葛藤

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葛藤

 次の日の朝はいつもと違った。  和が目覚ましが鳴るより先に起きた。首筋をくすぐられ、颯太が面倒くさそうな顔をしたところで、笑いながら自主的にシャワーを浴びに行った。コーヒーを飲むより先に髪をセットし、皺ひとつないスーツに着替えている。  そんな和の姿を、颯太は買ってもらったばかりのパジャマ姿で眺めていた。  前髪をサイドに流して固めているためか、いつもは穏やかな切れ長の目がひときわ鋭く見える。和のラフな格好しか知らないからだろうが、上質なグレーのスーツに身を包んだ姿は宛らヤクザの若頭だ。 「和さん、っぽいですね」  颯太が冗談めかして言うと、和は「なにそれ」と気の抜けた声で笑った。 「派手にならないように地味なスーツを選んだつもりなんだけど、ネクタイがいけないのかな……」  白のワイシャツに光沢のあるネイビーのネクタイ。確かに色合いだけならとても地味だ。それでも華やかに見えるのは、和の体型とその上に乗っている顔のせいだろう。 「きちんとしてるって意味ですよ」 「だと嬉しいんだけど」  本当に。パリッとしすぎていて別人といるみたいだ。  ダイニングテーブルにつき、準備を終えた和と向い合って朝食をとる。タマゴサンドとヨーグルトなんて、この数日間とほぼ変わらないメニューなのに、目の前の男の雰囲気が違いすぎるせいで自信作の味がぼやける。 「そうだ。集会のあと、向こうの家族と食事の予定だから、今夜も夕飯は一人で食べてくれる?」 「わかりました」 「そんなに遅くならない予定だけど、待ちくたびれたら先に眠ってていいから」  朝食をたいらげ、和はコーヒーを啜りながら何気なく言う。早起きだったからか、それとも今日のスケジュールは余程気が重いのか、そう話す和の表情はどこか浮かない。 「ちゃんと起きてますよ」  だって昨日言ったじゃないか。「続きは明日お願い」と。 「そう? なるべく早く済ませて帰ってくるね」  颯太が眠っていたと思っているんだろうか。 「はい」  それから程なくして玄関のインターホンが鳴った。 「鍵、ちゃんと閉めておいてね。一階の事務所に何人か残してるから何かあったら遠慮なく声かけて」 「何って、何があるんですか。俺は今日もバイトです」  颯太が笑うと、和は「心配なだけだよ」と言い残して外出していった。  ベランダから黒塗りのレクサスを見送る。天気が良すぎて、丹念に磨かれた車の屋根は太陽を照り返している。 「……布団干そうかな」  和が家から出ていくとき、体のどこにも触れられなかった。肩にも頬にも頭にも。して欲しいわけじゃないが、いつもされていることをされないと蟠りが残る。  その蟠りを振り切るよう、無心で家事をこなした。しかし朝から活動していると、颯太の出来ることは一時間もかからずに終わってしまう。  今日は少し早めに出勤して、十四時くらいに一旦帰宅させてもらおうか。ふかふかになっているであろう布団を取り込みたい。 「兄さんがいないと静かだねー!」  所長椅子に座った照が美味しそうにチョコチップメロンパンを頬張る。  複合機のガラス面に契約書を乗せ、黙々とスキャン作業に励んでいた颯太はふっと笑って照に振り返った。 「朝ごはん、食べてこなかったのか?」 「食べたけど足りなくって。育ち盛りってやつ?」  と言って照が笑う。背丈は颯太と変わらないのに、それだけ食べても太らないなんて、まったく照の体は不思議だ。 「春休みは課題もないし最高だよね。春夏冬の中なら、僕は春休みが一番好きだな。長いし!」  テストがいつ終わるかにもよるが、大学生の春休みなら二ヶ月は固い。講義の時間だけが楽しみの颯太としては、手放しで喜べるものでもないが、多くの学生にとっては至福の時期だろう。 「再来週は京都に行く予定なんだ」 「京都?」 「うん。北野天満宮で梅花祭があるんだけどね? そこでお茶菓子を食べるのと、あとはお漬物バイキング!」 「食い気にしても渋い」 「そうだよね。本当はラーメン屋巡りとかパン屋巡りとかもしたいんだけど、向こうにいる知り合いが渋好みでさ」  楽しそうに話す照を見ていると、颯太もつられて笑顔になる。 「そうちゃんは? 春休み、何かしないの?」 「え? 俺は、特には」 「和くんと出掛けたりしないの?」 「まさか。出掛けたりするほど親しくない」 「えー、そうなの?」  目を見開く照は心底意外そうだ。 「仲良くないなら、どうして和くんの家に居候することになったの? 和くん、あんまり家に人を入れたがらないのに」 「細谷さんはよく来る」 「兄さんのは半分仕事だもん。和くんの部屋なんて、僕も数えるくらいしか入ったことないよ。まあ、行く用もないんだけどね」  照の大きな目が興味津々と言わんばかりにこちらを見てくる。 「それで、どうして?」 「いや……話すと長くなるから」 「あ。それ教えてもらえないパターンのやつだ! めちゃくちゃ気になるのに~」  颯太が言葉を濁すと、照はあからさまに肩を落とし、今度は和から聞き出す算段を立て始めた。対象が自分になると少し困るが、それでも照の素直さは微笑ましくて羨ましい。 