで巻き込むな」  目の間を指で揉みながら、武部が呆れたように言った。 「おっ、マジで亘君の友達?へえ、俺以外に友達いたんだ」 「ぶっ飛ばすぞ、てめえ!」 「へへ、勘弁勘弁」  何だか、妙な風景だった。気まずく思いながら見ていると、武部が仰け反って男の陰から顔を出した。 「悪いな、湊。やかましいのが付いてきちまった」 「いや、別にいいけど」  無理矢理、笑顔を作ってみせた。 「湊君っていうの?俺、鍵谷俊。よろしく!」  俺の名前を聞くやいなや、自然に自己紹介してくる。なんだ、そのビー玉みたいな目玉は。貴様の顔はラムネ瓶か。  頭の中で、パリピに対するアレルギーのような反応が起きている。どうにか平静を取り繕い、 「ああ、どうも。柳川湊です」  軽く会釈をすると、少年のような笑顔が返ってきた。申し訳ないが、こちらからは引き攣った苦笑いしか返せない。 「もういい、俊。そいつも俺と同じで、賑やかな馬鹿は好きじゃない」 「あ、そうなの?」  鍵谷は一瞬目を丸くした後、すまなそうに眉を八の字にした。 「ごめんごめん。俺、久しぶりに亘君に会ったから、テンション上がっちゃって。反省する」 「よし。じゃあまずは、別の席に移れ。俺の隣に座るんじゃない」 「いや、そりゃないでしょ」  笑顔で抗議する鍵谷の声は、さっきまでより数段小さくなっていた。落ち込んでいる、というより、本人にとって自然な声量という感じがする。だらしなく伸ばされていた語尾も、あっさりとしたものに変わった。その声を聞いたからか、武部も納得したように頷いた。 「すみません、女将さん。場違いなの連れてきて。とりあえず、ビールもらえますか?」 「はあい。いろんなお客さんがいるんだから、気にしなくていいのよ」  女将さんが鍵谷に向かって笑いかけると、鍵谷は控えめに、はにかんだ。 「へへ、あざっす。俺は、ハイボールで」  それからメニューを手に、うんうん唸り始めた。 「亘君、ここのオススメは?ガッツリ系を希望」 「何でも美味い。好きにしろ」 「何でも、っての、一番困るなあ。……っし、やっぱりハイボールには唐揚げかな」  王道だな、とモツを噛みながら思った。熱々の唐揚げには、キレのいいハイボールが合う。口の中が脂っこくなりそうなのを、すっきりと洗い流してくれる。  飲み物とお通しが盛られた小鉢を持ってきた女将さんに、鍵谷が唐揚げを頼んだ。 「それと、白いご飯もいいっすか?すぐ食べたいっす」 「はいはい。待っててね」  注文をメモしながら女将さんが引っ込むと、武部が笑った。 「お前、定食屋にでも来たつもりかよ」 「いやあ、腹減っちゃってさ。飯食いに行こうと思ってたら、亘君に会ったんだよ」 「誰も、付いて来いなんて言ってないだろうが」 「だって久しぶりだったからさー」  武部の舌打ちが聞こえた。仲が良いのか、悪いのか。それは分からないが、会話をする二人組の横で酒を飲むのも居心地が悪い。  帰るか、勇気を持って話に入るか、帰るかの三択だ。帰るか。  決心したのはいいが、モツ煮はまだかなり残っている。ガッツリした物を胃に入れたせいか、嫌な酔いの気配が少しする。  ため息をつきかけたとき、隣で腹の虫の鳴く音が聞こえた。鍵谷が恥ずかしそうに腹に右手をやりながら、空いた手でお通しのポテトサラダを口に運んでいる。気まずい。そう感じたとき、手が動いた。 「その、よければこれ、つまみます?」  どもりながら、椀を差し出した。 「いいの?」  鍵谷の顔が、ぱあ、と明るくなる。頷いてみせると、ありがとう、と笑顔で受け取った。親切心ではない。早く椀を空にしたかったし、空腹の人の横で自分だけ食事をする罪悪感に似た感情を消したかった。利己的だ。目がビー玉みたいな奴に、誰が親切にしてやるものか。  鍵谷は嬉しげに、俺と彼の中間に椀を置き、まじまじと見つめた。 「へー、これ見たことない肉だな。モツ煮みたいだけど」 「いや、モツですけど」 「え!マジ?でも、俺がいつも食べるモツって、茶色っぽくて、しなびた感じで。こんなに綺麗じゃないよ」  椀に盛られたモツは、確かに一般的なものとは印象が違う。全体的に白っぽく、表面もハリがある。老人と若者の肌の違いのようだ。  ああそれは、と口を開いたとき、 「ふふ、それはねえ」  ご飯を持ってきた女将さんが、説明を始めてくれた。タイミングの良いことだ。俺たちの会話を聞きながら、機を見計らっていたのかもしれない。 