夜 ★

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夜 ★

「あんたは刺青してないんですね」  風呂あがりの男の背中は、龍が昇るどころか傷ひとつなく、とても普通だった。知っている連中はみんな刺青を背負っていたから、てっきりヤクザは必ず彫っていると思っていた。何とはなしに訊ねると、ベッドの縁に座っていた男は振り返って笑った。 「刺青があるとほら、健康診断とか行けないでしょ? だからうちは禁止」 「健康診断……?」 「そう、構成員の健康第一。もちろん同じ組でも、刺青を推奨してるところはあるよ? 叔父貴のところなんかは絵に描いたようなチンピラ風情が多くて、刺青や顔の切り傷を自慢してるやつばっかり」 「……なんだか、変わってますね」  そいつらではなく、あんたが。男の口振りから、そういう風貌のやつらが好きじゃないことは伝わってくる。 「あんたは、すごく綺麗だし」  だが、綺麗という形容詞は違っていたようで、男の目が少し大きくなる。 「……そうだね、俺はそういうのは遠慮したい性質だから」  そのわりには体を鍛えているように見える。 「どうかした?」 「いや、何かスポーツでもやってるのかと思って」  男は筋骨隆々というわけじゃないが、パソコンに張りついているインドア男のイメージからかけ離れた体形だ。 「学生の頃は剣道と居合いをやってたけど、今は何も。時々組の交流会に参加するくらいかな」  その程度で体形を維持できるのか。やや撫で肩気味だが、肩も背中も絞まっていて、特に腕や腹斜筋が綺麗だ。男の颯太でもそう思うのだから、女が見たらさぞうっとりするだろう。どれだけ肉体労働をしても、ほぼ筋肉にならなかった颯太としては、えらく羨ましい。  黙って男の体を見ていると、今度はベッドに乗り上げてきて苦笑された。 「あんまり見られると、恥ずかしい、かな」 「あ、すみません……」 「すごく堂々としてるね。夕飯時の方が縮こまってた感じ。言わなかったけど、突然敬語で話し出すからちょっとびっくりしてた」  男は笑うが、別にたいした理由はない。一眠りして冷静になったら、初対面で十歳弱も年上の相手にタメ口を叩けなくなっただけだ。 「けど、ベッドの上の方が冷静ってことは、もしかしなくても経験豊富なの?」  クイーンサイズのベッドが鳴り、投げ出していた脚の上に影が差す。 「初めてではない、くらいですけど……」  やや色を濃くした飴色の瞳が静かに颯太を捉えている。  男の言う経験豊富がどの程度を指すかわからないが、指摘された通り、さっきよりも気が楽になのは確かだ。 「男とも?」 「まあ……」 「へえ。それは、こっちで?」  言葉と共に男の手が胸に触れた。こっち──というのは、抱かれる方ということだろうか。あいにく自ら男とどうこうなる趣味はない。 「はあ、まあ……」 「そっか、なら良かった。あ、そういえば、キスはしない方がいいのかな?」 「へ……?」  距離が近すぎて目視できないが、今、男の瞳には戸惑う自分の顔が映っているに違いない。正直、キス程度で伺いを立てられても困る。じっと観察される居心地の悪さに体が竦んだ。男にとっては、空気の読み合いみたいなものも、練習のひとつなんだろうか。  颯太は顎をひき、男の視線から逃れるよう目を伏せた。 「ほら、セックスは誰とでもいいけど、キスは好きな人にしか許さないとか……、そういうのも大丈夫?」 「俺は、そういうこだわり、ないです」 「そう?」  空気に耐えかねて目を瞑った時、唇には男の唇が押し付けられていた。  初めは優しく重ねられただけ。次にチュッと音を立て、戯れるように下唇を啄んでいく。まるで恋人同士みたいなキスだと思った。  くすぐったさに目を開けると、薄く目を開けていた男と至近距離で目が合った。 「……っ、ん」  長い睫毛の揺れひとつとっても綺麗な男だ。なんでそんな男とベッドの上にいるのか、だんだん意味がわからなくなる。  