和の葛藤

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和の葛藤

 明日からのバイトにも目処がついた。深夜の交通整理だ。  日払いとはいかなかったが、週払いなうえ一ヶ月働けば三十万円くらいの稼ぎになる。高速道路での業務というのが不安だが、そこは仕方がない。雇ってもらえただけでも喜ばなければ。  颯太は菓子折りを片手に三年間暮らしたアパートを再訪した。  大家さんはカステラが好物だったから、話しながら一緒に食べられればいいと思った。この時間だと「夕飯が食べられなくなるわ」と笑われるだろうか。  アパートの側面にある鉄骨階段を上がり、角を曲がって一番奥の部屋に大家さんは住んでいる。降り注ぐ西日に目を細め、颯太は二階の角を曲がった。 「あれ? 君、確か……」  先に気がついたのは男の方だった。  颯太は首を傾げ、廊下に並んだ洗濯機と一緒に立つ男に目を向けた。 「あ……」  和の病室ですれ違った中年の男──和の婚約者と一緒にいた男が、昔颯太が暮らしていた部屋の前に立っていた。もちろん知り合いじゃない。かと言って、男はこの古いアパートを借りる風貌でもない。 「やっぱりそうだ。君、中萱さんの色だったんですか」  何を聞かれたのかわからず、すぐに反応できなかった。 「答えないってことは正解?」 「違います」  颯太が眉をひそめると、男はにこりと口角を上げた。 「またまた。お友達の借金を肩代わりするほど、あの男は優しくないはずですけどね。君は、どう見ても構成員じゃなさそうですし」  感じたことのある不躾な目線に一気に気分が悪くなる。 「その部屋に、何か用ですか?」 「部屋に用はないですよ。ただ、どんな子が住んでいるのか興味が湧いたので寄ってみただけです。でも、引っ越しちゃったんですね」  男は一見、生命保険の営業でもしていそうな身なりをしている。だがその口調といい、意図があってかけていそうな銀縁の眼鏡といい、どうも胡散臭い。極めつけは手の甲にまで彫られた華やかな刺青だ。何と彫られているか読めないが、スーツの袖から梵字が見え隠れしている。 「……俺の借金のこと、和さんはあなたに頼んだんですか?」  声が掠れてしまった。颯太が挑むような目線を向けると、男は楽しそうに笑った。 「まさか。彼は上手くやってましたよ、自分だとバレないようにあの手この手で。私も、昨日の件があって初めて気づいたくらいです」 「昨日の、件?」 「昨夜、会いませんでしたか? うちの連中に」  男がわざとらしく肩をすくめる。 「君に関わった舎弟を全員処分するよう脅されました」 「は……?」 「早朝から大変でしたよ。酔って寝てる奴らを叩き起こして、車で海まで」 「海?」  颯太が眉間に皺を寄せると、男は「任侠映画とか観ないんですね」と笑って溜め息をついた。 「君、あいつらと親しかったらしいですね。その後どうなったか、詳細も聞きたいですか?」  男がこちらに歩いてくる。颯太はその場に立ったまま、小さく首を振った。男の言葉が何を意味するのか想像も出来ない。しかし、聞いて楽しいものじゃないことだけは明らかだ。 「そう? 写真もありますよ?」 「い、いりません!」 「そうですか。まあ、そういうこともあって、うちの連中がお世話になった子猫はどこに住んでたのかなと思って、ちょっと来てみたんです。そうしたら、病室ですれ違った君がここに来た。普通に考えたら、中萱の色だって思いません?」 「色なんかじゃない……です」 「じゃあ友達なんですか?」 「……違います」 「じゃあ何?」 「なんでもありませんから」 「本当に? 君は男を咥えるのが上手だって聞きましたけど?」  カッと頭に血が上る。でもこの男相手に騒いではいけない気がした。  それに、アパートの廊下でこんな話を続けたくない。ここの壁は薄いんだ。廊下で話していたら、大家さんに聞こえてしまうかもしれない。 「勘ぐらないでください。俺は、和さんにお金を借りているだけですから」 「それは結果の話でしょう?」 「そ、れは……」 「不義の罪で脅されてる私としては、なんとかして彼の尻尾を掴みたいんですよ」 「不義の罪?」 「『件の組員を処分しないと、政治家の令嬢との関係をばらす』」 「え……?」 「うちみたいな弱小組織は、中萱みたいな大きな組織に睨まれたら堪らないですからね。若頭の婚約者を寝取ったなんて知れたら、それこそ組の全員が殺されそうです。彼女の人生だって……狂わされるかもしれない」 「そんな、寝とったって……もともとあなたの恋人じゃ……」  颯太が狼狽えると、男は「事情通ですね」と言って笑った。  「だけど、そんな理由は通用しませんから。