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デート2
グレーのイルカを持ってみたり水色のイルカを抱えてみたり、和は先程から忙しそうだ。土産物コーナーにある一つ一万円もするぬいぐるみを二つも買おうか悩んでいる。
「あのレジ、まともに並んだら何分くらいかかるんだろう」
「十五分、くらいじゃないですか?」
「結構かかるね」
和がわかりやすく残念そうな顔をする。
初めて水族館に来た記念に何か買いたいと話していたのだが、中学生の修学旅行と時間が被ってしまい、レジには大勢の客で並んでいた。七台あるレジが二台しか開いていないうえ、こういう時に限って店員の要領が悪く、客の回転も悪い。
「誰か来てたら代わりに並ばせたんだけどな……」
「デートの練習なんですよね? そういうの、自分で並んだ方が印象いいですよ」
「……さすが。先生のアドバイスは一理あるね」
「先生はやめてください……」
和は小さく息を吐くと、持っていたイルカを陳列棚へ戻した。
「買わないんですか?」
「仕方ない。並んでると店の予約に間に合わないし、残念だけど次の機会かな」
そう目を細められ、思わず頷いてしまった。
「今度はジンベエザメのいる水族館に行きたいな」
「ジンベエザメって、沖縄と大阪か石川にしかいませんよ」
「そうなの? じゃあ旅行がてら行く感じか。それもいいね」
後ろ髪を引かれながら水族館を出て、駅前のロータリーにあるタクシー乗り場に並ぶ。こちらの列は人数も少なく、タクシーも頻繁に来ているようで待ち時間は少なそうだ。
「というか颯太、さっきから詳しいね。もしかして水族館好きだった?」
「……好きです」
結構。イルカやサメも好きだが、魚の群れが光を反射させて泳いでいる姿は美しくて見惚れる。場所によってはコツメカワウソを撫でさせてくれるし、何度行っても、年甲斐もなく帰りたくないと思ってしまう。
「なんだ。じゃあやっぱり土産屋で並べばよかった。今からでも戻る?」
「は……どうしてそうなるんですか?」
「そんなに好きなら、欲しかったかと思って。ぬいぐるみ」
「和さん、俺をいくつだと思ってるんですか?」
「年齢は関係ないよ。俺だって欲しかったし」
GINZA9に程近い雑居ビルの前でタクシーから降りる。ごねる和をタクシーへ押し込み、寿司屋に到着したのは家を出てから約三時間後のことだった。
目当てのビルは、テナントの殆どがスナックだった。紫や黒の看板に囲まれながら、寿司屋の看板だけが堂々たる雰囲気を醸し出している。偏見なうえイメージでしかないが、キャバクラの同伴なんかに使われそうな高級な店構えだ。
「どんなネタが出てくるか、楽しみだね」
とっくに空腹は通りすぎていたが、看板を見てエレベーターに乗っただけで食欲が戻ってくるのだからゲンキンな胃袋だ。
「サーモンが食べたいです」
「サーモンは……置いてるのかな? マスターに聞いてみないとわからないな」
だが、エレベーターの扉が開いて迎えてくれたのは、マスターではなく青ざめた顔をした舎弟数名だった。
「若、この時期に勘弁してください……!」
若い男の必死な声に思わず言葉を失う。この男は確か、洗車をしていた男だ。
「なんだ、もう来てたのか。早いな」
和のがっかりした声に、舎弟の声が悲痛さを増す。
「早いってそんな……ほんと、何もなくて良かったっす……! 若に何かあったら俺らどう始末つけたらいいか……」
颯太は所在なく黙っているしかなかったが、男の訴えを聞いているとだんだん肩身が狭くなった。
「あー、ダメダメ。今はそういうの無し」
「え?」
若い男の心の声を代弁するように、颯太の口から間抜けな声が出た。
「一時間で食べ終わるから下で待ってて」
和が寿司屋の暖簾を指差し、舎弟達に「いいね?」と念を押す。
「竜一に連絡するなら、小言は帰ってから聞くってついでに伝えておいて」
颯太はエスコートされるまま店の暖簾をくぐったが、 席に通されたところで、本当に寿司を食い始めていいものか不安になる。この瞬間にも、外で人が待っている。
「あの、大丈夫なんですか?」
颯太が訊ねると、和はカウンターに肘をつき短く息を吐いた。
「せっかくの外出なのに、ごめん」
「事務所の人達、なんだか必死そうでしたけど」
