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デート1
寿司の日は間もなくやってきた。十五時に仕事を終えた和は、部屋から出てくるなり洗面所に直行した。
背後からその様子を見た颯太は目を剥いた。やたら準備に時間がかかっていると思ったら、そこには別人のような和の姿があった。目に黒のカラーコンタクトを入れて、髪をヘアスプレーで暗く染めている。
人は目と髪の色を変えただけでここまで印象が変わるのか……。いつもはどこか日本人離れした雰囲気を漂わせているのに、今の和はいかにも和服が似合いそうな雰囲気だ。
「どうしてわざわざ?」
颯太が戸惑いながら訊ねると、和は朗らかに笑った。いやに機嫌がよくて思わず怯む。
「変装」
「変装? ……どうしてわざわざ?」
質問に対する回答が得られなくて同じ質問を重ねる。
「俺のことを一方的に知ってる人が多くてね。プライベートだし、そういう人達に邪魔されたくないなって思って」
「はあ……」
何を? とは聞かないでおいた。懇意にしている寿司屋へ出掛けるだけで、ここまで念入りに変装をする必要はあるのだろうか。
和は寝室へ戻ると黒縁眼鏡をかけ、いつもと違う雰囲気の服装に着替えた。黒のパーカーにカーキのチノパンを履き、ライダースジャケットを羽織る。
「別人に見える?」
「見えますけど……」
美丈夫に変わりはないが、一目見ただけでは誰も和だと気づかないだろう。そもそも、ここまでの変装をして外出するやつがいると思わない。
「よし、じゃあ撒いちゃおっか」
「撒く? 何をですか?」
「事務所の連中」
和はにやりと笑うと、Pコートを着ようとしていた颯太の腰を引き寄せ、音を立てずに部屋を出た。エレベーターを降り、舎弟達が二人に気づいていないか確認する。これではまるで逃亡するみたいだ。
「和さ──」
「シッ。颯太、走って」
ビルの路肩には、若頭のためにレクサスを洗車している組員が一人。その目を盗み、和は颯太の手を引いて走り出した。
「はっ? え、待ってください、事務所の人が車を……!」
「大丈夫、あとで連絡しておくから」
こんな男が若頭でいいのかよ。絶対にこの逃亡劇を面白がっている。
手を引かれているせいで、颯太も強制的に走らされる。しかも足の長さに差があるものだから、颯太は余計に早く走らないといけない。そのせいで早々に息が切れ始める。
まったく、焦る颯太に対し和は憎いくらい楽しげだ。
「こんな風に走ったの高校生ぶりかも」
「それ、何年前の、話ですか?」
「あ。颯太も言ってくれるようになったね」
大通りで捕まえたタクシーに乗り込み、和は品川方面へ向かうよう告げた。寿司に釣られて付いて来たが、確か店は銀座にあると言っていたはずだ。
「品川、のお寿司屋さんに行くんですか?」
「ううん、食事の前に寄りたいところがあって。いいかな?」
「それはいいですけど、何か用事ですか?」
「用事というか、デート──の練習に付き合うと思ってくれれば」
「え、デートもしたことないんですか?」
颯太が目を瞬かせると、和はふっと相好を崩した。
「デートに来る女の人は、あんなに早く走れませんよ……」
「そうだね。颯太が女性じゃなくてよかった」
「和さん、練習の意味わかってますか?」
練習の照準は、颯太ではなく、婚約者の女性に合わせておかないと意味がないのに。
「どこに行くんですか?」
「水族館」
「水族館?」
「もしかして、動いてるところを見ると食べられなくなるタイプだった? 颯太は大丈夫だと思ったんだけど」
だから、練習というならその照準を──。
「俺は、大丈夫ですけど」
颯太はそれ以上考えることをやめ、後部座席の硬いシートに凭れた。
