考え方の違い

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考え方の違い

 ビルに戻るなり、和は竜一に連れていかれてしまった。  取り残されてしまった颯太は、ひとまず寿司の包みをキッチンに置いて部屋着に着替えた。  もう少しで帰ってくるだろうから、味噌汁でも作っておこうか。そう思い立って冷蔵庫の食材を物色する。 「ただいま」  颯太が悩んでいると、和が疲れた顔で帰宅した。 「おかえりなさい。早かったですね」 「早かった? 本当? うんざりするくらい絞られたよ」  颯太は居合わせていないが、本気で怒った竜一が怖いのは想像に容易い。  和は脱いだライダースジャケットをダイニングチェアの背にかけ、本当に疲れているようで、溜め息を吐きながら肩を回している。 「和さん、ご飯の前にお風呂入りませんか?」 「え?」  颯太は手に持っていた食材を冷蔵庫へ戻し、和に近寄った。そして、その襟足に手を伸ばし、カラースプレーでごわつく髪に触れた。 「和さんの黒髪、違和感がすごくて。疲れてるなら俺が洗ってあげますから」 「う、ん……」 「じゃあ早く」  時間が勿体なくて、浴槽に湯が溜まりきる前にシャンプーを始めてしまった。浴槽に注がれる湯とシャワーの湯気で、浴室内はほんのり白く霞んでいる。  髪を洗ってやるだけで、決して一緒に入るわけじゃない。タオル一枚でイスに座る和に対し、颯太は部屋着の裾を捲った格好で浴槽の縁に腰かけた。  自ら提案したものの、病気でもない男の髪を洗うなんて、まるで親分と子分、主人と使用人、もしくは親と小さい子供のようだ。 「痒いところはありませんか?」とふざけて聞いてみたら、「大丈夫です」と笑いながら返ってくる。 「颯太がカッコよすぎて、自分が情けなくなってくるよ」 「何言ってるんですか。泡流すので目閉じてください」  シャワーヘッドを握り、和の髪に湯をかける。  ヘアスプレーで無理やり黒くされた髪は、一度洗い流してもなお、シャンプーの泡を黒く染め、和の背中を汚していく。もう一度手のひらにシャンプーを出し、適当に立てた泡を和の髪に乗せる。手先が器用なわけじゃないから、適当に洗っていたら、部屋着にえらく水が飛んでいた。 「終わりましたよ」  颯太がシャワーヘッドを元の場所に戻すと、顔をあげた和と鏡越しに目が合った。前髪を後ろへ撫で付け、少し赤くなった顔を綻ばせている。 「ありがとう。……って、どうかした?」 「あ、いえ。やっぱりこっちの髪色の方が好きだなって思って」  知らないうちに見入っいたようで、颯太は慌てて釈明した。 「え……?」  濡れているせいでいつもより暗く見えるが、それでも颯太のような暗髪とは違う。  和の柔和な雰囲気を作っているのは、日本人にしては色素の薄い目と髪の色だと思う。今日、黒髪の和を見て余計にそう感じた。決して黒が似合わないわけじゃないが、初めて屋上で会ったときに目を引かれたのは、この髪と目を持つ和だ。 「次にまた変装したくなったら、メガネと帽子とか、違う方法を考えた方がいいです」  竜一に絞られたなら、その予定もしばらくないだろうが。  颯太がそう言うと、容姿なんて褒められ慣れているだろうに、和は照れくさそうにはにかんだ。 「……くすぐったいな。そんな風に言ってくれるのは颯太くらいだよ。そういえば、初めて会ったときも、この顔が好みだって言ってくれてたっけ?」 「好みとまでは言ってませんよ」  和がくすくす笑う。 「俺の髪がこんな色なのは、母親に外国の血が混じってたせいなんだよね。どこの国かは聞いてないけど」 「教えてくれなかったんですか?」 「どうだったのかな。教えてもらったのに、俺が覚えてないだけかもしれないね。