翌日に残る甘さ

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翌日に残る甘さ

 鶴の恩返しよろしく、今まで和が仕事をしている姿は見たことがなかった。  颯太の生活は寝室とリビングと風呂トイレだけで済む。わざわざリーディングルームに入ろうとは思わなかったし、招待されることもなかった。  それが、今日は起きてからずっと一緒にいる。  大小十二台のモニターを見ながら、和が株の売買を繰り返している。颯太は部屋の片隅に置かれたソファーベッドに寝転びながら、見るでもなく、その背中を眺めていた。  一昨日の株の講義を半分寝ながら聞いていたせいで、モニターに映し出されるグラフがどういう状況かわからない。わかるのは、和が真面目に仕事をしているということくらいだ。 ──うわっ、颯太? ──それ、要らない。引っかかって嫌な感じがする。 ──けど颯太の負担が…… ──和さんは、婚約者とのセックスに、ゴムつけるんですか……? ──それは……時と場合によるんじゃないかな。 ──時と場合、の練習は、しなくていいんですか?  焦燥感から解放されて、気分が高揚していた。  二度目の事が終わったあと、中を掻き出さないといけないとは思っていたが、和の腕に抱き締められるまま寝てしまった。そして、起きたら見事に腹が痛くなっていた。  和はそのことに責任を感じたようで、朝から颯太の世話を焼いてくれている。病人じゃあるまいし別に寝ている必要はない。時折やってくる直腸が収縮する痛みをやり過ごせれば、颯太としてはそれで大丈夫だった。  だが、和は相当心配らしく執拗に体調を気遣ってきた。シャワーにまで付いてきて中の精液を掻き出し、トイレの前まで同行しようとされて突き放したのが三時間ほど前の出来事だ。  和はこんなに可愛い男だっただろうか? その慌てようを思い出しては笑いそうになる。 「颯太、大丈夫? お昼は食べられる?」  十二時を過ぎ、昼休憩の和がキッチンに立った。料理は経験がないと聞いていたが、トレイに乗せて提供されたのは、卵のおじやだった。美味しそうだが、これじゃまるで風邪でも引いたみたいだ。 「和さん、俺を病人扱いしすぎ……」 「だって、お腹が痛いなんて心配だよ。昨日は無理させたし」  せがんだのは颯太なのに、和には中で出してしまった罪悪感があるらしい。しょげていると言っても過言ではない表情に苦笑し、颯太は木製のれんげを取った。 「いただきます」  立ち上る出汁の香りが食欲をそそる。上に散らされた小ネギを混ぜ、颯太はおじやを口に運んだ。  咀嚼し、思わず笑みが溢れる。 「どう? ちゃんと出来てる?」 「出来てますよ。美味しいです」 「本当? 俺にも一口ちょうだい」  そう言う和の口元へれんげを持っていってやると、和は戸惑い気味にはにかんでおじやを口にした。 「……薄」 「え、そうですか?」 「レシピ通りなのに美味しくない」  和の顔が険しくなっていく。「本当に美味しいと思ってる?」と疑われたが、これが本当に美味しいと思っているから困る。 「美味しいですよ。優しい味がします」 「……味見すればよかった」   和が溜め息を吐いた。颯太の言った「優しい味」を薄味の婉曲表現だと思ったのかもしれない。  優しさに味があるとしたら、間違いなくこのおじやは美味しい。そして、颯太はそんな味がとても好きだった。 「レシピ選びから料理の腕が試される感じか……」  何やらぶつぶつ言っている和の隣で、黙々とおじやを平らげる。 「ご馳走さまでした。美味しかったです」  そう言って空いた椀を差し出せば、和はいっそう悔しそうな顔をして微笑んだ。 「お腹の調子が良くなったら、何か美味しいものを食べに行こうか」 「外に、ですか?」 「そう。颯太は何が好き?」 「寿司」  即答したら笑われた。 「じゃあ、明後日にでも食べに行こう。銀座の外れにいいお店があるんだ。仕事終わりになっちゃうけど待っててくれる? バイトは?」 「あ……、残業できないって伝えます」  髪を撫でられ、甘く微笑まれる。こういう時にどう反応していいかわからない。颯太は戸惑いながら、その極上の笑顔に見入った。  