ヤクザの部屋

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ヤクザの部屋

 通された部屋は至って普通だった。窓際には観葉植物とアイボリーのカウチソファーが置かれていて、颯太が突っ立っていると、座るよう勧められた。  男の部屋は事務所を居住スペースに改修してあるようで、天井が高く、リビングダイニングだけでも二十畳以上ありそうなほど広い。しかし、リフォームの際に隅々までこだわらなかったのか、トラバーチン模様の天井に加え、ラグが敷かれていないダイニングスペースはPタイルの床がそのまま見えている。お洒落だと言われればそれまでだが、薄汚れた床の上に家庭的なダイニングテーブルが置かれているのは、インテリアに不案内な颯太には違和感がある。 「そういえばどうやってビルに入ったの? オートロックだったでしょ?」  キッチンに立ち、男は思い出したように口を開いた。 「暗証番号を押さないと、中に入れないはずなんだけど」  この家にはコーヒーマシンもあるようで、先程からコーヒー豆をセットする音や豆を挽く音が聞こえてくる。  颯太はソファーに座り、肌馴染みの良いファブリック素材を撫でた。 「扉なら、清掃中で開いてたと思うけど……」  清掃員は見かけなかったが、エントランスは水の入ったポリバケツで止められていた。大きなビルではないから、あの扉がオートロックとは思わなかった。  颯太が答えると、男は苦笑して溜め息を漏らした。 「二階の連中だな。あとで叱っておかないと」  二階にはビルの総合メンテナンス業者が入っているらしい。いわゆるヤクザのフロント企業というやつらしく、不動産屋や表札を出さない病院、お抱えの弁護士事務所──このビルにはその他いかにもな会社が勢揃いしていた。道理でたいして営業していない雑居ビルに見えたわけだ。男に「よくこんなビルを選んだね」と笑われれば、颯太は下を向くしかない。 「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」 「……ありがとう、ございます」  受け取ったマグカップからは、ブラックコーヒーの薫りいい湯気が立っている。颯太は息を吹き掛け、一口すすった。 「……ぅっ」  だがやはりと言うべきか、すぐに顔をしかめてしまった。  昔からコーヒーは苦手だ。薫りは好きだが、苦いうえどこか酸っぱくて、飲むと舌の上がむず痒くなる。 「あれ? もしかして、コーヒー苦手だった?」 「え、いや……」  せっかく入れてくれたのに失礼な態度だった。颯太はすぐに否定したが、ダイニングチェアからこちらを見ていた男は、颯太が遠慮する隙も与えず、カップになみなみと牛乳を注いでくれた。 「砂糖も使う?」  そう微笑む男の顔があまりにも優しく、颯太は首を振って男の髪と同じ色になったコーヒーに目を落とした。  ミルクコーヒー……。 「俺も今日は牛乳入りにしようかな」  コーヒーの表面が揺れ、男が隣に座ったのだと気づいた。男は牛乳パックをテーブルへ置き、中身がひたひたに入ったマグカップを両手で慎重に持っていた。先ほど負った火傷は大丈夫だったようだ。 「……あんたは、自殺しようとしてるやつがいたらこうやって止めるのか?」 「え?」  温かい部屋に案内し、座り心地の良いソファーでミルクコーヒーを飲ませるのだろうか。  酷く思い悩んで自殺を決めたわけじゃない。なのに、こんな風に優しくされたら、意に反して涙が出そうになる。 「どうだろう、わからないな。そもそも自殺しようとしてる人に会ったのは初めてでね」  颯太が黙っていると、隣から伸びてきた手に髪をいじられた。 「でもほら、俺はただの親切心で君をここへ連れてきたわけじゃないよ? さっきも言ったけど、君がすごく可愛かったから。君とならセックス出来るかなって思えて、手を離せなかった」  節の目立つ長い指が細く癖のない暗髪を掬っていく。  何度聞いても最低な内容なのに、この男が言うと不思議と嫌悪を感じない。それどころか、自殺を引き留めるためにわざと言っているのではないか、と深読みしそうになる。油断している颯太を心配するような口振りだから。 「……それ……」 「ん?」 「あんた、初対面の相手にいつもそんなこと考えてるのか?」  こいつは抱ける。こいつは抱けない。こんな上等な男がずいぶん下世話なことを考えるものだ。  颯太が尋ねると、男は「まさか」と声をあげて笑った。 「普段はそんなこと考えないよ。急を要されて考えてただけ。考えていたところに偶然君がいたの」 「考える……? 男と寝ることを?」 「男限定ってわけじゃないんだけど……。そうだよね、意味がわからないよね」  男は呟くと、どう説明したものかと腕を組んだ。 「さっきも言った通り、二週間後に結婚することになってるんだ。それがいわゆる政略結婚ってやつでね」  結婚するのに見ず知らずの男とセックス? 独身生活最後を満喫するために男を抱くのか? だが、男はセックスの『練習』と言っていた。 