母親とは三歳までしか一緒にいなかったし、面倒だから親父にも聞かなかったし」 「もしかしてお母さん……」  颯太が言葉を詰まらせると、和は「死んでない死んでない」と笑ったあと「多分ね」と付け加えた。 「三歳のとき母親に売られたんだ。親父相手に、帯のついた札束いくつかと引き換えに」 「え……?」  颯太は聞き返したが、和は何でもない思い出話のように話し続けてしまう。 「妾の子だし仕方ないんだけど、本家にいた頃は継母からのあたりが中々強くて。なんせこの髪と目の色でしょ? 中学までは黒染めさせられてたよ。高校にあがって一人暮らしを初めてからは馬鹿らしくてやめたけど」  この話し方は、颯太に何か言ってほしいわけじゃない。そうわかるのに、どうしても何か言いたくなるのはなぜだ。 「こんなに、綺麗なのに……」 「ありがとう。でも颯太の方がずっと綺麗だよ。屋上で初めて見たとき、飛び降りようとする姿がすごく綺麗で、思わず息を呑んだんだ」 「和さん?」  和の濡れた手が颯太の髪に触れた。 「綺麗な黒い髪が風に靡いてて、まだ若いのに自殺なんて思い切っちゃって……。咄嗟に、羨ましいと思った。良いな、綺麗だな、って。颯太はそれどころじゃなかったのにね。ごめんね」 「和さんも……、自殺を考えたことが、あるんですか?」  颯太が訊ねると、和は目を瞬かせて「まだ無いかな」と笑った。 「親父が母に詰んだ札束と、ここまで育ててもらった分くらいは返そうと思って生きてるからね。それに、自殺なんてしたら、その辺で家畜の餌にされそうだし」  和は笑うが、それがヤクザ的冗談としても同調できない。 「今も、尽くし足りないんですか?」 「まだ、足りないかな」 「和さんは、お母さんを恨んでないんですか?」 「恨んでないよ」 「なんで?」 「母親と暮らしていたら俺の生活はもっと酷かっただろうし、今頃つまらないことをやらかして刑務所にいたかもしれないからね。親父に売ってくれて良かったとさえ思ってるよ。生活には困らないし、良くも悪くも大所帯だから寂しかったことなんてないし」 「そう、ですか……」  和の組織に対する恩は、日に三億稼いでも返しきれないものなのか……? 「どうしたの?」 「あ、いえ……。細谷さん達、和さんのこと好きでしかたないって感じですもんね」  ヤクザが嫌いなのに、自殺する自由も与えられず、組織のために働いて、恋愛まで好きにさせてもらえない。まるで組織に飼われている、とさえ感じられる。 「ぷっ」 「え?」  和は「竜一かあ」と笑うと、唖然としていた颯太の腕を掴んで立ち上がった。  床にタオルが落ちるのが見え、気づけば濡れた体に抱き締められていた。 「ちょっ、和さん、濡れるっ」 「もう濡れてるでしょ? あとで着替えればいいよ」 「部屋着、これしかないのに」 「そうしたら、また俺のをどうぞ」  和が耳元で笑う。 「……なんですか?」 「颯太はお風呂入らないの?」 「あとで入りますよ」 「どうせだから一緒に入ろうよ」 「なっ、なんで男二人で風呂なんて……っ」 「ここまで入ってるのに今さらじゃない? お礼に俺が洗ってあげるよ」 「結構ですよ! やめろ、脱がせるな! くすぐったいってば!」 「まあまあ、暴れると滑って転ぶよ」  結局、根負けして一緒に風呂に入る羽目になった。  足を伸ばして座る和の脹ら脛を跨ぎ、和に横顔を向けて体育座りで屈む。湯に浸かるのは気持ちいいが、せっかくの広い湯船も男二人で入っては狭い。 「今日は颯太の笑ってる顔がいっぱい見られて嬉しかった」 「はあ? 現在進行形で怒ってるんですけど」  和に背を向けると、腿の上に座るよう体を引き寄せられた。 「あっ、ちょっと……!」 「どうしたらその機嫌は直るの?」  