颯太が目を奪われていると、男の目が緩く弧を描いた。大きな手で両頬を掬われ、上を向かされた唇の隙間をくすぐるように舌で舐められる。促されるままに唇を開けば、濡れた舌に咥内を暴かれ、奥で縮こまっていた舌を絡めとられた。 「……、ぅ……っ」  先程まで穏やかに笑っていた男のするキスとは思えない。唇を離すと、男は休憩とばかりに颯太の耳を甘く噛んだ。  ここへ来て猜疑心が湧いてくる。こいつ、本当に童貞か? 「っ……あ……」  颯太が呼吸を整えている間にも、男の手はパジャマの裾から侵入し、薄い腹を撫でている。それもただ撫でるわけではなく、存分に意図を含んだ手つきで。 「結構強ばってるけど平気?」 「……別に、平気です」 「本当に?」 「なんで、……あんたに嘘つかないと、いけないんですか」  颯太はぶっきらぼうに顔を背けた。こちらのことなんて気にしてもらう必要はない。口約束とはいえ、男が約束を守ってくれるなら、セックスに付き合うくらい大したことはない。そう判断したのだ。 「男にいい思い出がないだけで、体は慣れてますから」  男相手の行為は痛いし苦しいし屈辱的で、自慰に体を使われるようなものだ。この男が連中と同じとは言わない。しかし、練習台を承諾した時点で、多少の苦痛を我慢する覚悟はしている。 「じゃあせめて、俺とはいい思い出になるように」 「は……?」  おいおい、童貞だというのにその自信はどこから来るんだ。それに、こっちは二週間後には死ぬんだ。これ以上思い出なんていらない。  あんたの好きにしてくれればいい──。  そう言おうとしたが、男の手に頬を包まれ言い淀んでしまった。再びキスされる直前、咄嗟に挑むような視線を向けた。またキスされる。だが、構えたものの、予想していた衝撃はなかった。代わりに、男は困ったように笑って颯太の髪を掻き乱した。 「ちょっと、な、に……!」 「んー? 無理強いは趣味じゃないから、どうしたものかと思って」 「む、無理って、だから俺はいいって言って……」 「もちろんそうなんだけど。それでも、嫌そうな顔は見たくないじゃない?」 「はあ?」 「もしかして自覚してないの?」  男が何を言っているのかわからなかった。  腹を撫でられただけで喘げと? 悦さそうな芝居をしろというのか? それとも、この男は自分にそれだけの技量があると思っているのだろうか。  元来気の長いタイプではないが、それにしたってイライラしてくる。自分はこの男に振り回されているだけだし、付き合っているだけだ。なのに、「趣味じゃない」なんて言われると、こちらに落ち度があるような気分にさせられる。 「じゃあ別のやつに頼めばいい」  颯太がベッドから降りようとすると、男は慌てて颯太を腕の中に引き戻した。 「待って待って! どこ行くの!」  背中から抱きくるめられ、暴れないよう男の脚の間に座らされる。 「離せ! 俺は芝居なんて打たない……っ」 「そんなの一言も頼んでないでしょ? どうしてそう思ったのかわかんないけど、君は意外と気が短いね」 「っ、まどろっこしいのは好きじゃない……!」  不満ならこの腕を退けろと言いたい。 「わかったわかった。いちいち聞いた俺が悪かったよ。じゃあ遠慮なく触らせてもらうけど、少しでも嫌だと思ったらすぐに言って。そこでやめるから」  男の声は、相変わらず穏やかで余裕がある。 「それとも少し強引な方が好まれるもの?」と言って、颯太をからかってくるくらいに。  こんなの調子が狂う。あっさり謝られては、早とちりして怒った羞恥心の行き場がない。 「……嫌なんて、絶対に言わない」 「だめ。言ってね」  男は颯太の言葉を撥ね付けると、僅かに乱れたパジャマに手をかけた。背後から伸びてきた手に釦がひとつずつ外されていくのを黙って目で追うなんて、まるで子供になった気分だ。  なのに、釦の残りが少なくなるに連れて、だんだん恥ずかしくなってくる。 「寒い?」  シャツを脱がされ、男の肌が直に背中に重なった。