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上階の客 第二話
その不明瞭な指令を受けたスタッフは、この不思議な部屋に未だに見えてこない、いくつかの疑惑を残したまま、奥の控え室へと足早に消えていった。少しの沈黙。緊張と期待に心を揺らされた。しばらくすると、部屋の内部にカチッという小さな音が鳴り響いた。さして、注意を引くような音には聴こえなかったため、それが何を意味するのかは、まだ分からない。しかし、次の瞬間、状況が激変したことによって、女は驚愕のあまり、ソファーから滑り落ち、思わず絶句してしまった。これまでは確かに何も見透せなかったはずの足元の黒い床が、一瞬にして、すべてガラス張りのように透けてしまい、階下に広がる、他の多くの店舗の様子が、すべて丸写しになってしまったのだ。そこでは大勢の来客が、勧められた酒によって、すっかり酔っぱらって、与太話を語り合い、愚にもつかないエピソードで笑い合い、また、昔話に泣き合い、肩を組んで歌い合い、周囲にはばからず、ひとり残らず愚かな姿をさらけ出し、互いに実直な日常も、その身分も全てを忘れ去って、肩を抱き合い叩き合い、美男も愚者もその脳髄に至るまですっかり酔いが回って、様々な特色を持ったグループの間で、似たような馬鹿馬鹿しい行為が行われ、一連の愚行をひたすら繰り返すことにより、さらに盛り上がり、はしゃぎまわっていたのだ。
「ちょっと、これは何?」
男は努めて平静を装い、正気を失っている女の質問にはいっさい答えず、その狼狽ぶりを見て、しばらく楽しそうに笑っていた。下の階のフロアは壁とカーテンと分厚い衝立によって、いくつかの個室に区切られてはいたが、上から展望すれば、そのすべての部屋の詳細を、万遍なく一望することができるのだった。そのきわめて愚かしく、しかも華やいだ祭り騒ぎを目の当たりにして、しばらくの間、女は自意識を見いだせず、その状況を言い表すための声を出すこともできなかった。自分の目のすぐ下において、五十人以上もの人間が、各々グラスにつがれた酒を飲みながらも、昼間の自分にはとても表現しきれない、壊れ切った世界を堪能しているのだ。巨大な経済社会の一兵卒として、脳なしの上司に命じられるまま、半ばロボットのように、ただ、ひたすらに流れてくる仕事をこなしている昼間の自分を、アルコールの力によって、少しでも忘れたいがために、ここへやってくるのだ。
これまでも、この男に連れられて、グレーゾーンに位置するような、いくつかの風変わりな店を体験してきたわけだが、この店の斬新極まるギミックには、さすがに肝をつぶされる思いだった。
「これって、下の人達は……、こうやって上で見ている、私たちのことが見えていないの? 自分たちの醜態が覗かれていることに、まったく、気づいていないわけ? 当然、そうなのよね?」
女は階下の人間喜劇から、怖さのあまり目が離せなかった。相手方のプライバシーを一方的に侵害しているわけで、思わず見てしまう、という行為自体にも罪悪感を感じずにはいられない。時間がさらに経過して、階下の盛り上がりがいや増すに連れて、さらに恐怖が増して、消え去りそうなほど小さな声で、隣に佇む男にそう尋ねた。
「もちろん、そうだ。お互いに見えていたら、ちっとも面白くないだろ? そこは安心してよ。この世界においては、公平という概念にいっさいの意味はないんだ。下にいるバカな客たちは、上の階の店舗の床が、つまり、自分たちのフロアの天井が、このような仕組みになっているとは、まったく知らないでここに来ているんだ。その決定的な真実を何も知らないで、堂々とここまで酒を呑んで騒ぎまくって、いやはや、今宵は愉快だと、宴席を楽しんでいるわけさ」
「そんなこと、とても信じられない……」
「声も聞いてみるかい?」
男がスタッフに次の合図を下すと、今度は階下において、集音マイクのスイッチが入れられたようで、床の下の愚かしい酔客たちは、いっせいに喋りだした。これにより、何の意味も持たない、多くの恥と無能劇が上階側へと勢いを増してさらけ出されることとなった。
