和の婚約者

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和の婚約者

 この週末に政治資金パーティーが催されているのはラッキーだった。  とっくに申込みは終わっていたが、お知り合いに、ゼミの教授の名前を出したら予約することが出来た。変な縁もあったものだ。教授には後日謝りに行くとして、今回ばかりは使えるものなら何でも使いたい。  今回のパーティーには、和の婚約者が来るかもしれない──。和は月末に結婚すると言っていた。であれば、パーティーのどこかで娘の結婚の話題が出るかもしれない。運が良ければ、和の婚約者どころか、和本人に会えるかもしれない。  和に会えたところで、話すことはない。ただ、遠くからでいいから、元気な顔を見たいと思う。 「立花颯太です」  プリントした予約券を受付に渡し、参加費の三万円を支払う。参加費の額を知った時には御祝儀かと思ったが、こういう場に来る人達にとっては一般的な額なんだろう。受付嬢だって「普通の金額でしょ?」と言い出しそうな顔で三万円を受け取っていく。  豪奢なホテルにいても不審に思われないよう、今日のためにスーツだって買った。サイズは合っていないし、生地はペラペラでテカテカだ。それでも少しはきちっと見えるよう髪も固めてきた。お陰でここ数日で稼いだバイト代を使い切ってしまったが、こうして受付を済ませられたのだから御の字だ。  受付済みの証であるピンバッチを貰い、スーツの襟につける。  会場内にはすでに人が集まり始めていて、三百人は入りそうな会場の六割ほどが埋まっていた。開始十分前でこの状態なら、パーティーが始まった時にはもっと混雑するだろう。こんな中で和の婚約者を見つけられるだろうか。  緊張して手汗が酷い。だが、ポケットに手を突っ込んだところでハンカチのような気の利いたものが入っているわけもない。  颯太のポケットに入っているのは、僅かな小銭と照から渡されたテレホンカードだけだ。 「あ──」  颯太は会場から抜け出し、ロビーの一角に設置された公衆電話へ向かった。明るい緑色の受話器をあげて、挿入口にテレホンカードを入れる。あとは、電話番号を押せばいいんだろうか? 公衆電話を使ったことがないから操作は全て直感だ。  いつの間にか暗記してしまった照の電話番号を押し、耳慣れない呼び出し音に息を潜める。  和の部屋を出てから、何度もテレホンカードを眺めていた。だが、いつだって照に電話をかける気にはならなかった。今こうして電話出来るのは、今日が自分にとって背水の陣だと思うからだ。 『もしもし──』  呼び出し音が終わり、懐かしい照の声が聞こえる。 「……照?」 『そうちゃん!』 「……うん」  颯太が返事をすると、照は大きな声で「やっと掛けてくれた!」と叫んだ。 『心配してたんだよ! 今どこにいるの? 大丈夫? 元気? ちゃんとごはんは食べてる?』  「大丈夫だ」  聞きたいのか話したいのかどっちだろう。変わらない照の調子にほっとする。少し笑えたお陰で、ホテルに来て入りっぱなしだった肩の力が、少し抜けた気がした。 「実は、照にお願いがあって電話したんだ」  いきなり電話して「お願い」なんて厚かましいが、別れるとき言ってくれた『友達』という言葉が背中を押してくれる。 『どうしたの? なんでも聞くよ?』 「ありがとう……。和さんに、伝えてほしいことがあるんだ」 『和くんに?』 「ああ」 『わかった』 「ありがとう。……結婚式に、刃物を持った奴が乱入してくるかもしれないから、気をつけてくださいって、伝えてほしい」  言っていて自分で怖くなってくる。 「あとは、車にも火事にも気を付けて、って……」 『待って。そうちゃん、どういうこと?』 「……絶対、死なないでほしいって……」 『それじゃわかんないよ、もっと詳しく!』  詳細は話せない。こんなことを言われても、照は困るだろう。  間もなくパーティーが始まるアナウンスが聞こえる。 「ごめん、時間だから切る」 『そうちゃん、もしかして今──』 「ごめん、また……」  受話器を置いた途端、ピーピーと音を立ててテレホンカードが吐き出された。カードを抜き取りポケットにしまう。  