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和の過去
「服だけどさ、やっぱり買っておいでよ」
「だからいりませんってば。あと一週間しか着ないんですよ?」
「そのあとは俺が着るから」
「なら、和さんの好きなものを買えばいいじゃないですか。どうして俺が」
夕食後、ニュースを見ていた和がソファーにもたれて颯太を振り返った。
「服を貸すのが嫌って言ってるわけじゃないんだ。ベッドで自分の下着を脱がせることに抵抗があるだけで」
「今更ですか?」
食器を食洗機に入れながら短い息を吐く。
「今更だけど」
ここで世話になってから、和とは何度この話をしたかわからない。話にあがる度に、買ってもらう必要はないと首を振っているのに、だ。
「だったら俺が下着を履かなければいいですか?」
「え、パンツなしで過ごすってこと?」
「そうなりますね」
リビングに変な空気が流れる。
「じゃあ俺が服を貸さないって言ったら、颯太は全裸で生活するつもりなの?」
「全裸って……」
今の颯太は、パジャマや部屋着はもちろん、下着や靴下まで和のものを借りている。
部屋に来た当初、服や最低限の必需品はネットで買ってやると言われた。だが、同じく「勿体ない」という理由で頑なに拒んだ。
確かに、下着なんかは他人と共有するものじゃない。しかし二人とも無頓着なおかげか、洗濯さえされていれば特に気にならなかった。
「どうなの?」
「別に、ここに来たときの服をずっと着るまでですけど」
「だめ。やっぱり買ってきて」
「だから、俺は……」
「買っておいで。バイトにも行くんでしょ?」
昨日の和は、どれだけ颯太が拒否しても頑として譲ってくれなかった。
「竜一に頼んでおくから、明日にでも見繕ってもらって」
食事会があるため、和は買い物には付いて来られないとのことだった。
そこで渡されたのが、このクレジットカードだ。カードを他人に貸すなんて、どれだけ危機管理意識が低いんだ。
中萱なかがや和。カードを見て、初めて和のフルネームを知った。
エアコンの吹出口に取り付けられた消臭剤から、温風に乗って無香料という名の人工香料が漂ってくる。タバコ臭いよりはいいが、コンディションが悪いと車酔いしてしまいそうな匂いだ。
自称ヤクザじゃない弁護士の助手席に座り、和に見送られながらビルを出発した。
ヤクザと一緒にされたくないと言うわりに、竜一が運転してきた車は黒のアルファードだった。どこか体育会系の雰囲気を持つ竜一にはミニバンがよく似合う。
「お前、二十一ってことは大学三年か?」
「はい」
「和から聞いたが、慶京の法学部なんだって? 俺、そこのOBなんだわ」
竜一は第一印象こそ厳ついが、笑うと顔がくしゃっとして、途端に取っつきやすい印象に変わる。
「今は弟が通ってる。お前、学科は?」
「……法律学科です」
颯太が答えると、竜一は「まじで俺の後輩かよ」と言って顔を綻ばせた。聞けば、竜一は颯太と同じゼミの出身で、弟は違う学科に在籍しているという。もしかすると同じ授業を受けていたかもしれないが、颯太に細谷という知り合いはいない。
そもそも、そいつが人並み外れた社交性の持ち主か、ゼミで同じにでもならない限り、颯太とは友達になれない。授業中以外の颯太は寝ているか働いていたからだ。
「だったら今は春休みだろ?」
「時期的にはそうですね。俺は辞めたから関係ないですけど」
「は?」
「正確には休学中です。退学しようとしたら先生に止められたので」
「はあ? なんで?」
和はどこまで竜一に話したのだろうか。自殺しようとしていたことは話していないのか? なぜ、颯太が和の家に居候しているのかも?
