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和との日常
颯太は下着に長袖のシャツを羽織ったラフな姿でリビングへと出てきた。フロアタイルを素足で歩くのは冷たいが、脱いだはずのスリッパが見つけられなかったから仕方ない。寒さの分だけ目が覚めると思えば耐えられる。
「ねえグーグル、電気つけて」
『わかりました。LEDをオンにしました』
和の部屋には、生活に必要なものは何でも揃っている。新しい物が好きな性質らしく部屋はスマートホーム化が進んでいて、颯太はアパートで暮らしていたときより、遥かに便利で快適な生活を送らせてもらっている。食料も好きに食べていいと言われているから、体を動かして空腹を紛らせるなんてこともしなくていい。
和にビルの屋上で拉致されてから早五日。最初の二、三日は、ヤクザが近くにいるということに、どこか非日常的なものを感じていた。一般人が思い描く暴力事件だとか抗争だとか、そういうことが日常的に起こると思っていた。だが、和の近くにいて恐怖を感じることなんて、この五日のうち一度もなかった。
当の和は日中のほとんどの時間を、自室に隠って過ごしている。『自称デイトレーダー』らしく、日本とアメリカの証券取引所が開いている間はずっとパソコンに張りついている。
十五時過ぎに部屋から出てきたと思ったら、組の用事やどこかの社長との勉強会で外出してしまうし、帰ってきたと思ったら、二十二時にはまた部屋に隠ってしまう。
和が寝室に入ってくるのは、決まって明け方だ。颯太が和と顔を合わせるのは、食事と睡眠、練習の時だけで、一日のうち延べ二時間もないと思う。
それに、練習と言っても相変わらず挿入はない。「可愛い可愛い」と好き勝手に言われて、好き勝手に体を弄られるだけだ。勃たないのに毎日律儀に。
こちらから何かしてやろうという気は毛頭ないし、和からも何かして欲しいなんて求めてこない。だが、ここまで来ると和が心配になってくる。
男相手に勃起しないのであれば、颯太で遊んでいるより、風俗へ行くなり適当な女性を相手にする方が合理的だ。 行為に対する金はかからなくても、颯太を部屋に住まわせるだけで食費は嵩む。
「ねえグーグル、テレビつけて。ニュース」
朝八時半。そろそろ和が起きてくる時間だ。
タダ飯食らいが気になり、ここで暮らし始めて三日目には家事を買って出た。和は料理こそ壊滅的だが、掃除や洗濯は自分でこなしていたようで、「助かる」と手放しに喜んでいた。下着までクリーニングに出しているタイプだと思っていたから、少し意外だった。
朝のニュースをBGMにしながら、パンをトースターへ投げ込み、コーヒーメーカーをセットして、フライパンの上でいい感じに焼けたベーコンに卵を二つ落とす。水を注いで蓋をしたら、艶やかな黄身の上にふるっとした白身が薄く膜を張る。
「珍しい、起きてんじゃねぇか」
絵に描いたような朝食の出来映えに満悦していると、バタンッと音を立てて扉が開いた。寝室の扉ではなく、玄関の扉が。
「おい、和」
突然のことで呆気に取られていると、見ず知らずの男がずかずかとリビングに入ってきた。勝手知った様子でダイニングテーブルに段ボールを置き、溜め息と舌打ちを繰り出す。その姿は和の何倍もヤクザっぽい。
「んだよ、風呂か?」
男はその長身に物を言わせ、シャドーストライプが入ったダークネイビーのスーツを着こなしていた。ノーネクタイなうえ白シャツは第二ボタンまで開いているが、短めの髪が後ろへ撫でつけられていることと、顔の造作が厳ついこともあって、決してだらしない印象は受けない。それどころか、同じ男として隣に並びたくないと思わせる雰囲気を纏っている。
その印象を決定的なものにしたのは、男の胸で光っているバッジだ。
「……弁護士?」
思わず声を出してしまい、男の肩がぴくりと揺れた。
「お前誰だ?」
颯太に気づいた男は顔をあげ、キッチンカウンター越しに鋭い目線を投げて寄越した。
颯太に言わせれば「突然やって来たお前こそ誰だ」なのに、一方的に凄まれている。
「あー、違うわ……睨んで悪い。お前、和が言ってたやつか。……想像してたより若いな」
