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明日からの話
いっそピーラーを使いたい。桂剥きがそんなに一般的なのか?
医療ドラマで見かける林檎は、病室の窓際で折り畳み椅子に座った女性に桂剥きされていることが多い。途中で切れることなく、最初から最後まで繋げて皮を剥くのは結構な技術だ。
だがあいにく、颯太にそんな技術はない。串切りにした後で皮を剥くことしか出来ないから、全て剥き終わる頃には、最初の一個が茶色く変色し始める。
消毒液の匂いに疲れた鼻には、林檎の甘酸っぱい香りが心地いい。剥くのに多少時間がかかっても、手元へ向けられる目線に焦りを感じても、この香りを嗅いでいると心が和む。
最後の一個くらい、いわゆるウサギの形に切ってみるのもいいかな。
そんなチャレンジ精神を燃やしていた時だった。穏やかに流れていた病室内の空気は、ドアを激しく開け放たれる音によって一変した。
「そうちゃん!」
「照?」
両手を広げた照がこちらに向かって突っ込んでくる。颯太は慌てて果物ナイフを置き、照を受け止めるように立ち上がった。
胸にドンッと衝撃を受け、二歩ほどよろめく。
「よかったよ~~! 心配してたんだよ~~!」
泣いてこそいないが、照は相当心配してくれていたようだった。颯太に話す隙を与えてくれないくらい、
「大丈夫? 元気?」と確認しては「心配だったんだから」と繰り返す。
「ご、ごめん……」
ホテルから電話をしたきり、照に何も連絡していなかった。昨日の今日とはいえ、心配性な照は気を揉んだだろう。
「そうだ!」
「え?」
「そうちゃんが餓死したらどうしよう、とか色々心配になっちゃってさ。僕、気づいたら一週間のうちにこんなにお菓子買ってて」
照はそう言いながら、持っていたディスカウントストアの袋をベッドの上で引っくり返した。スナック菓子や酒の肴の乾きもの──大量の食べ物が和の布団に広げられた。
「食べて食べて!」
「気づいたら、ってレベルじゃないんじゃない?」
颯太にぶどうのグミを押し付ける照を見て、和は楽しそうに笑った。
「いつでも救援物資が送れるように、こつこつ買い溜めてた感じ」
「颯太がビルを出て、まだ一週間も経ってないよ」
「心配で仕方なかったんだってば!」
和と話している照を見て、思わず鼻の奥がツンとする。
どうして餓死すると思われたんだろう? 入院しているのは和なのに、自分への救援物資を持ってきてくれたのか? ツッコミどころは山ほどあるのに、嬉しくて……いや、感動して何も言えない。
颯太が黙っていると、和に「よかったね」と微笑まれた。
「照、心配かけてごめん……」
「昨日のこと? ううん、電話くれて嬉しかったよ」
即答してくれる照の笑顔に胸が温かくなる。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
きっと照にとってこの優しさは当たり前なんだろう。嬉しくて、どうにもくすぐったい。言葉には出来ないが、今の自分の顔は相当にやついてるに違いない。
「あ! そういえば、和くん。この様子だと二人はハッピーエンドな感じ?」
何気ない質問でもするように、照はこくりと首を傾げた。
「そうだよ」
そして何気ない回答でもするように、和はにこりと笑っている。
「じゃあ、そうちゃんはまた和くんのところに住むの?」
「そうなるよ」
「そっかー! 和くんよかったね!」
「うん、ありがとう」
ツッコミ不在のまま繰り広げられる会話に、黒い目がしぱしぱしてくる。
え、何も言ってないのに……。
「もちろん、大学にも戻るんでしょ? そうちゃん?」
「……えっ、あ……ごめん、何?」
「復学、するんでしょ?」
「ああ……近いうちに一度、大学へ相談に行こうと思ってる」
学費は和が立て替えてくれることになった。ストレートで司法試験に合格し、必ず細谷法律事務所に就職するという条件付きで。和への借金も出世払い、ということにさせてもらった。
「やった! ねえ、そのとき僕もついてっていい? それで、帰りに駅前でランチしようよ! 兄さんのお金で!」
「え、細谷さんの?」
どうしてそんな話になるんだ? 颯太が眉をひそめると、照は「いいの、いいの」と声高に言って腰に手を当てた。
「これは、テレホンカードの罰だから!」
「テレホンカードの、罰?」
単語を聞いただけでは、内容の検討もつかない。
颯太が質問しようとしたとき、「照、うるせえ……」とぼやきながら、竜一が病室に戻ってきた。竜一は照を迎えに行っていたはずなのに、戻ってくるまでに随分と時差があった。いや、照が駐車場から走ってきてくれただけか。
「こいつ、勝手に親父のテレホンカード使ったもんだから怒られてやんの」
「え?」
「いいの! 今回のは正しい使い方だった!」
「うっかりプレミアが付いたカードを選んじまって、毎月のバイト代から天引きされることになったんだよな?」
竜一の笑顔に比例して、照の表情が険しくなる。
「兄さんも同罪だって言ってるのに、折半してくれないなら訴えてやる!」
「見て見ぬふりは犯罪になりませんので悪しからず」
「うううー!」
「吠えろ吠えろ」
「鬼めー!」
テレホンカードというからには、きっと颯太が受け取ったカードのことだろう。今の時代、大学生がテレホンカードを使う機会なんてそうない。
もしそうだとしたら、その罰は自分が受けるべきじゃないか?
