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上階の客 第一話
大都会は酔客にあふれる週末の夜を迎えていた。あちこちの店舗の外壁から、景気良く放たれる色とりどりのネオンサインのどれもが眩しかった。
午後九時をまわった頃、高層ビル群の一角、高級飲食店が建ち並ぶ、この街一番の大道路の傍らに、一台の真っ赤な高級車が停車した。歩道を行き交う、仲睦まじいカップルや、仕事帰りの勤め人たちの多くはその歩みをやや緩めて、その高級車の輝きに見惚れた。
羽振りの良い人々が多く行き過ぎるこの辺りにおいても、ひときわ輝いて見える、そのスポーツカーの車内には、これを運転してきた、堂々たる風采の若き男性が座り、助手席には全身を高級ブランド品で包んだ、妙齢の魅惑的な女性が収まっていた。いかにも富裕層を思わせる雰囲気を漂わせる、三十代前半と見られる紳士の方は、隣の車線を猛スピードで行き過ぎる車の影や、こちらに注目しながら歩道を歩んでいく一般人たちの様子を確認しながら、この車から降りるタイミングを見計らっていた。連れ添っている茶色い髪の容姿端麗の女性は、ずいぶんとほっそりとした、魅惑的な身体つきの持ち主だった。特に人の目を引くのは、高級ブランド物の真っ赤なドレスからはみ出す、そのか細い脚であり、こちらから眺めてみても、今にも折れそうなほどに見えるのだった。二人をここまで運んできた美しい外車の眩ゆいライトを、その視界に確認すると、お目当ての高層ビルの中から、黒いスーツ姿の男が一人歩み出てきて、大通りの方へと静かに寄ってきた。そして、厳かな態度で車のドアをなるべく余計な音を立てぬように開いた。それを確認にしてから、主賓である男性は、周囲の人間の目を多少は気にしながらも、見事な身のこなしで、ゆっくりと地面に降り立ったのだった。
会員制のフランス料理店で味わった、先ほどの晩餐は素晴らしかった。おそらく、政財界においても飛び抜けた存在といえる、この自分を喜ばすために、特別にしつらえたディナーであったのだろう。欧州でも三本の指に入るといわれるほどのシェフが、明らかにこの自分の存在を意識していたわけだ。その対応については、褒めてやっても良い。もう一度、あの店を訪問する機会を作ってやってもいいだろう。
今夜のために、一週間も前から頭に描いてあったデートコースは、ほぼ予定通りにこなしてきた。これまでのところ、何もかもが上手くいっている夜だ。どこへ連れまわしても、若い女が機嫌を損ねないのなら、これは、運周りも良いと表現してもいいだろう。男はそう思って、今一度、お目当ての女性の横顔に目を向けて、内心ほくそ笑んでいた。
「お待ちしておりました。皆様のご来店、まことに嬉しく思います。これから、ご予約されたフロアへとご案内いたします」
出迎えのスタッフは深々と頭を下げながら、にこやかにそう告げたが、男性はそれには一目もくれずに、助手席で待ち受けていた連れの女性の手を引いてドアの外へと連れ出した。
「ずいぶん、乗り心地のいい車ね。かなりの速度で走っていたのに、全然揺れなかった……。一度のブレーキですっと止まったし……、これって、私は初めて乗るのよね? ねえ、いつ買ったの? わたし、知らされなかったから……」
「実は、この車が届いたのは、つい昨日のことなのさ。だから、その助手席に座ったのは、君が最初の一人というわけ。これは欧州でニ週間前に発表されたばかりの最新のベンツなんだ。だから、この国での発売日や価格はまだ決定していない。その辺の情報通が販売店に問い合わせたとしても、決して、いい答えは返ってこないだろう。名うてのカーマニアでも、この車の性能に関する情報については、まったく掴めていないと、そういうことになる。まあ、今回は僕の方で早めに動いてね。知人のディーラーに大金を掴ませて、どうしてもやってくれと、無理に頼み込んで、発売日よりずっと早くに輸入してもらったんだ。人より先んじるという、こういう愉悦に浸るためにはね、お金の力だけではダメなんだよ。知恵、人脈、そして権威、その全てが揃っていないとね……」
男は何でもないことをやってのけたかのように、控えめな声と手ぶりで、そう説明してみせた。その憎たらしいほどの落ち着きぶりは、いかにも、こういった資産家風な台詞を日常的に口にしているのだろうと、思わせたいように感じられた。女は街灯の光を反射して銀色に輝く、高級外車のエンブレムをまじまじと覗き込みながら、もう一度ため息をついた。この最高の車の乗り心地を味わってしまった今、この次に、他のフレンドの安いドライブに誘われたとしても、安請け合いはできなくなったと痛切に感じた。
「もしかして、私を驚かすために、わざわざこれを買ったの? きっと、そうなんでしょう?」