だから、揺すりに使える何かを掴めないかなって」 「……そん、な……」  不本意だが、男の気持ちはわかる気がした。 「手伝ってくれますか?」  しかし自分にはこの男の事情なんて関係ない。ましてや和に迷惑をかける奴なんて知ったものか。 「だって、君も嫌じゃないですか? 彼が結婚するの」 「だから、俺は関係ありません」 「本当に?」 「本当です」 「じゃあ、結婚式で新郎が通り魔に刺されても気にならないでしょうね」 「な、に……?」 「二回も急所が外れるなんてあるかな?」  男の笑顔に背筋が凍りつく。 「そんなこと……和さんに言います……!」 「いいですけど、何度やっても私が指示した証拠は出ませんよ。それは彼も、同じ仕事ならわかってるんじゃないですかね。今回の事だって、私はピンピンしてますし。中萱が、私を押さえる決定的な証拠を掴めていないということでしょう?」 「そんな……」 「それに、死ぬまで警戒し続けるなんて出来るのかな。ヤクザのシマは治安が悪いですから。火事、強盗、交通事故──」 「やめてください!」  持っていたカステラの紙袋がぐしゃぐしゃになった。 『諦められないくらい大切な人がいるのは羨ましいよね』 『でもほら、下手にバレたりしたらその彼が生きていられるかさえ怪しいし……周りが協力してやらないと可哀想だよ』  和はこんな男に同情していたのかと思うと、人が好すぎて涙が出てくる。 「君、関係ないんですよね?」 「……関係、ありません……」 「じゃあ中萱の坊っちゃんには言わないですね?」  男の言葉は颯太への問い掛けだったはずだ。なのに、その場に立ち尽くしていると、男は颯太の返事を待つことなく帰っていった。ややあって車が遠ざかっていく音が聞こえ、ようやく生きた心地がした。 「は……ぁ……っ」  無意識に息を潜めていたのか、突如肺に空気が流れ込んできたせいで上手く呼吸が出来ない。夕闇に沈む廊下に、颯太の白い息が不規則な形で浮かんで見える。  男と擦れ違うとき、肩に手を置かれた。そこからどんどん体が痛くなっている気がする。  アパートに戻るのは止めた。  カステラを大家さんの部屋のドアノブに掛け、走ってアパートから離れた。駅前に戻り、目についたネットカフェに入る。コートを着たまま安っぽい合皮のソファに座り、膝を抱えてパソコンを立ち上げた。狭いブースの中はマウスをクリックするだけでいやに音が耳につく。 『件の組員を処分しないと、政治家の令嬢との関係をばらす』 ──昨夜、部屋から出ていった和は何をしていた?  自分の拘りや矜持を押し付けて、和をひどく傷つけた。病室で出ていくよう促された時、嫌われたと思った。夜にベッドで突き放された時、軽蔑されたと思った。今朝起きて部屋にいなかった時、もう終わったんだと思った。 ──なのに、何をしていた? 危ない橋を渡って……。  和は将来持つであろう子供が、別の男の子供かもしれないと覚悟していた。結婚したくてするわけでもないのに、婚約者とその恋人のことを認めていた。愛されることを諦めていた。そうやってたくさん我慢して諦めて、自分の環境を作り上げていた。 ──なのに、殺されるのか? そんな男が幸せになれないのか?  そうだ。和は言っていた。 『その挙げ句、探しに行かせたら、俺を刺した連中のシマにいたって?』  和は、婚約者の恋人に殺されかけたことを知っていたのに、犯人に気づいていたのに、突き出すことも何もしなかった。男は、決定的な証拠を掴めていないと思っていたが、きっとそうじゃない。  颯太は震える両腕をぎゅっと握りしめた。  何とか手を打とうにも、部外者の颯太は何の情報も持っていない。知っているのは、和の婚約者が政治家の娘で、その恋人は末端組織に所属しているヤクザというだけだ。ネットで調べたところで、一般人の二人の情報が出てくるわけもない。  和に男のことを伝えたら、また無茶をしかねない。これ以上、和を危険な目に遭わせたくない。 「参議院議員なら全員でも二百四十二だ。絞れば何とかなる……」  和の婚約者は見た目からして二十代後半、ということはその親はどんなに若くても四十代後半。いや、ヤクザと癒着するような政治家なら結構な地位や経歴を持ってるはずだから六十以上が固い。あとは東京在住で絞ればいい。  和の婚約者に会ったところで、作戦なんてない。曲がりなりにも三年間は法律の勉強をしていたはずなのに、大切な人を守ろうにも、何の役にも立たないんだから笑ってしまう。  しかし、力不足だからといって、じっとしているなんて出来なかった。
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