付き人をつけずに外出したくらいで、顔面蒼白になって探し回られるなんて尋常じゃない。和に何かあるんじゃないか、と心配になるのは普通の感覚なはずだ。
「大丈夫、颯太が心配するようなことは何もないよ。帰ったら竜一に絞られるくらい」
笑いながら「あいつ怒るとしつこいんだよね。帰りたくないな」と口にする。
話をはぐらかされている。さっきも踏み込んではいけない領域に踏み込んで、和を困らせたばかりだ。だが、この嘘だけは黙って流してはいけない気がした。
和への遠慮、という建前より、原因不明の焦りに突き動かされる。
「この時期に勘弁してくださいって、言われてましたよね?」
「……言われたね」
「この時期って、何ですか?」
颯太が見つめると、その横顔は溜め息を我慢したようだった。
面倒なやつだと思われただろうか。
「……遺言と、結婚と、選挙……かな?」
「選挙?」
颯太が目を瞬かせると、和は「お義父さんがね」と苦笑した。
「最悪なことに、今回は全部重なっちゃったからね」
ヤクザの組長が倒れ、若頭と政治家令嬢が政略結婚。そして選挙。その全てが重なったらどうなるかなんて、一般人の颯太には想像もつかない。だが、テーブルの上で握ったままの手は確かにしっとりと汗をかいていた。
「……全部重なると、どうなるんですか?」
「うちのことを面白くないと思ってるやつらに、狙われたりするかもしれないね。ただでさえ組の頭が替わるタイミングは、組織が分裂したり抗争が本格化したり騒がしいから」
和の口調は冗談を言うような軽いものだったが、颯太を黙らせるには十分だった。
狙われるって、殺されるかもしれないという意味だろう?
苦笑している和の黒い目や暗い髪。和は全てわかっていて、颯太と二人で水族館に来た。和がどうしてそんな危ないことをしたのかわからなかった。
「そんな危ない時になんで……?」
「なんで? ……そうだね、なんでかな。颯太との思い出が欲しかったのかな?」
胸が苦しくて、颯太はテーブルに肘をついていた和の腕を掴んだ。
「颯太?」
和の話した理由を真に受けたわけじゃない。だが、理由が自分である以上、このまま食事を始めるほど図太くはいられない。
「和さん。ここのお寿司って、テイクアウトとか出来ないんですか?」
「テイクアウト?」
「もし出来るなら、お寿司は家で食べましょう? 俺……今食べても、きっと味がわからない……」
颯太が訴えると、和は何度か瞬きをして、ぷっと吹き出した。
「そんなに怖がらなくても大丈夫。絶対に颯太に怪我させたりしないから。それに、外には若いやつらも待機してるし」
和は悠長に微笑んだが、そんなことを言いたいんじゃなかった。
颯太が譲らないでいると、いつの間にか白くなっていた颯太の手に和の手が重なった。
「……失敗しちゃったね。怖がらせてごめん……」
和はマスターに声をかけると、立ち上がって颯太の手を引いた。
「違います。俺は別に、怖がってるわけじゃないです」
「そうなの?」
「そうです」
嘘偽りなく、何かに巻き込まれることに恐怖は感じていない。今こんなにも気が急いているのは、自分が家に帰りたいわけじゃなく、和を家に帰したいだけだ。責任ある身の和に何かあっても、自分は舎弟達のように和を守れない。
一般人がヤクザを守ろうと思うなんて、ヤクザにとっては滑稽な話だろう。だが、颯太との事を優先するあまり、和が危険な目に晒されるのは不本意だ。それが和の不注意だとしても、自分に非はなくても。
「でも、デートとしては失敗でしょう? 相手の子に気を遣わせて、メインの寿司はお持ち帰り」
「……練習だから、平気ですよ」
颯太が相槌を打つと、和は「……そうだね」と言って長い睫毛を伏せた。
和の背中を見ていると、胸がチクリと痛む。
「和さん」
「え?」
「今は、練習が足りないだけですよ」
気づけば軽口を叩いていた。
「だって、水族館は、すごく楽しかった。もっと練習すればきっと……」
颯太が手を握り返すと、和は驚いた顔をした後、甘さを含んだ声で「ありがとう」と溢した。
「……先生はカッコよすぎて困るなぁ」
うん。俺も、本当に楽しかったよ。
そう言う和の声が、とても胸に響いた。
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