和への気持ち

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和への気持ち

「そうちゃん、どうしてそんなに機嫌悪いの?」 「そんなことない」 「えー? 怒ってるじゃん」 「怒ってない。いつもと同じだって」 「えー、絶対いつもと違うのに!」  いつもだって愛想がいいわけじゃないんだ、同じだろう。そう思うのに、照は納得いっていない顔で契約書のファイリングを続けている。  もしかして、照に何か八つ当たりしてしまっただろうか。だが本当に、怒っているわけじゃない。少し、落ち込んでいるだけだ。  昨晩風呂から出た後、上滑りする会話を続けながら味のしない寿司を咀嚼した。  借金の話には取り合ってもらえず、颯太が何を言っても「金のことはいいから、ゆっくり考えてほしい」の一点張りだった。何か言いたそうな視線をしきりに寄越され、和の好意を受け取れないことに心が怯んだ。自分は何も間違っていないはずなのに。  ベッドへは一緒に入ったものの、落ち着いて休むなんて出来なかった。ベッドの隅で眠れずにいたら、夜中、和が寝室から出ていったのを知っている。  目を閉じればイルカの姿が鮮明に思い浮かぶのに、ほんの数時間前まで和と水族館にいたなんて嘘みたいだった。コーヒーをご馳走した時に見せてくれた和の笑顔が、苦しいくらい懐かしかった。  だが、今朝の和は驚くほどいつも通りだった。昨日の出来事は悪い夢だったと錯覚するくらい、いつも通りの和だった。身構えていた颯太は呆気にとられた。  颯太と一緒に朝食を摂り、証券取引所の営業時間に合わせてリーディングルームに籠った。午後には昼食会があるとかで、スーツを着て竜一と出掛けていった。  和に冷たい態度を取ったりはしていない。戸惑いながらも、普通に振る舞えたと思う。ただ、颯太の感情だけが、夜明けを迎えられなかった。和が颯太の債権を持っている。そう考えただけで胸が苦しい。  金には人の立場を決定づける価値がある。対等だと思っていたくても、そこに金が絡むだけで対等だと思うことさえ許さない力がある。 「金なんていらない」  と何度も言ったのに、真意が伝わらなかったことがやるせない。  和ならわかってくれると期待していた。そう期待したから、屋上で和と出会ったとき、部屋についていった。  和とは対等でいたかった。ヒモ同然で生活している身で、対等というのも烏滸がましかったかもしれない。  和は良かれと思って颯太の借金を買い取った。金で颯太を囲いこもうなんて、微塵も思っていない。頭では理解している。  しかし、どれだけゆっくり考えても、金は颯太の価値観に絡みつき、颯太を雁字搦めにしてくる。この惨めさをどう処理すればいい?  何度目かわからない溜め息が出る。 「その溜め息、そろそろ食べてやりたくなってきたー!」 「……ごめん」  複合機に手を置いたまま颯太が止まっていると、慌てた様子で竜一が帰所した。  聞いていた時間よりも早い。和から夕飯はいらないと聞いていたが、変更になったのだろうか。 「おかえりー」  緊張した顔の竜一を前に、照が気の抜けた声をあげる。しかし余程急いでいるのか、竜一は照に返事もせず、まっすぐに颯太のところへやってきた。 「お、かえりなさい」  鬼気迫る顔に思わずたじろいでしまう。 「颯太、悪いが和の着替えを詰めてくれないか。適当でいい。とりあえずパジャマと下着さえあれば……いや、無ければ適当に買うから、無いなら無いでいい」  いつもは明瞭な竜一の指示が的を射ておらず、胸騒ぎがする。一体何だ? 「あの、いいですけど何日分ですか?」  颯太が訊ねると、竜一は唸りながら頭に手を当てた。 「あー、とりあえず一週間分。あの阿呆、刺されて入院することになった」 「え……?」 「なにそれー!」  昼食会の帰り、駐車場で待ち伏せていた他所の組の構成員に刺されたのだという。それも、父親を庇って。  組織の変更で内部が揉めているときは、他所の組から茶々を入れられやすい。組長が遺言なんて書いたと噂になれば尚更だと言う。組織が立ち回らなくなるよう、目当ての組織幹部に奇襲をかけてくる。それは、ヤクザの抗争が仁義や暴力から金に土俵を替えたところで変わらない。だから、颯太の服は竜一が見に行ったし、寿司屋へ行くにも護衛をつけていた。 「第一、そういう時は若いやつが飛び出すんだよ。