この体勢はなかなか際どくて思わず言葉が詰まる。今素肌を触れ合わせたのでは、先日のことが生々しく思い返されてしまうのに。 「和さん?」 「……颯太には甘えられる気がする。俺の初めての人だからかな? またつまんないこと話しちゃったし」  颯太の肩に顎を乗せ、和は苦笑いを溢した。 「それ、本当だったんですね」 「それって?」 「童貞」 「もちろん本当だよ。女性にちょっとしたトラウマがあってね」  和のトラウマについては竜一から聞いていたが、初めて聞いたふりをした。 「もう何年も、女性と二人きりで会ってないよ」 「……婚約者の女性は、平気なんですか?」 「平気も何も、妊娠させないといけないんだから、プレッシャーだよね」 「そう、ですね……」  肩に額を擦り付けられたから、なんとなくその頭に頬を寄せた。 「けど、彼女も可哀想なんだよ。学生の頃から付き合ってる恋人がいるんだって」  湯がぱしゃりと跳ねた。 「それを、和さんに言ったんですか?」 「言ったというか言わせたというか、鎌をかけたらポロっとね。でもほら、バレたりしたら、その彼が生きていられるか怪しいし。周りが協力してやらないと可哀想だよ」  諦めることに慣れた声で、和がゆっくり言葉を吐き出していく。 「結婚しても上手くやってほしいよね。もし、俺に全く似てない子を育てることになっても、それはそれで面白くていいから」 「……すみません。笑えません」  伴侶から一番に愛してもらえないことを知りながら、それでも結婚しなければいけない男を、笑うなんて出来ない。端で聞かされるだけで胸が苦しい。 「諦められないくらい大切な人がいるのは羨ましいよね」  和のそのつぶやきに、颯太が相づちを打つ隙は与えられなかった。例え与えられていたとしても、きっと何と答えてやれば良いかわからなかったと思う。 「颯太……」  熱っぽく名前を呼ばれ、颯太はちゃぽんと湯の跳ねる音を聞きながら振り向いた。足裏が浴槽の底で滑り、ぎゅっぎゅっと擦れる音が浴室に反響する。  この憐れな男を一時でも慰めるには、下手な言葉よりセックスの方が向いていると思った。練習とはいえ、和が求めてくれるなら。  だが、振り向いた先にあった和の目は、興奮して熱くなったものとは違っていた。 「和さん?」  子供が悪いことをしたときの目と同じ。叱られるか叱られないかわからず、出来れば叱らないでほしいという期待を込めて見あげてくる目。飴色の瞳を揺らしながら、じっとこちらを見つめてくる。 「どう、したんですか?」 「……実は、颯太の借金について、竜一に調べさせた」  思ってもみなかった話題があがり、咄嗟に反応出来なかった。 「へ、え……。よく、わかりましたね。俺、取り立てにきたやつらの名前とか言いましたっけ?」  颯太が目を瞬かせても、和はじっとこちらを見つめるだけで、何も応えてはくれない。 「え……けど、なんで?」 「債権を買い取らせた」  和の唇が、そう動いて見えた。 「債権を、買い、取らせた?」  何を言われたのか、聞き取ることまでは出来た。 「え、すみません、話が……」  だが、言葉を飲み込むことはできなかった。 「相談もせずにごめん。ただ、どうしても気になって。他所の組織と颯太が繋がってるなんて気が気じゃなくて……」 「買い、取らせた……?」  熱い風呂に入っているはずなのに、頭から氷水を浴びせられたような感覚がする。旋毛から首の後ろにかけて一気に冷たくなり、その冷たさがじわじわ下に降りてきて心臓まで冷やしていく感じ。 「俺、和さんと金の話は嫌だって……」 「颯太……」  和の手が再び体を引き寄せてきたが、力一杯拒絶した。だって、こんなにも肌が粟立っている。  金の話をされないことが嬉しくて、馬鹿だとは思いながら和の提案に乗った。