「楽しみだな。俺、水族館って行ったことないんだよね」
「小さい頃に遠足とかで行かなかったですか?」
結構年上なはずなのに、初めてなことの多い男だ。
「遠足で? ないない。あ、もしかして颯太の言ってた遠足って、水族館だったりするの?」
「え? ……あ、お弁当の話ですか?」
そういえば和にはそんな話もした。
「はあ、まあ、そんなに大きい所じゃないですけど」
「いいな。俺、泳いでるイルカを見てみたいんだよね」
そう言う和に連れてこられたのは、颯太の知っている水族館とはずいぶん装いの違う水族館だった。
自動改札機にチケットを翳して入館すると、すぐ右手に海賊船を模したアトラクションがあり、少し進んだ先にはトリトンを中心に据えたイルカやラッコに乗るメリーゴーランドがあった。その先には水槽がタッチモニターになっている淡水魚の展示、音と光で演出されたクラゲだけの大空間──。
「颯太?」
「ああっ、はい」
想像していた水族館とのギャップに、颯太は語彙を失っていた。はぁ、へぇ、なるほど、すごいですね。この数十分間、それくらいしか言っていなかったと思う。それはつまらないとかではなく、現代的な展示方法に置いていかれていたから。この水族館は、魚を見に来るというより、生きた魚を美術として楽しむ雰囲気だ。田舎の水族館とは客層のターゲットからして違いそうだ。
「颯太、この先にイルカがいるみたいだよ」
和がリーフレットを開きながら昇りエスカレーターの先を指さす。
「もしかして、ちょうどショーの最中かな」
遠くに華やかな音楽と客の歓声が聞こえ、長いエスカレーターを昇りきる直前には大きな拍手と水飛沫の音も聞こえてきた。
「颯太、ほら」
和に手を引かれるままフロアの中央へ向かう。
七色にライトアップされたシャワーが天井から降り注ぎ、三百六十度客席で囲まれた円形プールの中央に落ちていく。シャワーのカーテンを楽しむように五頭のイルカが隊列を組んでジャンプ。続いてインストラクターがイルカの背に乗り、客席に向かって手を振りながらプールを周遊する。
ここまで華やかではないが、音楽に合わせた演出は田舎の水族館でも見たことがある。ようやく馴染みがある、好きな水族館の展示が見られた気がした。
「あれ? もしかしてもう終わっちゃう感じ?」
「え?」
音楽がフェードアウトしていく。和と顔を見合わせていると、インストラクターはイルカから降りてプールサイドのステップに立ち、客席に向かってお辞儀をしてしまった。大きな拍手とともに、青白く色気のない照明がついてしまう。
「みたい、ですね」
客が立ちあがり、颯太達の立っている方へ通路の階段を上って戻ってくる。場内アナウンスを聞けば、次のショーは一時間後開始だというからツイていない。
「でも、イルカはまだプールに残ってるみたいですよ。少し見ませんか?」
客の流れに逆らって階段を降りる。そこで颯太は思いついたように和の袖を引いた。
「すみません、先に座っててください」
「え、颯太?」
和に告げ、一人で元来た階段を駆けあがる。目的はふいに目に止まったカフェスタンドだ。
喉が乾いているわけじゃないが、ゆっくりするにはコーヒーでも持っていた方がいい。現金で手渡されたバイト代もポケットに入っているし、先程払ってもらった入場券の礼を兼ねて。
「飲み物なら言ってくれれば行ったのに」
「これは俺のご馳走なので。ブラックでいいですよね」
和は颯太からコーヒーを受け取ると、遠慮がちに礼を言った。
「デートでご馳走になるって、こんな気持ちなんだね」
「大袈裟ですよ」
「颯太は何にしたの?」
「俺もコーヒーです」
しこたまミルクと砂糖を入れたから、和のものとは違う飲み物になってしまっているが、颯太も同じコーヒーを頼んだ。
「飲めなくなったら飲むから言ってね」