「悪い。でも全部、和さんが結婚するまでだから」  二週間の期間限定だ。ずっと一緒にいるわけじゃない。  颯太が苦笑すると、照は「うえっ」と言って舌を出した。 「どうかした?」  何かおかしなことを言っただろうか。照が唇を尖らせた。 「和くんの結婚の話ね、僕は大反対! 一階の人達の噂じゃ、和くんの婚約者って隣の組の偉い人と付き合ってるらしいんだよ。ちょー美人だけど!」 「そんなの、噂だろ?」 「火のないところに煙は立たないって言うじゃない!」 「そうだけど、いくら政略結婚って言っても、恋人がいるなら……」 「お金じゃない? 中萱の家はお金持ちだからね。相手は政治家の令嬢らしいし、政治資金集めとか? あとは組織票集めっていうの?」 「政治家……」 「胸糞悪い話だよね。和くんも、もうちょっと自分のことに頓着あっても良いのに」  噂なんて一人歩きするものだ。そのことは颯太もよく知っている。しかし、もし今聞いたことが本当だとしたら、和が不憫で仕方ない。 「あ、何も言わないであげてね! 和くんなら気づいてるかもしれないけど、ビルの中でこんな噂が流れてるって、気分は良くないだろうからさ」 「もちろん、言わない……」  照は苦笑していたが、颯太はそれさえも出来なかった。  料理をするのが面倒すぎて、夕飯はお茶漬けで済ませた。一緒に食べる人によってメニューが左右されるなんて、まるで母親みたいだ。  母も父が飲み会で遅いときは「お父さんいないし、適当でいいよね」と喜んでいた。父がいない日は決まって手抜きで、チャーハンだったり、うどんだったり、二人だけで宅配ピザをとって済ませたこともある。  颯太のさっぱりした性格は恐らく母親譲りだ。さっぱりした者同士、仲は良好だったが頻繁に連絡は取り合わなかった。両親が失踪した時でさえ、最後の連絡のひとつもなかった。今思うと、取り立ての目が颯太へ向かないように、連絡を控えてくれたのかもしれない。  それが、今やヤクザの家に住んでるのだから何の因果か。笑ってしまう。  することがなくて、カウチソファーに寝転んでぼーっとしていた。六階で借りた本を読んで暇を潰してみたが、それでも和が帰ってくるまでまだ少しありそうだった。  暇があるから余計なことを考えてしまうんだろうが、この暇な時間で勉強がしたい。  颯太は胸の上に本を置き、別の本の内容を思い返した。  叶わないことを考えるほど虚しいことはない。だが、ゼミの発表前に睡魔と戦いながら必死で読んだ民事判例百選とか、ああいう参考書が無性に読みたい。  大学に入学したばかりの頃は親からの仕送りもあったし、月三万円の奨学金は生活費にあてて、アルバイトは小遣い稼ぎ程度にしかしていなかった。その分、時間に余裕があったし、勉強にも打ち込めた。サークルにこそ入らなかったが、同じ講義を受ける何人かとは親しい付き合いも出来ていた。  それがいつの間にか、一般教養の講義中にゼミの課題をこなし、夕方から夜中までアルバイト漬けの生活に変わり、友達付き合いを後回しする生活になった。食事は休み時間に菓子パンを腹に詰め込んで、夜中に居酒屋の賄いを食べるだけ。いつしか颯太に声をかけてくれる友達はいなくなった。  だが、時間に融通は利かなくても、好きな勉強は出来ていたし、バイト先の人に恵まれていたおかげで、そこまで悲観することもなかった。  大学に通えなくなるまでは、そんな生活でも平気だった。  バイト代と最大まであげた奨学金は、生活費と借金の返済に消え、来年度の学費までまかなえなかった。四月から勉強出来なくなると知ったとき、目の前が真っ暗になった。  颯太にとって、講義を聞くことだけが生きている意味だった。それを奪われたら、寝て食って働いて、楽しいことなんて何もない。  法律事務所でバイトをすると、とても楽しい反面、冷静になった時に苦しい。絶対に手に入らない夢を、目の前にぶら下げられているようなものだから。  今の颯太には、名実ともに一人の男しかいない。  それも、特に颯太を必要としていない、ヤクザの若頭だけだ。それ以外何もない。  だが、その和は颯太とのセックスを求めていない。もしかしなくても、セックス自体を欲していないし、必要に迫られているだけだ。  なのに、気がつけば自分の居場所を確保したいために和に行為を迫っている自分がいる。昨晩は嫌がる和をけしかけ、今朝も婚約者と会うと話す和に対して、「起きてますよ」なんて言った。  男相手の行為なんて、痛いし苦しいし屈辱的で、自慰のために体を使われるようなものだ。わかっているのに、押し売りしてでも和とのセックスに持ち込みたいなんて、自分に呆れる。  ベッドのシーツも洗いたてだし、下着だって昨日買ってきたものをおろした。  「……バカだ……」  ふいに虚しくなってきて、悔しさで目頭が熱くなった。  ビルの屋上に立つことも、チンピラに虐げられることも平気だったのに、こんなことで泣きそうになるなんて、自分はなんてプライドが高いんだろう。  そんな自覚はなかったし、知りたくもなかった。
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