こんな風に一方的に労られても居心地が悪くないのは、ようやく和の練習に付き合うことが出来たからだろうか。これで和と対等になれた気がしているから? それとも、単純に体を繋げて、気を許してしまったのか? 「あ、まずい。俺、遅刻するって事務所に連絡してない」 「竜一には休むって連絡しておいたよ」  和が事も無げに言う。 「そんな……俺、午後から行きます」 「今日の分は明日頑張ればいいよ。オーナーの俺が言うんだから大丈夫」 「はあ? そんなわけにはいきません」 「いいから。無理に出勤される方が心配だよ」 「体なら、もう大丈夫なのに……」 「颯太は自分の『大丈夫』を過信しすぎ」 「そんなことない……」  しかし、ここで抗議しても聞いてはくれなさそうだ。 「だから今日は休み。ね?」  その問いには返事をしなかった。  颯太はタイミングを見て起き上がり、簡単な夕飯の支度をしてから六階へ出勤した。  和は仕事が始まるとモニターから離れられない。颯太がバイトに出掛けたことにも、しばらくは気づけない。  だがまあ、気づいてからがうるさかった。六階の事務所にやってくるなり、複合機の前に立つ颯太に並んで、部屋に連れ戻そうとする。 「俺、休んでって言ったのに」 「俺は午後から行くって言いました。元気なのに仕事サボって寝てるなんて、そんな無責任なこと出来ません」 「でももう夕飯時だよ? バイトは終わりでしょ?」 「出勤がずれたので、その分退勤を遅らせてもらいました。夕飯なら準備して冷蔵庫に入れてあるので、チンして食べてください」 「いや、お腹が空いてるとかじゃなくて……」  颯太が和から目をそらすと、見かねた照が間に割って入ってくれた。 「二人ともストーップ! 仲良く、ね?」 「照、別にケンカしてるわけじゃないからね?」 「じゃあ何してるの?」 「颯太を迎えに来ただけ」  何で同じビルの中で迎えが必要なんだよ。 「えー! 和くんってば過保護!」  と、颯太の心の声を照が代弁してくれる。 「体調が悪いのに働こうとするんだから、心配にもなるでしょ」 「そうちゃん、そうなの?」 「もう平気」 「もう平気だって言ってるよ?」 「それは颯太が我慢強いからであって」  颯太は耳が赤くなっていくのを感じながら、仕事の手を止めて和の腕を引いた。至近距離で目が合ってしまい、思わず目を逸らしたら、それはそれで和に怪訝な顔をされた。 「颯太?」 「俺、寿司楽しみです。だから、明後日は絶対に残業しなくていいように、今日も明日もちゃんと働きたい。なのですみません、夕飯は一人で食べてください。もしくは……照、俺の料理食べたいって言ってなかった?」 「そうちゃんのゴハン? 食べたい! いいの?」  和が驚いた声をあげたが、そんなことはお構いなく、照は事務所から和を連れ出してくれた。 『わー、和くんとゴハンなんて久しぶりじゃない?』 『先月、竜一と三人で行ったろう?』 『そうだったかな。美味しくないごはんのことは覚えてないよ。っていうか僕、和くんに聞きたいことあるんだよね!』 『ええ……照のそれって怖いな……』  二人の声が遠ざかっていく。颯太はほっと息をついて仕事に戻った。  和が自分のことを気遣ってくれているのはよくわかる。和の優しさは嬉しいし、くすぐったいくらいだ。だが、颯太は自分の価値観からずれているものに、簡単に頷けない性分だ。和だって責任を持って仕事をしているなら、颯太の考えもわかってほしい。 「お前、和の扱いうまいな」  パソコンのキーボードを叩きながら竜一が笑う。 「え、いや、そんなことは……」 「司法試験に受かったらうちで雇ってやるよ。新人の業務にはもれなく和の雑用がつくからな」 「細谷さん。俺、大学辞めたって言いませんでしたっけ?」 「俺は休学としか聞いてねえな」  そんなの同じことだ。タバコを吸い始めた竜一に曖昧に笑って、颯太は仕事へ戻った。  そんな未来が待っていたら良かったな。  和が結婚した後どころか、来週以降のことをまだ考えられていない。なのに、こんな冗談を嬉しいと思ってしまうのは、悪い癖がついてしまった証拠だ。
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