ここに到着するまでは、この店の本質を何も知らされずに、のこのこと付いてきてしまった女としては、この恐ろしい情報公開の仕組みが、下から上への完全な一方通行であることを悟り、心に突然湧いてきたその不安は、少しずつではあるが、解消に向かっていた。『他人の恥部を覗き見るという悪行に加担しているのでは』という、一時の衝撃から覚めてくると、今度は逆に未知の世界への興味が湧いてきた。それから、十分も経つ頃には、先程までの狼狽ぶりが嘘のように、夢中になって各部屋の様子を見入るようになっていた。そのうち、男は女の注意を引き、下の左側の部屋の数人の男性を指差した。
「あれは、俗にいうインサイダー取引というやつだよ」
そこでは、政治家らしき風格を持った紳士と、その対面に座っている証券業界スタッフとおぼしき数人の男性が、ずいぶん前から密議をこらしていた。二ヶ月後に、ある製薬会社の画期的な新薬が、厚生省により認可される見込みである、という機密情報を得たため、それに関連している、いくつかの企業の株価が大幅に値上がりすることを、事前に予告しているのだ。業界人たちは株価が大きく動くと思われる企業のパンフレットを一部ずつ差し出して、政治家に対して、どの程度の値動きが見込めるかを示してやり、その見返りとして、茶封筒に詰められた多額の紙幣を受けとっていた。男は次に右端の部屋を指差した。
「見てごらん。あそこはきっとスポーツの八百長会議だね」
女がそう言われるままに、端の方にある別の店の一角に視線を向けると、ノーネクタイに黒スーツ姿の数人の男たちが集まって寄り添い、次はどこどこの競馬場で、BとDという騎手が、スタート直後にわざと出遅れをやらかすとか、プロ野球においては、今現在、快調に首位を走っている球団のYという投手が、次の日曜日のナイターで思いもかけず、めちゃくちゃに打たれてしまい、負け試合を演出するとか、そういった裏情報の取引をしていた。
もちろん、ギャンブルやスポーツの試合の結果には、裏社会が管理している、あらゆる賭博場において、大昔から、ほぼ日常的に多額の金銭が賭けられているわけだ。そういう状況において、裏情報を知り尽くしている、ここにいる僅かな人間だけが、そのギャンブルに大勝ちして、ほぼノーリスクで大金を得られる仕組みである。『人間が自分の足を用いて走るわけではない』という至極真っ当な理屈から、他のスポーツなどと比較すると、手加減の強弱は難しいという理由から、競馬での八百長というものは、やや信憑性に欠けると思われがちだが、それでも、本来逃げる予定のない馬が、場内に長年居座る予想屋たちの想像も裏切る形で、大きな逃げをうったり、出遅れ癖のないはずの馬が、大きく出遅れたりすれば、それを事前に知らない他のギャンブラーたちと比較して、的中率の上で、大きく有利になるのは自明である。野球やサッカーはもちろん、この上階から見た限りでは、陸上競技や相撲などの裏情報も取引の対象になっているようだった。男たちは情報元の話を注意深く聴きつつ、予想に使えそうなネタを一つ得るたびに、いくらかの謝礼を支払いつつも、忙しそうにメモをとっていた。
この賑やかな階層には、そういう裏社会の腹黒い人間たちばかりでなく、もちろん、一般の飲み客も多く含まれていた。すでに大金をつぎ込んだ男性側が、高級日本料理やボルドー産のワインを注文して、その上、ご自慢のトークで、ここまで連れ込んできた、獲物となる美女たちを、なんとか口説き落とそうとしている。そのような、十年一日のようなカップルたちの駆け引きから、テレビでよく見かけるお笑い芸人などのゲストも招待されて、華やかに進行している、一流企業の合コンの様子まで、鬼も蛇も含んで、その様子は多様である。下の客たちとしては、絶対にばれようもない秘密と決め込んだ自分たちの痴話が、すぐ上の客たちに筒抜けになっていようとは、露ほどにも思っていないわけで、どんな気恥ずかしいやり取りも、後ろめたい過去の暴露も、周囲の目などは、まるで気にしない形で言いたい放題である。その単純な行動のすべてが、油断と慢心に塗れている。階下の店も、二時間で十数万程度の使用料が要求される、相当な高級店であるから、彼らにも相応のプライドがある。誰もが、自分たちを覗き見る人間が存在しようなどとは、そもそも、思ってもいないのだ。