「あー、うん。君のその反応、すごくよくわかる」  言葉にこそしなかったが、颯太の表情はよほど雄弁だったのだろう。男から「顔に出るタイプなんだね」と苦笑いされてしまった。 「お盛んなはずのヤクザが三十にもなって童貞って、格好つかないでしょ? それに、未経験じゃ相手の女性にも迷惑をかけそうだし、結婚前に練習しておかないと、って考えてたんだ」 「童貞って……あんたが? その顔で?」  思わず本音が溢れたが、男は「君はこの顔が好み? そっか」とまるで他人事のように受け流すだけだった。 「だから、もし君が死ぬつもりなら、二週間付き合ってほしいんだ。俺を助けると思って」 「助けるって、童貞なくらい別に……」 「普通はね。だけど、俺の場合はそうもいかないんだよ。君にとってはくだらない話かもしれないけど、ヤクザはイメージを大切にするからね」  そう話す顔はやれやれといった感じで、とても自身の面子を保ちたいようには見えない。結婚も、したくてするわけではなさそうだ。 「もちろん、出来る限りのお礼はさせてもらう。金が良いならいくらか用意するけど、君を買いたくはないから出来れば別のものがいい──」 「俺は金なんていらない」  颯太が遮ると、男は目を見開いた後、黙って顔を綻ばせた。  金で男と寝るやつだと思われたくないとか、そんな矜持があるわけじゃない。ただ、男に誘われるままに部屋へ来たのは、金なんかが理由じゃない。  颯太はマグカップを握り直し、提案への承諾ととられかねない質問を吐いた。 「それよりさっきの話、嘘じゃないだろうな?」 「さっき?」  他に聞くべきことは山ほどあるし、突っ込みたいことも山ほどある。だが、颯太が今すぐに確かめたいのは一つだけだった。 「屋上で言ってた……」 ──君が死んだときに誰よりも悲しんであげる。  具体的には言わなかった。それでも男には伝わったようで、今度はしっかりと頭を撫でられた。 「もちろん。嘘は言わないよ」  ぐしゃぐしゃに頭を撫でられているせいで、男の顔は見られない。だが、頭を撫でられるだけで胸がきゅっと熱くなる。 「……なら、いい」  金、金、金。最近金のことで頭がいっぱいだったから、久しぶりに金と関係のない話が出来て嬉しかった。金の話をしないやつがいて嬉しかった。だからそんな、目に見えないものを対価に行為を承諾してしまったのだと思う。  どうして三十路童貞男の筆下ろしを男の自分がやらないといけないんだとか、もっと常識的に考えるべきだとか。簡単に頷くなんてよくない。絶対に興味本位の思いつきで頷いてはいけない。  だが、二週間後には死ぬんだ。だったら人助けに一役買おう。そう思えば、妙な正当性も颯太の背中を押した。 「助かるよ。ありがとう」  ミルクコーヒーを飲み、渇いた口の中を潤す。颯太が目を伏せると、男の手は頭から離れていった。 「それで、俺はどうしたら?」 「え?」 「風呂に入ってきたらいいか?」  そう尋ねると、男は目を瞬かせた。  なんだ? あんたが花婿修行に付き合えって言ったんだろ? 元来、まどろっこしいのは好きじゃない。約束をした以上、今すぐ行為を始めると言うのであれば、昼間ではあるが裸になることも厭わない。  だが男にはそのつもりはなかったようで、「せっかくだしムード作りから練習したいかな」と保守的に答えた。そして、女好きしそうな笑顔で僅かに首を傾げる。 「それについては、夕飯のときに相談させて。実はそろそろ仕事に戻らないといけなくて」  男の目線を追いかけると、壁掛け時計は十二時半を少し過ぎていた。聞けば、男は在宅勤務で、午後は十二時半から十五時までパソコンから離れられないと言う。  ヤクザが在宅勤務? とも思ったが、目の前の美丈夫を『ヤクザ』と一括りにする気はとうに失せていた。 「君は好きにしてて。冷蔵庫のものは何を食べてくれても良いし、部屋のものも、好きに使ってくれて構わないから」 「わかった。って、あ、ぅわっ」  男は頷く颯太の額へ唇を押しつけると、マグカップを片手に奥の部屋へと消えた。颯太に文句を言わせる余地もなく、だ。  開いた口が塞がらないとはこのことだ。あまりに自然にキスされた額は、手を押し当てても唇の感触が消えてくれない。 「……自由すぎ……」  颯太は温くなってしまったミルクコーヒーを飲み干し、おずおずとソファーへ横になった。  事務所を改修した部屋は、一般的な家よりも格段に天井が高い。日当たりもいいお陰で、頬に触れるソファーの生地はほんのり温かくなっていた。  窓の外にはついさっきまで頭上にあった青空が広がっていて、雲が流れているのが見える。見ず知らずの男の匂いしかしない部屋で目を閉じるなんて変な感じがするが、この場所──ソファーは結構好きかもしれない。 「ちょっと……疲れた……」  颯太はぼーっと微睡みながら、眠りに落ちるぎりぎりまで、理解の追い付かない男のことを思い返していた。
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