「うるさいなー、飲めますよ。砂糖もミルクも二つずつ入れたんだから」
嘘だ。本当は三つずつ入れた。少しサバを読んだのに和には笑われてしまった。
「コーヒー、温かくて美味しい」
「良かったです」
和の隣に腰をおろし、颯太もコーヒーを啜った。
直径三十メートルほどありそうなプールの中をパフォーマンスを終えたイルカ達が悠々自適に泳いでいる。潮を吹いたり、餌を貰ったり。 最前列で齧りついて観ていると、気まぐれにジャンプするバンドウイルカの水飛沫が飛んでくる。
「冷たっ」
「大丈夫ですか?」
「びっくりした……。ねえ、颯太。ここの席すごく濡れてない?」
「本当だ。結構飛んでくるんですね」
和に言われて周囲の座席を見渡せば、床には所々水溜まりができていた。ショーの間、観客はかなり水を浴びただろう。真冬なのに大丈夫だったんだろうか。
イルカはプールの端から端までまっすぐ泳ぎ、体を捻りながら水面を飛びだして、プール中央に向かって弧を描くように飛ぶ。着水するときはきちんと嘴から入るので、水面にはミルククラウンのような水の輪が幾重も残って、水中にはきらきらした気泡がイルカの泳ぎに合わせて舞う。イルカが特別に好きなわけじゃないが、その姿は惚れ惚れするし、ずっと見ていられる。
「ねえ、あれも訓練かな?」
「どれですか?」
和の指さす先を見ると、白い腹を見せて浮かんでいるだけのイルカが三頭いた。少し間抜けに見えるが、インストラクターの足元にいるということは、和の言うように訓練なんだろうか。
二人がじっと見つめていると、インストラクターの手を振る動きに合わせ、カマイルカが胸ビレを振った。そのまま横泳ぎで前を通り過ぎていくから、まるで自分達に手を振ってくれているような気になる。
「うわ、可愛いな……」
「今のは可愛すぎましたね……」
二人してイルカの虜だ。
派手な照明や音楽の演出はないが、蛍光灯の光でも不規則に揺れる水面はきらきら美しい。特に、イルカが水面のぎりぎりを泳いだときに出来る波の形。背ビレが描く波の感じが好きだ。
「あの二頭はずっと一緒に泳いでるね。他の子達は隊列して泳いでるのに」
「番なんじゃないですか?」
「……思ってた颯太の答えと違って、ちょっとびっくりした」
「え? なんて言うと思ってたんですか?」
「種類の違い、とか?」
確かにこのプールには二種類のイルカが泳いでいる。しかし、イルカは集団で行動することが多い生き物だ。種類の違うイルカどころか、クジラとも一緒に泳ぐと言われているのに、種類の違いは考えにくい。
「一説によるとイルカのリーダーは交代制らしいですよ」
「そうなの? どうして?」
「理由は、すみません、忘れました。でも昔、遠足でイルカを見たあと、みんなもイルカのようにリーダーを交代制にしてみましょう──って先生が」
散々だったから、イルカの話題になるとつい思い出してしまう。
日直で人前に立つことさえうんざりだったのに、遠足以降、事ある毎に班単位のワークショップを強いられた。授業中に手も挙げられないような子供が、無理やり班長として先頭に立たされる。背後からはガキ大将の圧を感じ、正面からは先生の期待を感じ、リーダーの才がないと自覚したのはあの頃だ。
「颯太はどんなリーダーだったの?」
「どんな?」
「引っ張っていくタイプとか、民主主義的なタイプとか、あとは高圧的なタイプとか? 最後のは違いそうだけど、色々あるじゃない」
「残念ながらどれも違いますね。俺は、名ばかりタイプでした」
「何それ」と和が笑う。
「結局班長が務まらなくて、リーダーシップの強いやつが言うことをそのまま発表していたので」