企業社会全体には、さしたる意味をもたらさない、馬鹿馬鹿しい宴会は当事者たちの意識が途切れるまで続くようで、さらに時間は経過していった。その頃には、自分を他人を嘲笑う立場へと引き上げてくれた、頼りになる勝利者の肩に上半身を預けながら、女はときに真剣な表情で、ときに大笑いしながらも、下の階の人間たちの会話や多種多様なるバカバカしい振る舞いを、十二分に堪能していた。特別な待遇として与えられた、この貴重な時間において、愚純な人々を上から見下ろすという優越感を体感することに、すっかり虜になった。再び笑われる側に戻っていくことに畏怖さえ感じていた。その様子を見て、男はとどめを刺すようにこう言った。
「つまりさ、この店の仕組みは、今の経済社会の形態と、まったく同じなんだよね。下にいる人達にも、それぞれの責任や立場があるだろうし、仕事の上では、勉強を重ねて経験を積んで、自分の勤める会社の内外の、あらゆる勝負事に否応なく挑んで、厳しい競争に晒されながら、それに勝ったり負けたり、何とか生き残るということに力を尽くして、がんばっているわけなんだ。でもね、残念ながら、もっと上に立つ人間たちの位置から見ると、一見蟻のようなそのせわしない行動の全ては、常に覗き見られているわけで、その労働の価値もたかが知れているのさ。例え、そのカーストに嫌気がさして、上の階層に向けて反抗しようにも、自分たちの位置からでは、上階にいる人間たちの姿や行状を覗き見ることも、その命令に逆らうことも出来ないわけだね。この資本主義社会における厳しい生存競争の中で、それぞれの階層に明確な境が生まれるのは、ある意味では仕方ないことだ。社会のトップに立つ人々が楽をしているとは言わない。上の人間には上の人間だけの世界がある。孤独で静かで、ある種の悟りの中にある……、つまり、あらゆるものから隔絶された世界がね……。まあ、その台詞を言ってしまうと、僕としても、少し寂しくなるけどね」
男のその口ぶりには、この先においても、自分の側にいれば、ずっと上の世界が楽しめるぞ、とでも言いたげだった。この頃になると女は、この国のカースト制度の完全なる勝利者に見えるこの男に、この上は身も心も捧げてしまい、何が何でも後をついていこうと思うようになった。目の前にたゆとっていた釣り針に、今夜の目当てであった獲物が、今度こそ喰いついたようだった。
二人は外の美しい夜景と、長きにわたって、階下で飲み客たちによって演じられる、波乱万丈の世界を心ゆくまで楽しんでいた。やがて、スタッフの一人がゆっくりと男の傍に近づいてきて、「懇意にされている、舞台俳優のA様が下の階におられますが、挨拶に行かれますか? よろしければ、ご案内いたしますが」と丁重な態度で尋ねてきた。
「そんなこと、どうでもいいよ、今夜は彼女がいるわけだし、大した用もなしに、ここを離れられないから」
「いいの? 映画とかテレビドラマでよく見かける、あの方よね? こちらから行って、顔を見せておかないと、後でまずいんじゃないの?」
女は少し心配そうな顔をして、わざとそう尋ねた。
「いいんだ。そんなこと、別にたいしたことじゃない」
この決め台詞がこの男の品格を、また一段高めたことは疑う余地もない。二人はそれから、さらに一時間以上にわたり、社会の裏側の様子をのぞき見て、楽しんだ。
「今夜は、ほんと、面白かった! これぞ、人間社会の縮図って感じね。こんなに凄いものが見られるとは思ってもみなかったわ」
女は酒の勢いも消えぬまま、少し興奮気味にそうはしゃいだ。