言いたいことだけ言って切ってしまった。機会があったら、照には謝って弁解しないといけない。電話のこともそうだが、「無鉄砲は禁止」されていたのに、これから破ってしまう。  だが、照の声が聞けたのは幸いなことだった。  颯太は踵を返し、パーティー会場へ戻った。  手渡されたシャンパングラスを片手に、登壇者の話に耳を傾ける。時々あがる笑い声に合わせて笑い、拍手に合わせて拍手する。今、壇上にいるのは錚々たる政治家の面々だ。その話題はニュースで聞いたものから身の上話まで豊富だったが、何を聞いても颯太の頭には入ってこなかった。とにかく、和の婚約者を探さなければいけない。  颯太はステージから最も離れた出入り口の側に立ち、参加者の顔を見渡した。男、男、男、白髪の女、男。二十代の参加者は少ない。少ないどころか、会場内に若い女性がいるか怪しい。  どこかに隠れているのだろうか。颯太も浮いてはいるが、隅にいるお陰で目立つほどではない。それとも、そもそもパーティーに来ていないか……。  一際大きな拍手が鳴り、参加者が一斉に会話を始めた。会場に設置されたビュッフェに手を伸ばす人、喫煙所へ向かう人。司会の女性は、 間もなく本日の出し物『和太鼓の演奏』を始めると案内している。  その中で、見たことのある黒髪の女性が会場から出ていくのが見えた。 「あ……!」  手近なテーブルにシャンパングラスを置き、颯太は女性の後ろを追いかけた。どこへ行くのだろうか。女性はレストルームや喫煙所とは逆方向に歩いていく。  人気が少なくなったところで、颯太は着飾ったその肩に手を置いた。 「すみません、あの……!」 「きゃっ」 「すみません!」  女性は警戒した顔で振り返ったが、颯太の顔を見るなり目を丸くして「あなた……」と声を出した。どうやら一度会ったことを覚えてくれているようだ。 「確か、和さんの病室で……」 「はい」 「パーティーにいらしてたんですか?」 「はい、あの……」  女性にふわっと微笑まれ、用意していた言葉が頭の中から消えた。  女性は穏やかで上品で、照が言ってた通り『ちょー美人』だった。この人が和のことを愛してくれるなら、きっと和も幸せになれるんだろうと思う。でも、こうして微笑みながら、別に男がいると思うと、筋違いとはわかっていても憎い。 「私に何か?」 「あ、の……」  口ごもっていては不審者感が増すだけだ。頭から消えていってしまった言葉が悔やまれるが、そもそも作戦なんてないんだから当たって砕けるしかない。  無鉄砲なことをして、和の面子を潰すかもしれない。でも颯太に出来ることはこれくらいしかない……。 「ごめんなさい。私、人を待たせていて……」 「待ってください、あの!」 「は、い」 「あなたから、和さんを振ってもらえませんか?」  女性の目が見開かれる。颯太は理由も言わず深く頭を下げた。 「お願いします……!」 「待ってください、何の話ですか?」  女性が困惑するのは当たり前だ。突然引き留めて、何の説明もなく婚約者を振ってくれなんておかしな話だ。誰かもわからない男がそんな事を言い出すなんて、正気の沙汰じゃない。 「お願いします」  だが、どれだけ考えても、颯太には頭を下げるくらいしか出来そうになかった。 「困ります、とにかく頭をあげてください……!」 「……っ、すみません」  頭を上げたところで女性に理由は話せない。  恋人の悪事を暴露することも、和が颯太のために女性の恋人を脅したことも言えない。この人もきっと、苦しんでいる一人だから。 「あなた、和さんに何か言われたんですか……?」 「そ、それは違います! 和さんは関係ありません。俺は和さんに……お世話になった者で、すみません、理由は言えません。でも、お願いします、和さんを振ってください……」  結婚したら、和はいつか殺される。そんなことは怖くてとても言えない。颯太はスーツの膝をきゅっと握り、再び深く頭を下げた。 「お願いします……」  パンプスの爪先が動き、一歩後退る。 「……っ」  ここで女性が首を縦に振れるわけもないことはわかっている。引き際がわからない自分が情けなくなってくる。しかし、止めろと言われて「はい、わかりました」と退くことだけは出来ない。 「和さん……!」  