いくらかの期待を込めた、この茶化した問いかけは、遊び半分のモノであった。男は当たり前だとでも言わんばかりに、少し苦笑してみせて、あとはいっさいを答えずに、ビルの入り口へと歩み寄っていった。男は出来る限りの金を積み、女はその装備や振る舞いから、したたかに相手を値踏みする。どちらが獲物なのかはまだ分からなかった。ただ、お互いに勝負の時を感じていた。女は手鏡を一度取り出して何度も点検してきたはずの身だしなみを、金色の背景に浮かび上がる鏡の中で、もう一度だけチェックして、これから連れていかれるであろう高級店に恥ずかしくない外観であることを、今一度、自分の視覚で確認してから、男の後を小走りに追いかけていった。
「ここには、知り合いの企業幹部たちとも、たまに来るんだよ。互いに誘い合ってね。言うまでもなく、低賃金でどんな仕事でも引き受けて、社会の底をネズミのように駆けずり回る、一般の会社員たちが立ち寄るような店ではない。数百万のカネしか動かせないような連中には無縁の世界でね、とにかく、資産家向けの興味深い店なんだよ。君もフランスワインの支払いがただ高いだけの店じゃなくて、そろそろ、こういう店にも通うようにしないとね……」
男はこの場でその秘密のすべてを語ることはなく、出来る限りもったいぶってそのように語った。二人はスタッフに勧められるまま、自動ドアの外観からして金箔に染まる、豪奢なエレベーターに乗り込んだ。内部もなかなか豪勢な造りで、十人が入れる程度に広かった。店のスタッフは二人が内部に収まったことを確認してから、三十五階まで一気に駆け上るボタンをさりげなく押した。壁にはこのビルに居を構える、高級店の案内がずらりと掲載されていた。女はずいぶん値段の張る店に行くのだなと思い、さらに身を強張らせて、極度に緊張した様子を見せるのだった。
「いらっしゃいませ、さあどうぞ、お足元にお気をつけてお降り下さい」
目的のフロアにたどり着いたことを確認すると、スタッフは高らかにそう告げて、この賓客を自らの店の入り口へと案内していった。彼の表情や態度には、どんな無礼や失敗も許されぬ緊張感がみなぎっていた。黒い地の看板には、太い金の欧文で店の名前が綴られていた。辺りはなぜか異様なほど静かだった。これまでに通ってきた、いくつかの名うての高級店でも見たこともないような白金の豪華なシャンデリアが、橙色の光を放っていた。フロアの隅に置かれた、優雅なオーク材のテーブルには、上品そうな西洋の壺が飾ってあった。格式と伝統と隠された知性。まるで、妖女たちが笑いながら誘う、ギリシャ神話の内部へと飲み込まれたような感覚すらした。不思議なことだが、その清楚で落ち着きのあるフロアには、この二人の他には、客は存在していないかのように感じられたのだ。どういうことだろう? このフロアの面積自体は、とても広く感じられるというのに。
「このビルの下の階にも、多くの飲食店が並んでいて、もちろん、かなりお値段高めの飲食店が並んでいるわけなんだけど、あくまで一般人向けのお店だから、予約さえ取れれば、誰だって入れるわけなんだ。例え、貧乏リーマンだって、その財布のほとんどを叩けば、入れる人もいる。でもさ、今さら、そんな大衆的な店で飲んだって、つまらないだろ? このフロアだけは、そういう大衆店とは違って、特別な会員制になっているんだよ。つまり、この国の経済界において、よほど、突出した人間じゃないと、そもそも、予約すら取れないわけさ。大物政治家や大企業の幹部クラスでも、相当名前が通っている人でないと、ここに通うのは無理なんだよ。ありがたいことに、僕は親父が財閥系企業の幹部をやっているおかげで会員になれたんだけど……。ただ、このところ忙しくて、時間が許してくれないから、週に一度くらいしか利用できていないけどね」
男は次第につのる焦りをなるべく抑えつつ、外見上は余裕たっぷりの態度により、愛想よくそう説明した。男女間の恋愛における、いわゆる、引き込みの場面においては、第三者が耳にすれば、一聴してくだらない、不必要とさえ思える解説でも、後で功を奏することがままある。『財閥系企業』という強力無比な名詞には、こういった状況において、かなりの効力があるのかもしれない。この女は自分に向けられた、安っぽい自慢話ともとれる、そのセリフを聞いたところ、ここまで行動を共にしてきた、この男の素性がやはり素晴らしいものなのだと再認識したのだった。しかしながら、その硬い防御はまだ崩せたわけではない。資産というものは、必ずしも普遍的なものではない。『OKにはまだ早い』男性の内面の全てを見通すまでは、なるべく、その控え目な態度を保持することにした。男女間の緊迫する諸場面において、その対応を前にして慎重になるのは、何も釣り師の方だけではない。池の中で泳ぎ回る、一見無防備な魚の方も同様である。
「こんな高級な店には入ったことがないから、足を踏み入れるのが怖いわ」