それをあの阿呆はいの一番に飛び出しやがって」  竜一の声には呆れとともに憤りが滲んでいた。和を刺した人物はすでに捕らえられていると言われても、颯太にはそんなことどうでも良かった。 「和さんは、無事なんですか?」  震える手を押さえつけ、竜一を見上げる。 「……生きてますか?」 「勝手に殺してやるな。着替えを用意してくれっつったろ?」 「あ……す、みません……」 「まだ眠ってるが、一緒に来るか? 寝顔くらいは見られるだろ」  竜一に急かされるまま荷物を用意し、車の助手席に乗り込んだ。  唐突だと思った。自分の知っている男は、刃物どころか暴力と縁のない顔をしている。ましてや、組長を庇ってチンピラに刺されるなんて、そんな任侠映画みたいなエピソード、あの男とは無縁のはずだ。勝手にそう、思い込んでいた。 「本当だったんだ……。ヤクザだって……」  二度目に乗ったアルファードの乗り心地は最悪だった。週末ということもあり、病院へ向かう大通りは渋滞していた。気を紛らすために外を見れば、酔っ払ったサラリーマン達が盛り上がっていて、車内との温度の違いを感じる。 「今さら何言ってんだ。ずっとそうだっつってんだろ」 「わかってます。わかってるんですけど……」  和本人だって、自分はヤクザだと言っていた。ヤクザを嫌いだと言う颯太に、時折自分のことが怖くないかと確認しては、それを否定する颯太に苦笑していた。 「それでも、和さんの近くにいると、それを感じない」 「はあ?」 「ヤクザどころか、無職のお坊っちゃんと生活しているような気になってました」 「はっ、なんだそりゃ」 「それが、簡単に刺したり刺されたりするんですね。ヤクザの世界ではそれが普通なんですか?」 「……なんとでも言え。お前みたいな学生を囲いこんで、『若は可笑しくなっちまったのか』って、一階の連中が憔悴する程度には変な世界だよ」 「可笑しく、って……まあ、間違いないですね」  可笑しくもないと、自殺しようとする男を引き留めて、妙な提案はしない。 「おい、泣くなよ」 「……一ミリも泣いてないですよね?」  颯太が言うと、竜一は「そうかよ」と鼻で笑った。 「俺はお前の借金のことも反対したんだぞ? 他所のシマの債権なんて簡単に買い取れるもんじゃねえし、苦労したんだからな。絶対今度なんか奢れよ」 「……は、い……」 「腹に穴空いてんだし、多少気に食わなくても今晩くらい優しくしてやれ」 「……はい」  病院についたのは、事務所を出発してかなり経ってからだった。  和は角度のついたベッドへ横になり、見舞客の何人かと話していた。青い顔をしてはいるが、心配していたよりも元気そうだ。 「おい、入らないのか?」  ドアのスリット窓から中を覗くだけの颯太に、後ろにいた竜一が笑う。 「けど、先客が……」 「ん?」  七十は優に過ぎているであろうロマンスグレーの男性が窓際のソファーに座っていた。濃茶の着物が上品だが、その風格はいかにもヤクザの幹部だ。 「親父さん、まだいたのか」 「あの人が……」  なら、和を挟んで向かいに立っているのは和の婚約者だろうか。背中しか見えないが、小さな頭から腰までまっすぐに落ちる黒髪が綺麗で、後ろ姿からも美しい女性なのだとわかる。 「どうする?」 「え?」 「お前、今は入りたくねぇだろ? あの人達が帰るまで待ってるなら、付き合ってやる」 「俺は……」  入りたくねぇ、ではなく、入ってはいけない、の間違いだ。  外から見る限り、部屋の中に颯太の知っているような下品な連中はいない。一口にヤクザといっても、颯太の近くにいたチンピラとは格が違う。和の周りにいるのは、面と向かって会ったときにこちらが萎縮してしまうような華やかな人達ばかりだ。  そんな中で、和は会話することさえ面倒だという父親と談笑し、別に恋人がいる婚約者と微笑み合っている。  和本人が何と言おうと、和の世界はあの輪の中で成立している。なのに、突然自分が入っていって、和との関係はなんて説明すればいい? 舎弟じゃない。友達でもない。セックスの練習台です、なんて口が裂けても言えない。 「やっぱり、俺はいいです」 「いいって?」 「帰ります。和さんには、俺がここに来たことは言わないでください」  着替えの詰まったボストンバッグを竜一に押しつけ、颯太は踵を返した。 「っはあ? おい、何も帰らなくたって、待ってりゃいいじゃねえか」  待っていても同じだ。