「……聞いて、楽しい話ではないので」
言いたくない。
竜一の様子だと和からは何も聞いていないはずだ。大方、同じ大学の子みたいだから優しくしてやって、とでも言われたのだろう。
「なんですか?」
「お前、えらく警戒してるな」
「すみません、そんなつもりは……」
「んな顔しなくても、本家に突き出したりしねぇよ。今のは俺が聞いてみただけだ。言いたくないなら答えなくていい」
「突き出す?」
「冗談だよ。んなつまんねーことしねえよ」
竜一は、和にも組織にも報告するつもりはないと言って笑った。颯太としては、そもそもその発想がなかったからぎょっとしてしまった。
百貨店の駐車場に入る列に並んだため、車内にはウィンカーの音が響いている。
「で、これはあいつの友人として聞いておきたいんだが」
竜一はそう前置きしてから苦笑した。
「どうやって和に取り入ったんだ? お前、先生なんだろ?」
言われて溜め息が出た。
「やめてください。先生は和さんがふざけて言っただけで、俺は……童貞だからセックスの練習に付き合ってくれって言われただけです」
経緯は伏せた。そこまで詳細に伝える必要もない。だが、少しだけ和に仕返ししたい気持ちもあって、言葉は選ばなかった。
「あいつ、そんなこと言ったのか?」
「言いましたよ」
「あー……まあ、可愛い顔してるもんな」
そのフォローは余計だ。
前の車の停車ランプが消え、その後ろに続いて竜一は車を発進させた。
「ていうか、お前もよく引き受けたな」
「どうかしてました」
颯太が即答すると、竜一は豪快に笑った。
「てっきり、ここに来て男に走ったのかと思ったんだよ」
「まさか。やめてあげてください」
いくらなんでも和の努力に対して不憫すぎる。竜一は口先で「悪い」と謝り、安堵とも落胆ともとれない反応をした。ここで心底ほっとした顔をしない辺り、この男は友達思いなんだろう。
「お前、あいつの結婚は聞いてんだろ?」
「……する、っていうくらいですけど」
「あいつ、恋愛になんて一切興味持てねえんだよ、昔っから」
竜一はなんでもないことのように言うと、地下駐車場のゲートバーすれすれに車を停め、発券機に腕を伸ばした。
これは牽制だろうか。心配しなくても、颯太と和に肉体関係があったところで、恋愛関係に発展することはない。しかし、竜一の顔を見る限り、そういうつもりはなさそうだった。牽制じゃないなら、この手の話は第三者から聞きたい話じゃない。
「中学一年のまだ剥けてもいない頃に父親の女に跨がられたんだぜ? それでもう、あのイケメンがぼっこぼこ」
「へぇ……」
「誘ったのは女でも、面子を潰された親父さんがガキの話に耳を貸すわけもねえし。まあ、父親の女に搾り取られるなんて、未遂でもトラウマだわな?」
同意を求められても困る。聞かされたところで気の利いた一つも言えない。
「子供が欲しいって言われたんだと」
「中学生相手に、ですか?」
「ゾッとするよな。せがんでも親父の方に相手にされなかったからって理由らしいが、普通息子に手ぇ出すか? 熟女好きでもお断りだろうよ」
そこまで言われて、どうして練習台に自分が選ばれたのか確信した。
妊娠しない相手であること。組と関わりのない、後腐れない相手であること。
「だから、和が親父さんからの見合い話を受けたのは意外だったんだよ」
「どうしてですか?」
「トラウマを振り切ってもねえのに、政略結婚なんてしてみろ、どんな地獄を見るかわかんねえだろ」
組のために、と割りきって結婚したところで、肝心の下半身が使い物にならなければ意味もない。政略結婚には、孫──血縁という絶対的な関係の構築が含まれている。
和の下肢は男相手だから反応しないんだと思っていたが、竜一の話を聞く限り、どうやらそうでもないらしい。時代錯誤なことだが、そのために颯太を練習台に使おうとしているなら全て納得がいく。
「組織のために、和さんは随分身を切るんですね」
本当は保健室の先生になりたかった男だ。本人は例え話だと言っていたが、少しくらい考えたことがないと、咄嗟にその職業は出てこない。
「まあ、あいつの場合、組が大事というより、弟分達が可愛いんだろうな」
「それは、一緒にいて何となくわかります」
舎弟を守ってやりたいと思っていることも、いい兄貴であろうとする努力も、細やかな気遣いからよく伝わってくる。
ふいに隣から視線を感じ、颯太は竜一の方へ顔を向けた。
「なんですか?」
百貨店の地下駐車場は暗く、車のエンジンを切ってしまえば、停車した車の中はルームランプの灯りだけになる。
「お前、モテるだろ?」
突然の問いかけに思わず片方だけ眉が上がる。
「は? この性格でモテると思うんですか?」
「いや、女にはモテねえか。ははっ」
自分から持ち上げてきた癖に、さすがにその反応は解せない。
シートベルトを外している竜一に、じっとりした視線を向けてみたが一蹴された。
「なんか色々と不憫そうだから、今日は女ウケのいい服を選んでやるよ。どうせ和の金だ」
「そういうの興味ないんで、普通でいいです」
「クライアントからも『もっと可愛くしてきて』と言われてる」
なんだその戯言は。今日買う服は来週からあんたが着る服なんだぞ、と電話して説教してやりたい。
「本当に、普通でいいですから」
「けどお前、可愛くしとかねえと無愛想なただのガキだぞ」
「ほっといてください。俺、ユニクロとかで適当に買います」
車を降り、力任せにドアを閉めたら怒られた。