「たいていのお店は、一度ボイルしたモツを仕入れてるんだけど、うちでは生のまま仕入れてるのよ。だから、弾力が全然違うの」  そういうことだ。以前、別の店で似たモツ煮定食を食べたことがある。その店はメニュー表の端に、女将さんが説明したような解説を載せていたので、ここも同様だろうと思っていた。  いただきます、と俺と女将さんを交互に見ながら言った鍵谷の奥で、武部も興味深げにモツ煮を見ていた。 「うわ、うまっ!プリプリしてるし、全然臭みがない。内臓って感じしないわ」 「でしょ?」  誇らしげな女将さん。俺も少し嬉しくなる。 「これはご飯が進むわ」  勢いよくご飯をかきこみ、お茶を飲むようにハイボールを流し込んだ。 「すごい。ご飯食べながらお酒飲めるんですね」 「ん?湊君は、やらない?」 「俺は、ちょっと。飲みながらだと、あんまり食べられないかな。特に炭水化物は」 「そういえば、この前もちょっとのツマミだけで飲んでたな」  武部が前屈みになって顔を出す。鍵谷が大柄なので、目を合わせるには姿勢を変える必要がある。 「消化とアルコールの分解が同時にできないみたいで。あんまり食べると、悪酔いするんです」 「ふうん。単に弱い、ってのとは違う感じ?」 「多分。強いってこともないですけど」  人並み。ペースを調整すれば、それなりの量を飲める。ただいつも、深く酔う前にやめる。酔っ払った自分に、崩れたようになっていた彼女の姿を重ねてしまうことがあるのだ。 「まあ、そういうわけだから、遠慮なく食べちゃっていいですよ」 「うわ、太っ腹。でも悪いから、後で半分払うよ」 「え、別に構わないですよ」 「いいから払わせとけ、湊。そいつに奢ってやることなんてない」 「いや、なんでそんなに当たりが強いのー、亘君!」 「一人飲みを邪魔したからだ。わざわざ天気が悪い日を狙ったのに」 「まだそれ言う?ほら、モツ分けてあげるから」  鍵谷が椀を差し出したのへ、 「それは湊のだろうが!」  と突っ込みながらも、箸を伸ばした。食べるのか。別にいいけど。気になってたみたいだし。  モツをゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ武部が、 「美味い。ありがとな、湊」  頷き返す。それにしても、 「あの、二人ってどういう知り合いなんです?」  上辺の印象だけだと、どうしても水と油のような二人。それでいて彼らは、どこか深い部分で親しい。 「ん、ああ、鍵谷とは同じ部活なんだ。軟式野球部」 「タメだから、よく話すんだよー」 「へえ」  野球。鍵谷はスポーツをやっていても違和感がないが、武部が運動部に入っているとは。 「緩い部活だけどな。最近は俺、全然顔出してないし」 「そう。なんで亘君、来ないのさ」 「寒くなってからは基礎トレばっかだから。野球できないなら、バイトした方がマシ」 「武部君とタメってことは……」 「ああ。湊とも同じ、三年だ。こいつは、初等教育学科」 「え、マジ?湊君タメなん?なんで敬語?」  ちょっと鍵谷が身を乗り出してくる。距離感。苦手だ、やっぱり。 「これは、まあ癖で。慣れたら、タメ口になります」  実際、今は仲の良い友達とも最初は敬語で話していた。まずは距離を置いて、相手を観察する。そして自分に害がないことを確認してから、距離を縮める。それが俺の人付き合いだ。 「そっか。じゃ、タメ口使ってもらえるよう頑張るわ」 「え?」 「ほら、同じ釜の飯、っていうか器のモツ?を食べた仲だし。これはもう友達になるしかないでしょ」  なんだ、その理屈は。どうしてこう、この連中は他人との垣根が極端に低いんだ。 「それに、こういう渋いお店に通ってる人と、仲良くなりたいんだよね。普段一緒に飲む先輩や友達って、なんかギラギラした店ばっかり行きたがるから」  ああ、やっぱりそういう交友関係なんだ。鍵谷の顔が、すっと曇る。 「最近さ、思うんだよね。俺、こんな髪型してっけど、意外とあの人たちと合わないなあって」 「だから、早いとこ縁切れって言っただろ。所詮お前は大学デビューにちょっと成功しただけの、真面目君なんだって」 「いや、でも……、あの人たちとつるまなくなったら、亘君みたいに友達いなくなりそうで……」 「殴るぞ、おい」  ほう。どうやら、鍵谷は根っからのパリピではないらしい。店に入ってきた当初の声量と今とで差があるが、今が素なのだろうか。  