矢印の向き

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矢印の向き

「昨日の夜どこ行ってたんだ?」  早朝にアルバイトから帰宅し、カウチソファーでぼーっとしていると、竜一が家にやってきた。 「まあ何でもいいけどよ」 「……俺に何か用でしたか?」 「悪いが、病院までノートパソコンを届けてやってくれないか?」 「なんで俺が……」 「バイトの一環だと思えよ」  他意を感じたが、そう言われれば言い返すことも出来ない。  病院でパソコンを使うということは、和はまだ当分帰ってこないということだろう。 「ノートパソコンだけですか? 洗濯物とかあります? 俺が動けるのは明日までなので、今のうちに言っておいてください」 「明日までって、何か予定があるのか?」 「和さんとはそういう約束ですから」 「はあ?」 「俺、明日にはこの家を出ていきます」  面食らっている竜一の脇をすり抜け、和の病室へ持っていく荷物をまとめた。  病院へ使いっぱしりにされるのは構わない。しかしもう一度和に会ってしまえば、さらに部屋を出ていくのが寂しくなる。和に会って謝りたい気持ちと、離れがたくなるから会いたくない気持ちと、その二つを天秤にかけたところで答えが出せるわけもない。  前に来たときと同様に、ドアのスリット窓から病室内を覗いてみた。どうか眠っていてくれと願いながら。  その願い通り、和はベッドで目を瞑っていた。来客もなければ、看護師や医者がいることもない。和がいるのは広い個室だ。部屋の隅に荷物を置いて帰れば、和を起こすことなく帰れるかもしれない。  颯太は扉を開け、静かに病室内に入った。持ってきた紙袋を入口付近の台に置き、和の方へ振り返る。  和は規則正しい寝息を立ていて、颯太が来たことに気づいていない。 「…………」  少しなら、寝顔を見ていても起きないだろうか。  そのまま引き返せばいいものを、気づけばベッドに近寄ってしまった。  少しだけ、最後に和と話すことを期待していた。その証拠に紙袋には林檎を忍ばせてきた。食べたいと言われたら、剥いてあげようと思って。 「綺麗な顔……」  和が目を閉じていると、長い睫毛が目の下に影を作る。なぜかそれを見ているのが好きで、家にいた時も、和を起こす前の少しの時間だけ、ベッドの縁に座ってじっと観察していた。 「ふあ……」  徹夜明けだからか、人が眠っているのを見ると自分も眠たくなってくる。口元に手をやり大きな欠伸を噛み殺していると、ふっと笑う声が聞こえて固まった。 「眠そう」 「あ……」  下から手が伸びてきて、指の腹で目尻に溜まった涙を拭われる。颯太は目を見開き、極上の笑みを浮かべる和に見とれた。 「パソコン、颯太が持ってきてくれたの?」  体を起こした和が指さしたのは、颯太が先ほど台に置いた紙袋だ。 「あ……、細谷さんに言われて……」  たった二日話さなかっただけなのに、久しぶりに話す時のように上手く言葉が出てこない。歯痒くなり、颯太は持ってきた紙袋を掴んで和に差し出した。 「でも、もう帰ります」 「どうして? せっかくだし、ゆっくりしていってよ」  和は人好きする顔で微笑み、「病室って想像の何倍も寂しいんだよ」と言いながら紙袋を漁る。ノートパソコンを持って嬉しそうにしているところを見ると、本当に退屈だったようだ。 「わ、林檎も入ってる。良い香りだね。颯太が剥いてくれるの?」  颯太はベッドの横に立ったまま、いそいそとパソコンを立ち上げる和を見た。 「今日から食事も摂ってよくなったんだよ。林檎なら食べてもいいかな」 「……刺されたって聞きました」 「あー、うん、そう。とっさに体が動いちゃって、自分でもびっくりした。運動神経がいいつもりはなかったんだけど、こういうのって刷り込みなのかな? でもほら、この通りピンピンしてるから」 「…………」 「親父からの株もあがったし、結果的には万々歳かな。ご褒美が貰えるらしいんだけど、何でもいいって言われてて、何にしようか悩んでるところ」  和は何でもないことのように話している。殺されかけたのに。 「……そんな顔しないで?」  自分ではどんな顔をしているかわからないが、かなり酷い顔をしているのだろう。和が眉尻を下げている。 「大丈夫だから。こっちおいで」  和に導かれるまま、颯太はベッドの縁に乗り上げて座った。 「よかった」  そう呟いたのは無意識だった。和が生きているのはわかっていたし、元気なことも前に病院に来て確認できている。  それでも、本人の口から「大丈夫」と言われると、ほっとして肩から力が抜けた。 「心配してくれてありがとう。連絡できなくてごめんね」 「連絡なんて、別に……」 「うん。……颯太はどう? 変わらない?」 「たった二日ですよ? 何が変わるんですか?」 「そうだね。けど、俺は寂しかったから」  寂しかったと言う割には、ベッドサイドの棚や窓際の机に花などの差し入れが溢れんばかりに置かれている。  