目線の先にあった女性のヒールがきゅっと揃ったのが見えた。 「颯太!」 「え……?」  駆け寄る足音が聞こえ、上体を起こすより先に体を引き寄せられた。背中に逞しい胸を感じて思わず腰が抜ける。 「ご友人だったんですね」  女性が颯太の頭上に目線を向け、困ったように笑っている。  颯太は視線を床に落とし、うるさく鳴り始めた鼓動に胸を喘がせた。体温を感じるほど密着しているのに、とても後ろを振り向けない。 「違います。この子は私の大事な人です」  久しぶりに聞く、和の優しい声だった。 「私からもお願いします。私を、振ってもらえませんか? 婚約破棄の理由はなんでも構いません。あなたに都合のいいようにしてください。父は私が説得します」  和に支えられている体が強張る。 「え、あの、どういうことですか?」  和は何を言い出すんだろう──。  和の言ったことと、颯太が彼女に言ったことの内容は変わらないはずなのに、必死で堪えていないと、混乱して涙が溢れてしまう気がした。 「お互いに大切な人がいるのに、その人達に辛い思いをさせて……こんなに不毛なことってないと思いませんか? 先生への資金融資ならお約束します。でも、俺が一緒にいたいのはこの子だけなんです」  息が出来なくてくらくらする。戸惑う女性と目が合いその場にしゃがみたくなったが、後ろから両肩を掴まれているせいでそれも叶わない。 「颯太、行くよ」  和にそう言われても、喉がカラカラで返事は出来なかった。腕を引かれ、縺れる足を操り人形よろしく左右と意識しながら前に出す。そうしないと転んでしまいそうなくらい足元が覚束ない。  前を見ずに歩いていたら、急に立ち止まった和の背に額からぶつかった。 「和さ……」 「一体何を騒いでる」  砂でもない床がざりっと鳴った。 「親父」  ハイセンスな黒の着物に、指には厳ついシルバーの指輪を嵌めている。年の割りに腰は曲がっておらず、その真っ直ぐ伸びた背中の後ろには、厳しい顔をした竜一が立っていた。  颯太に触れていた和の手に力が入る。 「婚約解消の話をしておりました」 「何を馬鹿なことを抜かしている。彼女が困ってるだろう。愚息が申し訳ない」 「あ……、いえ……」 「二人を紹介したい御仁がいる」  和の父親には、颯太など見えていないようだった。どこから話を聞いていたのかわからないが、一言「来なさい」と言うと、誰の返事も待たずに踵を返した。 「待ってください……っ」  会場へ戻ろうとする父親を呼び止めたのは、和ではなく彼女だった。 「私からもお願いいたします。婚約は解消させてください、私には……」 「親父、病室で言いましたよね? 褒美をくださると」 「……その話と今と何の関係がある。人を待たせていると言っているだろう」 「関係ありますよ。俺が欲しいのはこの子だけです」  父親の形相が険しく変わり、その鋭い眼光は和の背後にいた颯太へ向けられた。 「親父」  和の声は、まるでその視線を叱責するようだった。和は颯太の腕を引くと、颯太に視線が届かないよう、呆けた顔を胸に抱きくるめた。 「どこまでも不出来な息子で申し訳ありませんが、そういうことですので、本日は失礼させていただきます」  和の、心臓の音が大きい。  和は頭を下げるなり、颯太の腕を引いて歩き始めた。  和の父親がじっとこちらを見ている。  婚約者の女性だって呆然としている。 「竜一」  和が目配せすると、竜一は和の父親に並び、さらさらと段取りを説明し始めた。 「親父さん。婚約破棄に伴う慰謝料ですが、請求は和個人に行くようにします。金額についてはパーティーのあとで相談させてください。概算ですが、すでに算出は終わっていて、妥当性は父にも確認済みです。ただ、各方面への発表等控える必要があると思いますので、先生へのお話はすぐがよろしいかと──」  用意されていたような手際の良さだと思った。 「颯太、前見て歩かないと転けるよ?」 「あっ、は、い……」  不安に駆られて何度も振り返ってしまう。 「颯太」  廊下の角を曲がる直前、竜一と目が合い、ガッツポーズ付きの笑顔を向けられた。
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