純粋で人懐っこいだけの男が、カースト上位のチャラい連中に取り込まれた。そんなところか。可哀想に。  実際に拳を握りしめた武部から逃げるように、鍵谷がこちらを向いた。 「でもさ。よく、ここを知ってるよね。結構、大学から離れてるじゃん?ネット?それとも、誰かに教えてもらったとか?」 「おい、やめろ」  武部が制した。線。人にはそれぞれ、踏み込まれたくない縄張りを心の中に持っている。その境界線に、つま先で触れられた気分だった。  武部は何となくだが、俺の過去に何かがあることを察しているのだろう。鍵谷を制する声が、強張っていた。  彼に悪気はないんだ。そう自分に言い聞かせる。喉。緊張した筋肉から、力を抜き取る。   いいですよ、と武部に向かって笑った。 「サークルの先輩に、連れてきてもらったんです。去年に、数回だけですけど」  これ以上は聞くなよ。眼だけに力を込めた。視界の端で、女将さんが下を向いて作業をしている。照明の加減のせいか、その顔に濃い影が差している。 「そ、そうなんだ……」  気まずそうに、鍵谷は目をそらした。さすが、仮面パリピ。思っていたほど無神経ではない。  それからは、他愛ない話をしながら適度に飲んで食べた。  店を出る間際に、鍵谷の提案でLINEを交換した。彼はすぐさまグループを作り、俺と武部を招待した。 「お互いの都合が合えば、またここに集まろうよ」  その言葉に、俺も武部も渋い顔をしたが、断らなかった。顔を合わせたくないと思えば、都合が悪いと言えばいいだけだ。  三人で一緒に店を出た。霙は止んでいて、湿気を含む寒気と、足もとのシャーベットだけが残っている。  駅までの道。途中で、鍵谷が抜けた。アパートがこの辺りだという。  武部と二人になって歩いていると、 「悪かったな。うるさい奴、連れてきて」  歩きながらの謝罪。 「構わないですよ。楽しかったです。でも意外でした。ああいう人と仲が良いなんて」  否定は、返ってこなかった。 「最初は俺も、苦手なタイプだって思ってた。けど、新歓コンパでさ。俺が先輩から無理に酒飲まされそうになってたのを、助けてくれたんだ。代わりにイッキ飲みして、すぐにトイレで吐いてたよ。ただ騒がしいだけじゃなくて、ちゃんと人のために身体張れる奴なんだ。今まで二年とちょっと付き合いがあるけど、話聞いてみると、結構無理してるみたいで。突き放すのは可哀想かなって」 「分かります、なんとなくだけど」 「お前まで、無理に付き合わなくていいからな。嫌だったら、断れよ?」 「大丈夫ですって。次に集まれるの、楽しみにしてます」  軽く笑いながら言うと、安心したように肩を下げた。そっか。白い息と共に出た、微かな言葉。  歩く。ベチャベチャという水音が、暗い道に響く。 「なんか、半端だよな。俺も鍵谷も」 「何がです?」 「ほら、あいつ、そこらの騒がしい連中みたいな格好して、表面上はウェイウェイしてるのに、一皮剥くとおとなしかったり」  そこらの連中も、意外とそういう感じかも。思ったけど、言わなかった。 「武部さんは、いつも一人で落ち着いてて、いいじゃないですか」 「どうかな。確かに静かに飲むのが好きだけど、反面、趣味が合う奴と酒を酌み交わすことを望んでたりする。最近、〔柏葉〕に行くときは、お前がいるかもな、って期待してる自分がいるんだ」  なんてな、と照れ笑い。酔っているんだろう。そう解釈することにした。 「まるで、霙だよ。雨でも雪でもない。雪みたいに綺麗に積もることもできないのに、雨みたいに流れていくこともできない」  水音が強くなった。何か返事をしよう。思いながらも、言葉が浮かばず、気づけば交差点に着いていた。右に曲がれば駅。直進すれば、俺が住むアパートがある。 「じゃあな」  軽く手を挙げ、武部が去った。その背中に、曖昧な言葉を返す。  アパートへの道を、歩き出す。  霙。それは、自分にこそ相応しい比喩ではないか。  だらしなく地面に居座り、泥にまみれた、その雨とも雪ともいえない中途半端で汚らしい姿は、自分にこそ似ている。  苦しい。胸の中だ。締め付けられるというより、すがりつかれているような圧力。崩れそうになるのを、強く地面を踏みつけながら歩くことで耐えた。   ボトムスの裾が、跳ね返ってきた水しぶきで冷たく濡れた。
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