男の体温は高く、決して寒いなんてことはない。なぜか粟立って肌を宥めるように、熱い手で腕を撫でられ、背後から抱き締められる。そして、さも当たり前のように蟀谷こめかみへキスをされる。こういうキスは、我慢できないくらい気恥ずかしい。 「……嫌だ」  颯太がそう溢すと、男は面食らった顔をし、しばらくしてにやりと笑った。 「今のは無しね。ちゃんと嫌だって思ったやつだけ」 「はあ? そんな、言ってたことと違う……っ」 「あー、じゃあ言い直すね。恥ずかしいから嫌っていうのは無し」 「っ、だ……」  だったらもう何も聞いてくれるな……!  男は微笑むと、まるで言い包めるように颯太の髪にキスを落とした。耳の裏、首筋、肩。わざと音を立てながら唇を押し当ててくる。 「……ぁ、っ……」  恥ずかしいのも嫌だし、唇の音だって、妙な気分になるから嫌だ。颯太はもう一度「嫌だ」と言おうとしたが、その言葉は声にならなかった。  恥ずかしい以外の嫌ってなんだ? そんなの、平気と思えば、どこまでだって耐えられるものじゃないか。 「歯、食い縛らないで」  やんわり叱られて振り返れば、顎を掬われ、形のいい唇に隙間なく唇を塞がれた。 「ん、ぅ……っ、……ぁ」  男の宣言通り、遠慮なく口腔に舌を捩じ込まれて、舌の裏や粘膜の柔なところを舐められる。きつく舌を吸い上げられる時には、上擦った吐息が鼻から漏れてしまいそうだった。  くらくらして息があがる。燻ってもいなかった官能を強引に引きずり出される感覚に侵される。 「ふっ、ぅあっ……」  男の手は止まることなく脇腹をなぞり、胸に触れ、颯太の肌を粟立たせた。男も胸で感じるというのは知っていたが、まさか自分がそうとは思っていなかった。かつて戯れに弄られたことはあるが、その時は痛みで声が出たのだと思っていた。 「っ……ん、……ぁ……」  小さな両胸の飾りを甘く摘ままれ捏ねられる。甘美な疼きが下肢に伝わり、颯太は思わず股を擦り合わせた。 「やっ、あ……っ」 「嫌じゃない?」  低めの声で訊ねられる。颯太は弱く首を振って否定した。シーツを掴むことしかせず、練習台として男の愛撫を受け入れる。  こんな風に、壊れ物を扱うように触れられるのは初めてだ。体だけでなく気持ちも始終くすぐったい。  男の行為はすでに、颯太の知っている男同士のセックスと全く違っていた。花嫁の代わりとなると、必然的に手つきは甘く丁寧になるのだろうか。 「ここもいい?」  そう男が訊ねたのは、すっかり形を変えていた颯太の下肢だった。 「……あんたの言う花婿修行っていうのは、女とのセックスなんですよね? 」  薄いパジャマ一枚では、主張する膨らみを隠しようもない。その点については申し訳ないが、男にしかないものに対して練習は要らないだろう?  だが、突っ込みを入れる思考に反し、官能的な期待に誘われた体はごくりと喉を鳴らす。それを聞いてしまったのか、男の手は颯太の返事を待たずして膨らみに触れた。 「……ぁっ」 「それはそうだけど、今は君としてるからね」  性器の形を確かめるように、手のひらで輪郭を撫でられる。 「ああっ、……んっ、ぅ」  一瞬にして熱が滾った。だが、陰嚢を持ち上げられ、陰茎を引っ掛かれても、布越しでは快感よりもどかしさが勝る。中途半端な刺激が一番酷だ。 「すごいね、もうこんな……。感じやすいんだ?」  気づけばズボンのゴムを引っ張られ、中で染みを作っていた下着を見られていた。 「なっ……!」  あまりの羞恥に耳が赤くなる。  颯太は男の手を退けようとしたが、それより早く下着ごとズボンを引き下ろされ、露になった屹立を直に握り込まれた。  熱い手で上下に擦られ、求めていた刺激を惜しみなく与えられる。颯太は両手で口を押さえ、鼻から荒い息を抜いた。 「っ、……ぅ、ふ……っ」 「すごく悦さそう」  ひとりごちるように耳元で囁かれる。悦さそうと言われた性器は、鈴口から蜜を溢れさせ、男の手だけでなく淡い茂みまで湿らせていた。  