「え、っと……」
口を挟めずにいると、竜一はにやりと笑って颯太の名前を呼んだ。
「もちろんお前も、弁償し終わるまで給与から天引くから」
「え……天引き、ですか?」
「当たり前だろうが」
「そうちゃん、二人で当分スキャン地獄だよ……また菓子パン食べながらやろうね」
「お前ら、食べカス落としたら許さねえからな」
いや、給与天引きに戸惑ったわけじゃない。辞めたつもりでいたアルバイトを続けさせてもらえることに驚いているのだ。
「颯太」
にやけそうになるのを堪えていると、ふいに服の裾を引っ張られた。
「和さん?」
「林檎、どんどん茶色くなってるよ? もう食べていい?」
「うわ、ああ……すみません、爪楊枝出します」
そうだった。和にせがまれて林檎を剥いてる途中だった。
備え付けの棚から、慌てて爪楊枝のケースを探す。だが、こういう時にすぐに見つからないのが爪楊枝だ。
「そういえば、和くんはいつ退院できるの?」
「一応、あと一週間の予定だよ」
「長いね」
「そうだね。でも、勝手に病室から抜け出したり、傷口開かせたりしたからね。先生にもめちゃくちゃ怒られたし、今回ばかりはちゃんと入院するよ」
「ビルの病院じゃだめなの? 早く帰っておいでよ」
「おい、余計なこと言うな。今帰って来てまた傷口が開いたらどうすんだ」
「ほらね? 残念だけど、ダメみたい」
竜一に揶揄されても、和はくすくす笑っている。颯太は居たたまれなくて、とっくに見つけた爪楊枝を、まだ探すふりをしているというのに。
「まあ何はともあれ、和くんが退院したらパーティーだね! ビルの全フロアを使ってぱーっとさ! 祝ご快復と婚約解消とハッピーエンド!」
「おい、ここに阿呆がいるぞ」
「阿呆ってひどすぎ!」
照の行動力とコミュニケーション能力があれば本当に開催されそうだ。
三人のやりとりを聞きながら、颯太はようやく林檎に爪楊枝を刺した。すっと刺さっていく感じが、噛る瞬間の歯応えを期待させる。
「そうだな。パーティーは困るけど、退院したら何かしたいかな」
クッション代わりに膝に置いていたイルカを撫で、和はうーんと宙に視線を漂わせた。
「颯太は何がいいと思う?」
「和さんが退院したら、ですか?」
三人が林檎に手を伸ばしているのを横目に、颯太は和が退院した時のことを想像する。
「水族館に行く、なんてどうですか? 今度はジンベエザメのいるところとか」
その話をした時は、自分がまた一緒に行けるとは思っていなかった。だが今は違う。宿やチケットの手配を頑張るつもりでいる。
颯太がそう言うと、和は目を細め「いいね」と笑った。
「沖縄か大阪か石川、だったよね? 旅行がてら行こうか」
「えー! いいなー!」
「今度は護衛を撒いたりしてくれるなよ?」
「竜一は厳しいな。期待に添うには一刻も早く治さないとね」
撒く気満々の顔をして和が笑う。
「そうちゃん、のんびりしてると林檎なくなっちゃうよ」
「ああ。うん、もらう」
残り僅かになった林檎をつまみ、その三分の一程のところに歯を立てる。しゃくしゃく音を立てながら咀嚼すれば、口の中いっぱいに林檎の甘く優しい味が広がった。
──和さん、早く良くなってくださいね。
他の誰かがいるときに、そんな恥ずかしいことは言えない。
だが、和に目を向けると笑われたから、言葉にしなくても伝わってしまったかもしれない。
「旅行、楽しみにしててね」
「和さんも、楽しみにしててください」
-fin-
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