和と一緒にいる時に、誰かやって来るんじゃないかと冷や冷やするくらいなら、最初から入らない方がいい。  和が無事なことはもうわかったんだから。 「ってか、お前、家の鍵は? 持ってないだろ!」 「あ……」  竜一に言われてから気づいた。  鍵どころか、金もまともに持っていない。今の颯太が持っているのは、ズボンに突っ込んでいた小銭だけだった。 「ほら、貸してやるから戻ってこい」  勢いよく歩いてしまった距離をおずおずと戻る。 「……すみません」  竜一から部屋の鍵を受け取り、今度こそその場を去ろうとしたら、今度は腕を掴まれた。 「待て待て待て!」 「……細谷さん。ここ病院です。静かにしてください」 「阿呆、ここから駅まで何キロあると思ってんだ。タクシー代も貸すから待て」  しかし、竜一の財布から万札が出てくるのを見てゾッとしてしまった。  金にアレルギーが出来ている。 「なんだ? 足りるだろ?」  颯太は首を振り、一歩二歩と後ずさった。 「いいです。時間はあるので歩けます」 「は? おい、颯太!」  今度こそ、引き留められても止まれなかった。  とにかく、自分はあの場所から一刻も早く離れた方がいい。  颯太は借り物の鍵を握りしめながら、最寄り駅までの長い距離を歩いて帰った。 「そうちゃん!」  ビルの前まで来ると、鼻を赤くした照が白い息を吐きながら駆け寄って来た。勢いよく抱きつかれ、両手でその体を抱き止める。 「照?」 「兄さんから電話があって、心配してたんだよ!」  颯太が病院から帰ってくるまでかなり時間がかかったはずだ。なのに、寒い中をずっと待っていてくれたんだろうか。  頬にあたる照の髪は冷たく、スカジャンの生地も冷えきっている。 「ごめん……」  颯太は項垂れて照の肩に額を押しつけた。 「そうちゃん、どうしたの?」 「どうしたって、何が?」 「どうして帰ってきちゃったの? 和くん、大丈夫だったんでしょ?」 「別に、どうもしない。和さんは、元気そうだった」 「病院で、和くんと何かあった?」  照の問いかけに、颯太は静かに首を振った。 「和さんには、会わなかった」 「え? なんで?」 「和さんのお父さんと、婚約者が来てた」  照は聡い。颯太がそう言うと、背中をぽんぽんと撫で、ひとまず事務所に入るよう促してくれた。「いっぱい歩いて疲れたよね」と笑って颯太を来客用のソファーに座らせ、「晩ごはんは僕が作ってあげる!」と言って、ヤカンでお湯を沸かしてくれた。  ずるずるとカップ麺を啜り、無言のまま笑い合う。寒い中に長くいたせいで、温かいものを食べると二人して鼻水を垂らすことになった。 「俺、和さんに借金があるんだ」 「え?」 「五百万と少し」  空になったカップへ箸を置き、颯太は目を丸くする照に笑いかけた。  照には全部話していいと思った。久しぶりに友達と思えたからだろうか。親の借金のことも、休学したことも、自殺しようとしたことも全部話してしまった。将来は弁護士になりたかったことまで、本当に全部。  唯一、和と体の関係があることだけは言えなかった。 「そんなの返す必要ない、和くんはそうちゃんが好きだから払ってくれたんだよ!」 「そんなわけない」 「そうだってば!」 「違う。和さんがお人好しだからだ。それに、和さん相手じゃ、金を踏み倒すなんて、そんなわけにいかない」  同じ親の借金だというのに、チンピラへの借金は死んで踏み倒してやろうと思えても、和への借金だけはそうは思えない。死んで曖昧になんて、絶対にしたくない。 「返すにしたって、弁護士になってから返せばいいじゃない。そしたら五百万円なんてすぐだよ」  照がまっすぐこちらを見てくる。だが、この照の優しさには頷けなかった。頷きたいのは山々でも、今は嘘をつく元気がない。 「そうだな。けど……、俺はもう、弁護士にはなれないから」 「なんで?」 「来年度の学費も払えない」  颯太が笑って話を切り上げると、照はそれ以上何も言わなかった。  もし和に金を返し終えたら、また対等だと思えるようになるだろうか。また水族館に行ったり、軽口を叩いたり出来るだろうか。夜道を歩きながら、そんなことばかり考えていた。 「絶対、無理しちゃだめだよ? お金よりそうちゃんの方が大切だよ?」 「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから」  ゴミを持って立ち上がり、照にぎこちなく笑いかけた。 「ご馳走さま、美味しかった。