一宿一飯の優しささえ素直に受け入れられなくて、家事や自分に出来ることをこなし、金銭に対する価値観を誤魔化しながら一週間を過ごした。  そうして作り上げたフェアな土俵でセックスをして、ようやく和と対等だと思った。落ち込んでいる和の力になれるなら、『何かしてあげたい』と思った。和を慰められるなら、『練習』と称したセックスだって、いくらでも構わなかった。  だがそれは全て、対等の下に思えたことだ──。金という絶対的な価値を翳されては、颯太から和に『何かしてあげたい』も何もない。 「……これからは和さんに返済すればいいんですか?」 「返してなんていらない」 「そんなわけにはいきません」 「俺が、そう、したかっただけだから。生まれて初めて、稼いでて良かったと思えた」 「俺は、和さんとの間で金のやりとりなんてしたくなかった」 「だから返してなんていらないって……っ」  肩を掴まれ、強制的に和の方へ向かされる。そんなことしなくても話は聞こえているのに。 「ただ、自殺を考え直してほしくて……颯太と離れたくない、から」 「離れたくないから、俺を金で縛るんですか?」 「違う、そうじゃなくて、俺に出来ることがそれくらいしか……」 「そういうの、求めてません」 「……っ」  再び目を反らすと、後頭部を掴まれ必死に唇を押しつけられた。なんだか急に鼻水が出てきたようで、唇を塞がれては息が出来ないから苦しい。苦しいから離してほしい。 「んぅ……っ、離して、ください……っ」  呼吸の合間に思わずキスから逃げてしまった。和に金を借りているんだから、逃げてはいけないのに。 「颯太っ」  裸のまま抱き締められ、背中を臀部のぎりぎりまで撫でられる。その手の動きさえ、心臓まで侵食していた凍えを体の末端へと促した。  どうして和は、他人のことまで構おうとしたのだろう。自分のことだけでも大変な時期なんだから、颯太のことなんて構わなければいいのに。 「けど俺、悪いことをしたとは思ってない」 「そうだとしても、俺は、金で体を売ってる気分です」  和は短く息を飲んだ。 「違う……っ」  背中を撫でていた手に力が入り、痛いほど抱き締められる。 「俺が、颯太を好きになってたら……?」 「な、に……?」 「俺が颯太を好きだって言っても、そう思う……?」 「は……?」  金が絡むということは、抱き締められて苦しくても、キスされるのが嫌でも、セックスが痛くても、すべて受け入れないといけないということじゃないのか?  そこに自分の感情が入り込む余地なんてない。両親が死んでから今まで、ヤクザにそう教え込まれて生きてきた。そう割り切って生きてきた。 「金なんかのことで、自殺なんて、してほしくない」  和の声が掠れていく。 『二週間付き合ってくれたら、俺は、君が死んだときに誰よりも悲しんであげる』  心配しなくても、今、自殺することさえ自由にならなくなった。  和相手に、踏み倒したり出来ない……。 「颯太……」  和の顔が近づいてくる。せっかく綺麗な顔なのに、顔を歪めては勿体ないと思う。そして、そんな顔をさせて申し訳ないとも思う。  しかし、頭の硬い自分の価値観が簡単に変わることはない。 「すみません、和さん。睦事の練習は、俺には荷が重いです」  微かに触れた唇は震えていた。  震えているのは、どちらの唇だろう。 「でも、キスもセックスも、いくらでも付き合います。返済の算段だけ、あとで相談させてください」  颯太の言葉に、和からの返事はなかった。  会話のないセックスがこんなにも苦しいなんて知らなかった。苦しすぎて、浴槽の縁を掴みながら涙が溢れた。
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