一人

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 最後の最後で、完全に嫌われてしまった。  颯太はリビングに立ち尽くし、引き寄せられるようにダイニングテーブルに放置していた紙袋に触れた。  大きいからこそ、ぽつんと置かれた紙袋が余計に寂しそうに見えた。中から包みを取り出し、赤いリボンを解いてメルヘンチックな包装紙を破く。  そして現れた二つの嘴に、颯太はふっと笑みを溢した。水色とグレーのイルカが待ってましたと言わんばかりにこちらを見つめてくる。優しい形状に丸い瞳、そしてこのフワフワの手触り。二匹は愛されるために製縫されたに違いない。 「……何回見ても可愛いな」  颯太は二匹をテーブルに並べ、ぽんぽんとその頭を撫でた。  結婚祝いと言いながらイルカのぬいぐるみを買っただなんて、当てつけのように思われるだろうか。しかし水族館へ行ったとき、和は確かにこの二匹を欲しがっていた。颯太には、こいつらの他に和の欲しいものなんてわからない。  結婚祝いにするなら、せめて片方はピンクのイルカを選ぶべきだった。颯太だって、購入するぎりぎりまで悩んだ。だが、今となっては水色とグレーを買って良かったと思う。二人で行った水族館には、ピンクのイルカはいなかった。  どうか和が喜んでくれることを願う。誰が贈ったプレゼントかなんて関係なく、可愛いイルカのぬいぐるみを喜んでほしい。 「そうちゃん! 危ないことはだめだよ!」  ビルを出る前に六階へ寄ったところ、顔を赤くした照に抱きつかれた。 「ご、ごめん…… 」 「おー、起きたか」  離れようとしない照の背中を擦っていると、竜一も事務所の奥から顔を出した。この様子だと、二人は昨晩の颯太の失態を知っているのだろう。 「和から聞いた。その顔色なら大丈夫だろうが、下で医者が待機してるから行ってこい。何のドラッグを盛られたか知らねえが、依存性があったら厄介だ」 「ドラッグ……」  あまりに縁遠すぎて、口にするだけで単語に違和感を覚える。 「お騒がせしてすみません。でも、もう大丈夫なので……」  それよりも、和が事務所にいないのか気になる。  昨晩は一時的に病院を抜け出しただけのようだったし、もしかしてまた病院に戻ったのだろうか。刺されたのに五日で退院出来るわけがない。 「和くんならいないよ」  颯太が部屋の中に目線を漂わせていると、溜め息をついた照に窘められた。 「そ、うか……」 「夜中、和からお前のことで電話があった。体調を気にかけてやれって。だが、あいつが今どこにいるかは、お前は知らなくていい」  それは、和さんを傷つけた連中の手下だと思われてるからですか? そう聞きそうになって、竜一達が困るとわかったから止めた。 「わかりました」  もう、会わせてももらえない。 「俺、今日で和さんの所から出ていくので、これからのバイトなんですけど」  言葉を続けるより先に照に両肩を掴まれた。 「出てどこに行くの? アパートは解約しちゃったんでしょ?」 「あ、え……?」 「無鉄砲なのは金輪際だめだってば!」 「それなら平気だ。以前住んでいたアパートの大家さんとは仲が良かったし、今ならまだ融通が利くかもしれない。もし無理だったら、数日間はネットカフェにでも泊まって、あとは住み込みで働けるところを探す」 「そんな……」 「んな急ぐ必要ねえだろ。少なくともあいつが退院してくるまでは、ここに居ればいい」 「いえ、もうここにはいられませんから」  颯太が言い切ると、二人はそれ以上何も言わなかった。  ここにいられない理由ならいくつもある。和との約束の期間は終わったから。結婚する和の迷惑になるから。和に嫌われてしまったから。考えれば他にもありそうだ。  しかし、颯太が和の部屋に住んでいていい理由は一つも見つからない。 「なので、バイトは今日で辞めさせてください。短い間でしたがお世話になりました。ありがとうございました」  颯太は深く頭を下げた。せっかく親しくなった人達との別れは辛いが、この二人との縁も和が繋いでくれたものだ。温かい人達に出会えて良かった。  颯太が顔をあげると、照はすごい剣幕で壁に掛かっていた額縁を剥がした。 「照?」 「そうちゃん、これあげる!」 「え?」 「持ってて!」 「テレホンカード? けどこれ、所長のコレクションじゃ……」  照に無理やり持たされたのは、所長が好きで飾っていたヴイジュアル系バンドのテレホンカードだ。照の名前の由来になったという、あの。 「いいから。これ、僕の番号ね」  照は躊躇することなく、プレミアもののテレホンカードに油性ペンで携帯番号を書き込んだ。キュッキュッと鳴るペン先の音を呆然としながら聞く。 「そうちゃん、スマホ持ってないでしょ? 何かあったらこれ使って。ううん、何もなくても使って! 友達でしょ?」  有無を言わせない照の手の温かさに、胸が温かくなる。 「……ありがとう」  いつどんな風に連絡をするかはわからない。でも絶対にいつか連絡したい。そう思った。  颯太は和に出会った時と同じ、身一つでビルを後にした。  所持金は三万円と少し。寝床も決まっていないのに全財産が諭吉三人ではあまりにお先真っ暗だ。  照には前に住んでいたアパートに掛け合ってみると言ったが、二週間経った今も空室である保証はない。万が一空いていれば、大家さんとも親しくしていたし、初期費用やらの相談には乗ってくれるかもしれない。だが、それでも、あの部屋に戻るのは少し気が重かった。背に腹は代えられなくても、決心して一度飛び出した場所に戻るのは、颯太の性格的になかなかハードルが高い。  アパートにいた頃、借金完済後の人生が、思い描く人生とあまりにかけ離れていることに気づき絶望した。懸命に生きていることが馬鹿らしくて、生活している意味がわからなくなって自殺しようとした。  今の颯太に待っている未来は、絶望した未来と同じままだ。  なのに今は、颯太の矜持が絶対に自殺をさせてくれない。和に借金を返すまでは、どんなに泥臭い仕事だってする。借金を返すためだけに生きる。侘しさと惨めさと悔しさに押し潰されそうでも、和との間に金が発生していることが嫌だから。  そしてその金だけが、今や颯太と和を繋いでくれる唯一のものだ。この二週間のようにはいかなくても、和と繋がりがあることがどこか嬉しい──。  女々しいことを考えるのが嫌で、颯太は大きく伸びをした。落ち込んでいても金は降ってこない。今やらなければいけないのは、今後の身の振り方を考えることだ。  割り切ってしまえば、和とのことは夢だったんじゃないかとさえ思えてくるのだから、さっぱりした自分の性格には感謝したい。 「とりあえず、朝ごはんでも食べるか」  ふいに空腹に襲われ、思わず苦笑した。今までは一日二食で足りていたのに、三食必要な体になってしまった。二週間楽しんでしまった報いだ。  駅でアルバイト情報紙を取り、適当な飲食店に入った。
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