「まだ、時間に余裕はあるんだろ? なんなら、もう少し他の店で遊んでいくかい?」
男としては、これまで懸命に隠していた自分の焦りが、その表情には決して表れないように、慎重に言葉を選んで、そう尋ねた。言葉は冷静に発せられたわけだが、心臓は高鳴っていた。高級ホテルの予約とて、何時までも取れるわけではない。この自分にだって、明日の予定はあるのだ。さりげない素振りで腕時計の針を見れば、最後の誘いをかけるには、もうすでに、ぎりぎりの時刻だと感じていたわけだ。
「もう、お腹いっぱいよ。どうせホテルにしても、私が驚くような、豪華なところを予約してあるんでしょ? 早く連れて行ってよ」
女は花と蝶の自然なやり取りのように、何かを伝えようと、密かに目配せをしてから、大胆にもそう答えた。その軽い性格に不釣合いなほど、恋愛における判断は慎重であり、総合デパートや夜の歓楽街をほんの数時間連れ歩くだけで、やたらと金がかかる女であった。ここ数日間、自宅に届けられてくる請求書に脅えるほどの高い貢ぎ物が続いたわけだが、ようやく、待ち望んでいた台詞が出てきたので、男は取りあえず胸をなでおろした。もちろん、そんな大勝利の到来にあっても、自慢の冷静で知的な表情を崩すことは全くなかった。
「そういうことで良いなら、そろそろ、ここを出ようか」
二人は慇懃な態度で佇んでいた、大勢のスタッフに見送られながら、エレベーターで一階まで降り立ち、そのまま、自慢の車が保管されている駐車場の一角に案内された。しかし、ちょうどその頃、彼らより若干早いタイミングで、同じビルの他店から出てきたと思われる、別のカップルが似たように仲睦まじく連れ添いながら、二人のやや前方において、煌めく高級車に乗り込むところだった。三人ものスタッフが警護のために彼らの後に付いていた。遠目からも納得できるほど、上品に整えられた身なりや、付き添いのスタッフの態度からして、向こうも相当な上客のように感じられた。そのきらびやかな恰好をした、カップルの会話は、吹きすぎる夜風に漂いながら、やがて、二人のところにも届いてきた。
「どう? こういう粋な遊び場も、けっこう楽しかっただろ?」
「うん、最高だった。まさか、下の飲み客の話しているところまで、見えるなんて……」
「下のカップルの間抜けな会話、面白かったな? 自分たちがもっとも羨まれる存在だと、すっかり思い込んでいて……。ああいうのが、本当のおバカさんなのさ。他人の勘違いがはっきりと見られるのが、上級社会の一番の娯楽なんだよ」
「ええ、あのダサい服着た、茶髪の女、頭の軽そうな男の話にすっかり騙されているのに、あんなにも、はしゃいじゃって……、なんだか、上から見ていて可愛そうだったわ」
そんな衝撃的な会話が、二人の目の前で展開されていた。前の二人は後ろで立ちすくむ、階下のカップルの存在には、まったく気づかずに、そのまま、見たこともないような豪奢な外車に颯爽と乗り込み、その見事な加速で、数秒後には、夜の街の彼方へと走り去っていった。
女は前の客のスポーツカーが轟音とともに消え去っていった方向を、脳内に張り巡らされていた、無数の糸を少しずつ解きほぐしつつ、何か深い考え事をしながら、しばらく見やっていた。僅かな時間をおいて、やがてそれらは、怒りへと変わってきたらしく、自分の中で一つの残酷な結論を導き出すことになった。彼女は振り返ると、これまで慕ってきたはずの男のスネの辺りを、尖った靴の先でガツンと豪快に蹴っ飛ばした。
男が悲鳴を上げて、その足をおさえて苦痛に顔を歪めている間に、女は大通りを走るタクシーを呼び止めると、素早くそれに乗り込み、何も気を止めることもなく、男をその場に置き去りにしたまま、さっさと走り去ってしまった。
後に取り残された可哀そうな男は、勝利寸前で逃した獲物を名残惜しそうにその目で追いながらも、力なく一言つぶやいた。
「しまった……、もっと上の階があったんだ……」
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