「従業員への礼儀や特別なふるまいなど、何もしなくていい。それは僕の方でやる。君は一番のゲストなんだから、お酒を楽しむことだけに集中して、無駄に緊張する必要は何もないんだ。後はただ目的のものを見学して、素直な感想をくれればいい」
男は女の肩を優しく支えて、ごく自然な態度で店の中へと連れ込んだ。スタッフに案内されて通された部屋は、一目では視界に入りきらぬ、二十五畳ほどもある広大な貴賓室であった。壁紙も床も真っ黒に染められ、ソファーやテーブルの表面の色すら黒に統一されていた。高級感に溢れ、スタッフの態度も含めて、上品で落ち着いた空気に包まれていた。壁際の黒檀の棚には、いかにも値打ちのありそうな金箔のゴブレットや、世界各国から取り寄せられた酒の瓶がずらりと並べられて、この場の上質な雰囲気を、さらにいや増していた。ドアの対面側の方向には、すべて窓ガラスになっていて、大都会の荘厳な夜景をひと飲みにしていた。女はこれまでの堅い態度を打ち崩し、思わず窓に駆け寄って、「すごい光景ね。こんな美しい夜景を見たこともないわ」と、思わず驚きの声をあげることになった。男はその称賛の声を聞いて、さもありなんと満足そうにうなずき、「まあ、この辺りのビル群からの光景と比較しても、値段や高さを比較しても、このフロアは完全に頭ひとつ抜けているからね。夜景の名所が多い、都心のこの一画においても、有数の眺めだと思うよ。ただね、これは君へのプレゼントとしては、ほんの一片に過ぎないんだよ。僕の愛を表現するには、余りにも安っぽいね」と意味深な相槌を打った。
「つまり、君をここへ連れてきたのは、何も美しい夜景を披露するためだけじゃないんだ。実は本当に見せたいものは他にある」
「他にも、何か仕掛けがあるの? まさか、私を楽しませるためだけに?」
「そうそう、ぜひ、君だけに見せたいものがあるんだ」
「この広い部屋の中には、まだ他に秘密があるの?」
彼女がけなげに戸惑う様子を眺めて、男は少し安堵して微笑み、その清純で素直な問いかけに対して、小さくうなずいて見せた。
「何だろう? 窓の外の夜景がすごくきれいだけど、それは関係あるの?」
「まったく関係ない! とは言い切れないな。少しは関係ある」
女は何とかその謎を解いてやろうと、しばらく考え込んでいた。貴重な夜の時間の中で、すっかり余分な空気となって消えた数分が流れ切った後で、やはり、自分には、これから何が起こるのかわからないと無難な答えをだした。しかし、その含みのある表情には、これから繰り出されるであろう、その神秘的な答えに対する、大きな期待がありありと浮かんでいた。だが、男は今宵の勝負の決定打となりうるその解答について、簡単に教える気は無いようである。まずは、軽い混乱と動揺を見せている、彼女の白い手を優しく取って、窓際のソファーに座らせた。
「まず、お酒でも飲んで落ち着こうか? それから本題に入ろう」
男が中央のテーブルの横についている、スイッチを押すと、それは部屋の外で待機している、この店のスタッフへと響く呼び鈴になっていた。ほとんど時を置かずに、黒い壁の一部が音もなく開いて、店の専従スタッフが姿を現した。
「俺がこの間開けたムートン・ロートシルトは、まだキープしてあるんでしょ? ここにいる彼女の発来店、その記念すべき夜に、あの高級ワインを飲もうじゃないか。ワインセラーから持ってきて、この子についであげてよ」
スタッフは慇懃に一礼した上で、かしこまりましたと丁重に答えて、引き下がっていった。
「そんなに高いお酒じゃなくていいわよ。わたしは別に水でもいいの。さっきの店でも、出てくるのは高級な料理ばかり……。もうずいぶん、ご馳走になっちゃったし……」
「いいから、もっと、この特別な夜を楽しもうよ。これから輝く未来に向けて、強い関係を築いていこうとする、男女の酒宴において、シャトーのワインほど気分をほどよく盛り上げるものはないからね。他にも食べたいものがあったら、遠慮なく好きなものを注文してね」
疑問と興奮を残したまま、飾り時計の針は進んでいき、さらに半刻ほどが経過した。女は十分に酒を飲み、高価な料理の皿を、いくつかたいらげた後で、再び元の疑念を持ち出して、男の肩にしがみつきながら、こう尋ねた。
「ねえねえ、あなたのことだから、この店のどこかには、他では考えられないような、大きな秘密がまだ隠されているんでしょ? いったい、何があるの?」
「そろそろ、本当のことを知りたいかい?」
古来から、目的の女性を陥落させるためには、多くの金と時間が必要といわれているが、そもそも、現代人にとっては、時間という概念は、決して無限とはいえない。そろそろ良いタイミングかなと思い、男は再びスイッチを押して、店のスタッフの一人を部屋に呼び込んだ。
「いつものあれを見たいんだが。すぐに準備できるかい?」
「かしこまりました。少々お待ち下さい。準備を整えて参ります」
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