本当に寂しかったのは颯太の方だ。 「今日は、誰も来ないんですか?」 「今日どころか、昨日も一昨日も一人だよ。誰かと話すなんて、医師と看護師が巡回に来るときだけで、あとはテレビばっかり観てる」 「木曜は、来てましたよね?」  颯太がそう言うと、パソコンに触れていた和の手が颯太の手を握った。 「やっぱり来てくれてたんだ。竜一と一緒だったよね?」 「はい……」 「入ってくれれば良かったのに。ヤクザばっかりだったし怖かった?」  どう考えても入れなかった。そう言いかけて、首を振るだけに留めた。 「颯太?」 「なんでもないです。そんなことより和さん、仕事したいんじゃないんですか?」  意図的に憎たらしい口調にして話題を変える。 「やめてよ、人を真面目みたいに言うの」 「真面目でしょう?」 「昨日、一昨日と触れなかったからね。しくじったな。三千万くらいの損失で済んでるといいけど」  和のことだから、颯太が話題から逃げたことに気づいただろう。だが、和は颯太の手を離すとパソコンに向かって仕事を始めてくれた。 「はー、パソコンに触ってると落ち着く」 「大袈裟じゃないですか?」 「そんなことないよ。ずっと重症人扱いされて居心地悪かったし、颯太が持ってきてくれて助かった」  そのまま黙ってしまった和に付き添っていたものの、あまりに静かでは、夜勤明けの体はついつい船を漕いでしまう。無言のまま手招きされ、颯太は和の隣に横になった。  こんな風にしているところを、誰かに見られてはいけない。寝るなら帰って寝た方がいい。なのに、こうして一緒にいると帰りたくなくなる。 「……こんなことしてると、本当に寝そうです……」 「寝たらいいよ」  和の声があまりに優しく、胸がきゅっとする。 「寝たくない……」 「なにそれ。そんなに眠そうなのに?」 「話しかけてても、良いですか……?」  仕事をしている和に迷惑なのはわかるが、少し話していたい。どんなくだらないことでもいいから話して、そして、あわよくば……タイミングをみてあの夜のことを謝りたい。 「いいよ」  カチャカチャと和がキーボードを叩く音が耳に心地好い。 「……和さん、欲しいものとかないですか?」 「ええ? 突然だね。欲しいもの?」  和が軽く唸る。 「病室でだよね? 特に、ないかな。パソコンもあるし、颯太が来てくれたし、十分な感じ。それがどうかしたの?」  和の疑問には答えないで質問を続ける。 「じゃあ、退院してから何かしたいこととか、欲しい……大丈夫ですか? 傷、痛むんですか?」 「んー、ごめん、ちょっとだけ……」  脇腹を押さえる和の顔を覗き込み、颯太は顔をしかめた。 「本当にちょっとだけね」と言われても、刺されたことが無いから痛みをわかってやれない。 「仕事なんてしないで、大人しく寝ててください」 「そうだね」  話しかけているのは自分なのにそう言わずにはいられない。もしかしたら、話すのだって辛いかもしれないのに。だが、和は細く息を吐き、もう大丈夫といった様子で話に戻った。 「でもそうだな、退院したら何がしたいか、か」 「いえ、やっぱり、無理に答えなくていいです。すみません」 「どうして謝るの?」  微笑まれ、口ごもってしまう。 「そうだな。退院したら、颯太のごはんが食べたいかな」 「そ、んなことじゃなくて。俺が聞きたいのはもっと別の……」 「別って例えば?」 「……旅行に、行きたい、とか?」 「颯太が一緒に行ってくれるの?」 「俺は……」 「違うんでしょう? なら旅行なんて行きたくない」  きっぱり言われて、どんな顔をしていいかわからない。迂闊に喜んでしまいそうで、咄嗟に目を逸らしてしまった。 「……颯太と暮らすのが楽しすぎて、一人で食事をするのも一人で眠るのも寂しくなった。一人でここにいると、颯太と一緒の時みたいに眠れないんだ」 「そんなこと言われても……」 「颯太は? 颯太も寂しいと思ってくれた?」  そう訊ねられ、再び寝不足の目の下を撫でられた。 「俺、さっき転た寝してたでしょ? 颯太に会いたいなって思いながら寝た後だったから、目が覚めたら目の前に本物がいて、すごく嬉しかった」  和が瞬きもせずに見つめてくる。 「ねえ、颯太。俺が退院したら普通の暮らしをしない?」 「……普通?」 「颯太は大学に戻って勉強をして、俺は……そうだな、結局株しかできそうにないけど。ヤクザは抜けて堅気になって、護衛も変装もなしで、二人で外出出来たらいいな。そうすれば、颯太の服も俺が選んであげられる」  それはあまりに非現実的で、颯太はどう反応していいかわからなかった。和はここまで夢物語を吐く男だっただろうか。 「和さん……変、ですよ」 「さすが直球。そうだね、変……かもしれないね。だけど、死ぬかもって思ったからかな。組のことも結婚のことも色々あるはずなのに、ずっと、颯太のことしか頭に浮かんでこないんだ」 「和さん……?」 「初めて会ったとき、死んだときに悲しんであげる、って言ったでしょ? あれ、俺の願望」 「え?」 