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龍はスマホを取り出し、花立市役所の公式ウェブサイトを出す。市長室が市民の意見をネットで募集していた。
市長室にコメントを送るには、龍のメールアドレスや名前が必要だ。
急いでフリーメールアドレスと、実名で波風を立てたくなく、適当な氏名を打ち込む。市長室のウェブサイト経由で、花立タワーと土地を、三州鉄道へ売却反対の意見を送った。
数秒してメールに返信があった。“貴重なご意見ありがとうございました。いただいたご意見は、今後の市政運営に反映させていただきます。”だった、メールの送り主は、花立市役所・総務課・市長室だ。
翌日の朝から、龍は仕事前に、花立市内の小学校を巡る。小学校の正門前で、児童の登校に同伴する保護者に、花立タワー取り壊し反対の署名を求めた。
しかし、どこの小学校でも教師から、校門前での署名活動は遠慮して欲しいと頼まれる。小学校関係も家電取り付け工事がある。教師から嫌われて、仕事が減少すれば困るので、引き下がった。
市内の中学校付近でも、同様の理由で署名活動は遠慮した。
だが、高校は違う。花立市内では小中学校で私学は存在しない。全て花立市立だ。高校は市立がなく、国立、県立。私立だった。
次の日は、市内で私学の花立学園高校で、正門前に立っていた。数年前に設立された新設校だ。署名活動をしていた。制服姿の女子生徒の一群が、おしゃべりしながら、やってきた。龍は、他の女子より頭一つ分高い、孫の朱里に目がとまる。同性の同級生と談笑しながら、自転車を押していた。
「おはよう!朱里」
龍の心は舞い上がり、腕を大きく振る。周りの視線を一斉に集めた朱里は、俯いてしまった。
龍の前を、明るく、おはようございます、と挨拶する同級生たちと対照的に、朱里は無言で正門をくぐる。
小さかった孫の背丈が、自分と同じくらいになったのを喜んでいた。
十年前には、朱里の頭は自分の腰に届く程度だ。十年一昔と言うが、遠く過去のように、龍の脳裏を掠める。
花立学園高校前での署名活動を終えた。午前の現場は、個人宅のエアコン取り付け工事だ。
昼休み時間、スーパーで弁当を買う。スーパーの駐車場で軽ワゴン車の運転席で弁当を食べていた。
突然、作業服の胸ポケットでスマホが鳴る。
久しぶりの朱里からのメールだ。うれしさに目を輝かしながら、弁当を助手席に置いて、メールの本文を読む。
『恥ずかしいから、わたしの学校に二度と来ないで』
急いで、“おじいちゃんが悪かった。もういかないよ、朱里ちゃん、ごめんね”と、メールを送るが、どんなに弁当を食べながら待っても、返信はなかった。
朱里が小学生の頃は、集団登校で、一緒に学校へ向うのが二人とも楽しかったのだ。
二週間ほど花立駅前の幹線道路で、空いている時間に反対運動をする。自作の“花立駅&花立タワー取り壊し反対”の幟を片手で立て、署名を求める。しかし、書名は簡単に集まらなかった。道行く人の大半から相手にされない。
三州鉄道の駅員とは、すれ違えば双方、穏やかな表情で挨拶を交わす仲だ。
ある日の朝、駅下の理容店から、親しい家電量販店の男性店員が、出てきた。
「おはようございます。署名お願いします」
息子と同じ世代の男性店員からも、署名を断られた。
「小野寺さん、老朽化した花立駅が新しくなり、リニア特急でしたっけ? それも乗り入れるんです。今の駅では土地が手狭です。花立市の発展には、花立タワーの取り壊しは必要なのです」
「私の考えは違いますね……。花立タワー取り壊しじゃなくて、現在の駅舎を、大幅な耐震補強と拡張工事した方が、安上がりです」
「――花立駅前の駐車場が狭くなります。また、将来を見据えれば、補強やいわゆるリフォームより、基礎からの建て直しをした方が、駅舎が長い年月使えます」
龍は並び立つマンションや建物を見渡す。一番背が高いのは、花立タワーだ。その間に、男性店員は駅前の花立タワーと共用の駐車場から、自家用車に乗って走り去った。
龍には、男性店員の考え方は理性的ではあるが、感情が追いつかなかった。
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