先端のくぼみを指先で弄られ、くちゅっと恥ずかしい音が鳴る。男の手の中を出入りする陰茎は艶かしく濡れていて、正直もう見ていられない。このままでは、はしたなく男の手の中に腰を振ってしまう気がした。  颯太は力の入らない体を精一杯捩り、滑らかなシーツを蹴った。男の胸に体を押しつけ、快感から逃げるように背中を仰け反らせる。 「ふ、ぅ……っ、ぅっ」  その反応をどう取ったのか、男は颯太の髪にキスを落とすと、黙って手の動きを大きくした。 「あっ、あ、待って……っ」  そんな風に擦られては持たない。両足がだらしなく開いていく。 「もうイキそう? 溜まってたの?」  先端を指先で引っ掛かれ、高い声が出た。  とても嫌なんて言えない。「嫌」と言うためには、男の手に合わせてねだるように揺れている腰を止めないといけない。 「……可愛い」 「ああっ……! あ……っ、はぁ、あ……」  びくんと体が強ばり、颯太は呆気なく男の手の中に吐精していた。  何度かに分けて吐き出した精液を、宥めるような手つきで最後の一滴まで搾られる。男の指の間からは白濁が溢れ、骨ばった手の甲までも汚していた。 「気持ちよかった?」 「はっ……ぁ、はぁ……は、ぁ」  男の胸に背中を預け、荒くなった息を整える。ようやく焦点の合い始めた目で男を見上げると、形のいい唇が目尻に降ってきた。 「君となら本当に出来そう」  何を言われたのか理解できず、表情だけで聞き返したが返事はない。満足そうに微笑まれ、大きなぬいぐるみにするように抱き締められる。  それを恥ずかしいと感じるには、颯太はあまりに放心していた。  他人の手がこんなにも悦いなんて知らない──。 「すごく可愛かった」  男はそのままティッシュに手を伸ばし、手や颯太の腹に飛び散った汚れを拭い始めた。  しばらくその様子を見ていたが、ベッドに横たえられ、「タオル濡らしてくるね」と言われて、慌てて男のズボンを掴んだ。 「どうかした? あ、シャワーがいい?」 「どうって……、続き、は?」  呆然と見上げると、男はふっと嬉しそうに笑った。 「今日はいいよ」 「い、いって……はあ?」 「ほら、よく考えたら何の用意もないじゃない? 君は二週間も一緒にいてくれるんだし、焦らなくても時間はたっぷりあるなって思って」  男はベッドに座り直し、先ほど脱いだばかりのパジャマを颯太の肩にかけた。 「ね?」  肌に汗を滲ませる颯太に対し、男は随分涼しげだ。強制的に射精させられた自分と比較するのは違うかもしれないが、それにしたって男に昂っている様子はない。 「ね、って……」  だが、男から目線を落として納得した。 ――ああ、そういうことか。だったら、続きがないのも当然だ。 「それより名前を教えてくれない? ほら、聞いてなかったでしょ?」  最中に名前を呼べなくて困ったとおどける男に、颯太は瞠目した。 「名前……?」 「そう、名前」  この質問は意外だった。昼も夕方も、男はあえて名前を聞いてこないのだと思っていた。セックスのためだけに繋がっている相手に対し、名前を知る必要もない。  勃ちもしない対手に対して尚更だ。  颯太が躊躇していると、男は回答を促すよう首を傾げた。 「教えてよ」  と、笑っているのに有無を言わせない顔をする。この男はこの手の顔がとんでもなく得意なようだ。 「……立花(たちばな)」 「言うと思った。そうじゃなくて、下の名前は?」  颯太が渋々答えると、男は(なごみ)と名乗った。 「じゃあ改めて。これから二週間よろしくね、颯太」  名前で呼び合うやつなんて親戚以外にいない。「嫌」だ。 「ん?」 「……どうも」 「ふふっ、また素っ気なくなっちゃった」  ろくに服も着ず、乱れたベッドの上で自己紹介なんて、おかしいにもほどがある。  そう思ったが、颯太の握手を待ち続けている和に、少し苦笑いしてしまった。
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