「誰にも望めないって、納得してはいるんだけど、でも、金とか立場とかは抜きで、俺が死んだときに悲しんでくれる誰かがいてくれたら、って。ここ最近、そんな無い物ねだりみたいなことばっかり考えてた」 「まさか、それで颯太の気を引けると思わなかったけど」と付け加えて笑われる。 「颯太」  甘い声が自分の名前を呼ぶ。 「あ……」  和が自分を選んでくれるかもしれない──?  そんな浅はかな期待が込み上げてきて、喉元まで出かかった言葉を、奥歯を噛み締めて耐えた。 「和さんには婚約者がいるじゃないですか……。俺、和さんの結婚をどうやってお祝いしようかなって、ずっと考えてるんですよ?」  「颯太からのお祝いなんて、欲しいわけないでしょ?」 「短い間でしたけど、お世話になったお礼です。さっきの質問はそのリサーチというか、高価なものは難しいけど、せっかくなら和さんの欲しいものを贈りたいと思って」  嘘でも本当でもない言葉は口からどんどん出てくる。 「ちゃんと答えてくれないと、ベタな夫婦茶碗になりますよ? でも、和さんコーヒー好きだし、ペアのマグカップの方が……、っ」  強く腕を引かれ、和の膝の上に倒れこんだ。 「ちょっ……んぅ」  頬を掬い上げるようにしてキスを押しつけられた。頭を固定され、苛立ちを滲ませた唇はろくに呼吸もさせてくれない。 「……ふっ、ぅ……っ」  薄く目を開けると、苦しそうに細められた飴色と視線がぶつかった。  和の腕や肩を掴みたいのに出来ない。鼻の奥がつんとした気がして、颯太は必死に和から離れた。 「やめてください……!」  精一杯腕を伸ばし、これ以上近づかれないように距離をとる。 「練習ならもう十分でしょう?」  唇を拭い、声が震えるのを堪えた。 「練習じゃない」 「じょ、冗談は大概にしてください。練習じゃないなら何なんですか? そうじゃなきゃ――……ああ。そうか……俺、金を借りっているうちは、キスもセックスもいくらでも付き合うって言いましたもんね。今は債権者と債務者だってこと、忘れてました、すみません」  和の顔が歪むのがわかる。 「俺は……屋上であんたに会ったとき、金のことばかり考えてる自分にうんざりしてた。だから、セックスの代償に金を提示されなかったことにほっとして……本当、馬鹿だった。こんなことなら、ついて行かなければよかった……」  そしたら、こんな風に、和を故意に傷つけることもなかった。  一息に話したせいで、酸欠気味になっている。静寂の中に颯太の荒い息が目立つ。  だが、回診か来客か、その沈黙は数度のノック音に破られた。戸惑う颯太を一瞥し、和がベッドから立ち上がる。 「もういい。パソコン、ありがとう」 「……バイトですから、お礼なんていいです……」 「そう」  和の声が低い。颯太がベッドから動けずいると、がらりと部屋の扉が開いた。 「あら、ごめんなさい。お友達でしたか?」  女性の声。婚約者の女性だろうか?  早く出ないと、和とのことを説明できない。そう身構えていると、和の笑う声がした。 「違いますよ。大きい病院でしょう? 病室を間違えたみたいです。次は気を付けてね?」  和はそう言うと、笑顔で女性と一緒にいたスーツの中年男性を部屋に招き入れた。  苦しくて、まともに息が出来ない。 「君?」 「あ……、すみ、ませんでした」  颯太は顔を伏せ、二人と擦れ違い病室から出た。出る間際、和は女の方を向くだけで、こちらを見てもくれなかった。  荒くなった息はいつまで経っても落ち着かず、心臓は口から飛び出すんじゃないかと思うほど、激しく脈打っていた。  やはり荷物を置いたらすぐに帰るべきだった。  和とはもう会うべきじゃなかった。  風呂でのことを謝りたいと思っていた自分はどこに行ったんだ? 謝るどころか、絶対に言ってはいけないことを言った。もはや八つ当たりと言ってもいい。 「何が、普通の暮らしだ……」  涙が出るくらい、段々イライラしてくる。  和はきっと、怪我をして心細くなっていただけだ。来週になれば、和の隣には先程の女性がいてくれる。元の生活に戻れば、『普通の生活』なんて馬鹿げた発想もなくなるはずだ。  苦労して積み上げてきたものを、簡単に手放したり、するな。 『颯太も寂しいと思ってくれた?』  素直に頷けたら、どんなに良かっただろう。  だが、和の生活を壊すとわかっていて、これからも一緒にいたいなんて、そんなこと言えるわけがない。損な性格。硬い頭。素直になれない自分を、これ以上馬鹿だと思わせないでほしい。 「俺、何してたんだっけ……?」  竜一が部屋にやって来るまで。一人で何をしていた? 「えっと……、あ……」  そうだ、和への結婚祝いを考えていたんだった。和にはいらないと言われてしまったが、これは颯太なりのけじめだ。  これ以上、和のことを考えていては自分がダメになる。いつもより極端に狭くなっている歩幅が、そう訴えている気がした。
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