今でこそ成長したが、昔は自分の意見を人に伝えるのが苦手だった。言葉足らずだったし、自分の意見が意図したものと違って相手に伝わってしまうことに、酷くストレスを感じた。だったら何も言わない方がましだと思っていた。
「そっか、それが今じゃ憎まれ口まで叩けるようになったんだね。よかったよかった」
和の指がいたずらに颯太の頬をつねる。
「やめてくらひゃい。そんなの、和さんくらいにしか言ってませんから」
「それは喜んでいいやつ?」
「……好きにしてください」
「じゃあ喜んじゃおう」
笑う和を見ていると恥ずかしくてモヤモヤしてくる。
「和さんこそ、どんなリーダーなんですか?」
「え、俺?」
和は目を瞬かせたあと、口元に手をあて「そうだな……」と溢した。そして少し俊巡してから、いつもの笑顔で笑った。
「俺も颯太と同じタイプかな。俺の場合、お飾りっていうのがピッタリなんだけど」
「和さんは……組の偉い人、なんですよね?」
周囲の目を気にして言葉をぼかした。カップルばかりのこの場所で、誰も颯太達の話を聞いているとは思えない。だが壁に耳あり障子に目ありという。本当なら話題を変えればいいのだろうが、今はなぜか和の話が聞きたかった。出会って十日目にして、初めて和のことを質問した気がする。
颯太がそわそわしていると、和は肩が触れるほど距離を詰め、二人にしか聞こえない声量で話を続けてくれた。
「父親が組長だから、長男の俺が若頭になってるだけ。自分でもがっかりしちゃうくらいリーダーの素質はないんだよね」
「確かに、プロの人に見えないです」
「プロの人って」
言葉を反芻して和が笑う。
「でも、プロらしいことは結構やってるよ?」
相槌の打ち方を間違えたと気づいた時には遅かった。話題はすでに和が話そうとしてくれていた話から逸れてしまっていた。
「株なんてまさにそうだしね。勉強会で企業のインサイダー情報をもらったり、会食で大きい会社の幹部から株価の操作を頼まれたり。本職の人達みたいにまともな売買をしてたのなんて、駆け出しの時だけだった」
どう考えてもプロの人じゃない? と言われれば颯太は頷くしかない。
「好きでやってるんですか?」
そう訊ねると、和は「俺が怖くなった?」と微笑み、颯太の頬に手を寄せた。手のひらの温かさを感じ、反射的に首を振る。
「面子も力も仁義も大切だけど、今業界で物を言うのは資金力なんだよ。叔父貴達が密輸や内訳不明の懇親会費でちまちま稼いでる中、指先一つで日に三億とか動かすの。おかげで俺自身は出来損ないでも、親父はご機嫌だし、事務所のやつらには安定して仕事を回してやれてる。それを面白くないと思うやつは多いけど、何と天秤に掛けたところで、結局得るものの方が多くて」
「……それ、和さんは怖くないんですか?」
「怖いって?」
「えっと、責任とか」
あとは逆恨みを買ったり。自分なら失敗の許されない重圧に勝てる気がしない。
「さすがに慣れたかな。あとは一応プロなので」
頬から和の手の温度が入ってくる。颯太は和の手に手のひらを重ね、控え目に頬擦りをした。
「そう、ですか」
「ごめん。なんか変な話しちゃったね。この話は止めようか」
「いえ……」
和は颯太から手を引くと、「隣はペンギンだって」と言って座席から立ち上がってしまった。咄嗟にその腕を引き留めることは出来なかった。
「早くおいで。オットセイとアシカもいるみたいだよ」
手招きされ、颯太は和に駆け寄った。
「あの」
「ん?」
「さっきの話ですけど、和さんが謝ることは何もないので。俺、和さんの話聞いてみたかったから」
それだけは伝えないといけない気がした。
妙に息んでしまい和を睨み付けるような顔になったが、その顔が余程おかしかったのか、和は肩を揺らして笑ってくれた。
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