「ファストファッションで可愛くしてやれるほど、俺はお洒落上級者じゃねえよ。それに、家から出るの一週間ぶりらしいじゃねえか。羽伸ばしとけ。帰ったらバイトだぞ?」
別に、和の家にずっといるからって、窮屈なんて感じていない。
行動を制限されるわけでもなく、何かを搾取されるわけでもない。むしろ当初の約束なんてなかったかのように生活してしまっている。颯太は与えられるものに対して、口を開けて待っているだけだ。
「……ただより高いものはないじゃないですか」
「あ? まあ、ヤクザの金なら尚更だわな。けど和が買ってこいって言ってんだから可愛く甘えとけよ」
そういうことを言いたいんじゃない。
「最後に美容院にも行くから」
「はあ?」
「はあ? じゃない」
結局竜一に連れ回されるまま、襟や裾が縫い付けられたニットやドット柄のシャツ、パンツを何本か買った。あとは最低限の下着と部屋着。最終的にずっしり重量のあるショップバッグになってしまった。これでも止めた方なんだから、この人達の金銭感覚にはついていけない、と思った。
細谷法律事務所の扉を開け、まず目に飛び込んできたのは観葉植物だった。呼び鈴だけが置かれた簡素な受付に、観葉植物で出来たパーティション。その奥には応接セットとフリーアドレスのデスクが置かれていて、壁一面の本棚には法律関連の専門書や、誰かのコレクションらしき額縁に入ったテレホンカードがずらり並んでいる。
ヤクザお抱えの弁護士事務所とはいえ、何も知らないクライアントが来ても問題ない様相を保っているようだ。というか、インテリアに疎い颯太が見てもかなりお洒落に思う。
竜一に言われた通り、試着した服を着て帰ってきて良かった。例えそれが「その格好で帰れって。あいつ感激するぞ?」と押し切られたものでも。薄汚れたトレーナー姿では、居心地の悪い思いをしたに違いない。
「荷物は適当に、その辺に置いとけ。バイトの説明すっからこっち来い」
「はい」
「お前に頼みたいのは契約書のスキャンとラベリングな。事務所の倉庫に契約書を保管してんだけどすげえ数でさ、早々に電子化してデータベースにしたいんだわ」
和の組織が携わっているフロント企業の法務業務は、竜一の事務所が一手に引き受けているのだという。すげぇ数、がどの程度かはわからないが、確かに和から聞いた通り一週間もあれば終わりそうな仕事だ。
「けど、バイト代は東京都の最低賃金だからよろしく。日払いで、退勤時に現金で手渡しな」
「はい」
「誰にでも出来る仕事で稼げると思うなよ?」
そこまで言われ、颯太は思わず笑ってしまった。
「そうですね。誰にでも出来る仕事じゃ稼げないですよね」
それは颯太も実感している。だが、ここまできっぱり言われるのは初めてだ。まず、今日から雇おうとするバイトにする話じゃない。
「あ! おかえりー!」
竜一の後ろについて事務所内を見学していると、オフィスチェアのキャスターがカラカラカラカラと音を立て、一人の青年を目の前に連れてきた。奥にも部屋があったって不思議じゃないのに、あまりに予想外の登場で思わず瞬きを忘れる。
「お前はまた! お客さんだったらどうすんだ、やめろ!」
「大丈夫だよ。ちゃんと兄さんの声を聞いてから出てきたんだから」
兄さんということは、この金髪の青年が颯太と同じ大学の同級生か。
「ん? 君がそうちゃん?」
立ち上がり、満面の笑みを浮かべた青年がこちらへ近づいてくる。『そうちゃん』とは、考えるまでもなく颯太のことだろう。
「立花、颯太です」
「またの名を『手負いのネコ』な」
「そうちゃんはネコなの?」
「は?」
「僕、ネコ好きだよ。よろしくね!」
「……よ、ろしくお願いします」
愛くるしい笑顔で手を差し出され、不本意な紹介にも握手を交わしてしまう。
「僕は照ね。呼び捨てで良いからね」
「テル?」
「うん。僕がまだお腹にいる時に、父さんがあるヴィジュアル系バンドにドハマりしたらしくてさ、それでテル。その人はボーカルらしいんだけど、僕は歌だけはNGね」
「はあ……」
子守唄はHOWEVERだったと言われても、あまり知らない曲のため、「そうですか……」と頷くしかない。
「兄さんから聞いたよ。同じ大学で、しかも同じ学部なんて偶然だね。仲良くしてね!」
金髪に、ジーンズにピンクのスカジャンで、皆に可愛がられそうな明るい性格。やはり大学では見かけたことがない。
ペラペラと話し続ける照に戸惑っていると、竜一から丸椅子を薦められた。ついでに、「こいつ、延々話す才能持ってっから」と耳打ちされる。
竜一に礼を言って座ると、目の前にチョコパイといちごミルクの紙パックが置かれる。
「えっと……」
「お近づきのシルシ! 兄さんの話は長いからね、お菓子でも食べて」
「阿呆か。すぐ終わるわ」
「兄さんのすぐって一時間でしょー?」
「五分だ!」
竜一と照は仲が良いらしい。やりとりを見ていれば、それはすぐにわかる。しかし、こういう時にどう反応して良いかわからず、とりあえず曖昧に笑ってしまうのは自分だけだろうか。
「バイトの時間だが、基本は朝の十時から夕方の五時まで。間の昼一時間は抜けてもらっていい」
「そんなに短くていいんですか?」
「最初はな。そのうちもっと頼むかもしれねえけど、まあ、お前らの作業次第だな」
お前らと言われて照の方を見れば、「頑張ろうね!」とピースサインで返された。颯太も頷いて、竜一にぺこっと頭を下げる。
「わかりました。よろしくお願いします」
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