照の分のゴミも──」 「そうちゃんはさ……」 「え?」 「和くんを好きなわけじゃないの?」  事務所から帰って、リビングのソファーに寝転ぶ。部屋に一人きりだと思うと、遠慮なく溜め息を吐けた。  周囲のビルやマンションから漏れてくる灯りのせいで、窓の外は暗くなりきらない。外に目を向けても、見えるのはどこかの部屋の灯りだ。昼に青空が見えるように、夜に満点の星空が見えることはない。 ──そうちゃんはさ……和くんを好きなわけじゃないの?  照の問いかけを否定できなかった。 「嫌いなわけない……」  好きなんて感情は、不都合すぎて、知らないふりを決め込んでいた。  和に惹かれるなんて愚かだ。来週にも結婚しようって男を好きになってどうする?  自分はあくまで和の練習台だ。和に婚約者がいなければ、今ここにいることも、和とセックスをすることもなかった。  病室で見たあの女性がいたから、颯太は和に構ってもらえただけだ。なのに、好きだなんて何て厚かましいんだろう。厚かましいうえ、好意を自覚してしまえば、次々に薄暗い感情が湧いてくる。  好きになってほしい。二週間の約束が終わっても一緒にいさせてほしい。入院なんてしたら、一番に駆けつけて手を握らせてほしい。そんな身のほど知らずな欲ばかり湧いてくる。  和のことはちゃんとお祝いしてやりたいのに、離れたくなくて、ごねてしまいそうだった。  和が冗談で言ってくる「カッコよすぎる」ってあれ、聞き流すふりをしていたが、すごく好きだった。  和には、カッコいいと思われていたい。  心の底からは無理でも、せめて形だけでも、カッコよく和の結婚を祝いたい。  和にはこんな姿を知られたくない。 「……結婚祝い、でも贈ればいいのか……?」  コーヒー一杯であれだけ喜んでくれた和だから、プレゼントをしたらきっと喜んでくれる。それが颯太からのせめてものお礼だ。気持ちを紛らせるにも丁度良い。  一知人として和の門出を祝う。「酷いこと言ってごめんなさい」とか「今までありがとう」とか、そんなものは「おめでとうございます」の一言で全て伝わる気がした。 「和さんって何が欲しいんだろ……」  一週間一緒に暮らした程度では、そんなこともわからない。 「…………」  問題はそれを買う金だ。バイト代はあるが、プレゼントを贈るにはきっと足りない。それに、和が肩代わりしてくれた借金のこともある。  何をするにも金が必要で、生きている限り金に縛られる。一人でじっとしていたら、どんどん暗い気分になると思った。  これ以上そんな気分、なってたまるか……。 「バイト……手っ取り早いのは肉体労働か、夜勤か……」  和から借りていたタブレット端末を立ち上げ、求人サイトを漁った。  明日にでも面接が可能で、夜から使ってくれる仕事。あとは給料が当日支給であれば何でもいい。土木、水商売、ラブホテルの清掃。検索結果には想像通りのアルバイトが並んでいた。颯太はそのうちの何件かに連絡をし、再びソファーに倒れこんだ。  来週にはあの女性がこのソファーに座り、冷蔵庫に入っている飲んでも飲んでもなくならない缶ビールを飲むのだろうか。それとも、どこか別の場所に新居を設けているのか。  どちらにせよ、和はあの黒髪の女性と暮らす。 わかっていたことだ。何度も自分に言い聞かせているように、颯太が練習台になっているのは、全て彼女を悦ばせるためなんだから。 「ん……」  下着の中に手を入れ、何も反応していない性器を弄ってみた。  和にどんな風に触れられていたか思い返し、同じようには出来なくて、そんな女々しいことをする自分に興醒めして手を止めた。  誰でもいいはずの練習相手にしては、優しくされ過ぎた。おまけに、 「……颯太を好きだって言ったらどうする? って……」  和がそう言った理由は、今となっては推し量ることもできない。和も、颯太と離れることを寂しいと、少なからず思ってくれていたのだろうか。 「お人好しすぎ……」  そんな優しい男に、金で体を売ってる気分だなんて言ってしまった。自分の価値観に縛られて、感情のままになじってしまった。 「謝りたい……」  そんな機会、もうないかもしれないが……。  颯太は体を起こし、手近なところにあったウェットティッシュでたいして汚れてもいない手を拭った。
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