「言ってた?」
颯太が眉をひそめると、男は卵の焼け始めたフライパンを一瞥するなり、「待ってろ」と寝室の前に立った。そして、その体躯から想像出来る通りの豪快さで、容赦なく部屋の扉を叩く。
「てめぇ、和! とっとと起きろ!」
手慣れた様子ではあるが、どうにもうるさい。代わりに起こしてきた方がいいだろうか。和は布団を引っぺがさないと起きないくらい寝起きが悪いのだ。
だが、颯太がコンロの火を止めたとき、ゆっくりゆっくりと寝室の扉が開いた。
「……そんな大きい声で呼ばなくても聞こえてる」
和の声が低い。
「お前、それが出張から帰って来たばっかのダチに吐く台詞かよ。起きて出迎えるくらいの気概を見せろよ」
「……かれさま」
部屋から出てきた和は欠伸を噛み殺し、いつにないぞんざいな対応で男をあしらった。珍しい、というより初めて見る和の顔だ。
「おはよう、颯太」
「おはよう、ございます」
「朝から騒がしくてごめん。こいつは細谷竜一っていって、六階の弁護士事務所で働いてる俺の幼馴染。突然来てびっくりしたでしょ?」
竜一と目が合い、とりあえず「どうも」と頭をさげる。
「ね、コーヒー入ってる? 朝食の前に飲んでもいい?」
「ああ、どうぞ」
コーヒーも入っているし、食事だってもう出来る。
颯太が頷くと、和は嬉しそうにいつもの笑みを浮かべた。そして竜一の機嫌などお構いなしで、目が覚めきらない様子でコーヒーをカップに注ぐ。
「お前、いつから朝メシ食うようになったんだ?」
「一昨日。ご飯が美味しいと、朝までお腹がすくようになってね」
「……あ、そ」
「おかげで寝起きも良くなった気がする」
「……そうかよ」
それ以上何も言わないところを見ると、竜一は和のマイペースと生活ぶりを熟知しているらしい。和がテーブルについたところで、ようやく本題を切り出した。
持ってきた段ボールを「頼まれてたやつ」と言って和へ押しやる。
「さすが竜一、仕事が早い」
「お前が男を好きだったなんて、俺は初めて聞いたぞ」
「んー?」
朗らかに笑う和の声に、竜一の呆れ声が重なる。
「月末には結婚しようって男が、無責任なことやってんなよ」
トーストにバターを塗っているだけなのに耳が痛い。颯太は微塵も悪くないはずなのに、流れ弾を食らっている気分になる。
「無責任って何? もしかして、俺が男を好きになって、先方との婚約を破棄するとかって話? 竜一は想像力豊かだね」
「おい」
「だってそんなことしたら、指が何本あっても足りないよ」
「落とし前の話をしてんじゃねえ」
「それ以外に何があるの?」
「あるだろうが。それにあいつ、未成年じゃないのか?」
声の音量を落とさないものだから、全部聞こえている。失礼な男だ。
「颯太は二十一だし、心配しなくても竜一が考えてるようなことはないよ。そもそもそういう関係じゃないし」
「はあ? そうじゃなきゃ何なんだよ。こんなもん買ってこさせやがって」
こんなもん、を指先で叩く音がする。
「まあ、これはね。でも彼は先生だから例外」
「先生ぇ?」
(先、生ぇ……?)
二人分の視線を背中に感じるが、絶対に巻き込まないでくれと願いながら、料理を皿に盛り付け続ける。
「お前はあの子から何を教わってんだ」
「何って、想像してる通りだと思うだけど。そんなことより、アブノーマルなものまで入ってるのは竜一のおすすめか何か?」
「違うに決まってんだろ、黙れこの野郎」
背中で会話を聞いているだけなのに、竜一が頭を抱える気持ちがよくわかる。
話が落ち着いたタイミングを見計らい、颯太は完成した朝食を和の前に置いた。一応、客人にも食べるか聞いたが、「仕事があるからもう帰る」と断られた。
「日曜だが、俺も本家に同行することになった」
「竜一も? どうして?」
「若頭のお守り役だろうが」
「俺の? 信用ないな。仕事なんだからちゃんと帰るよ」
和は食事に目を落としながら苦笑した。箸先が目玉焼きの薄い膜を破り、中の黄身がとろんと溢れる。
「細谷先生っていう腹心がいるんだから、こんなお飾りに興味持たなくてもいいのにね」
「うちの親父が継ぐわけじゃねえからな」
「わかってるよ。……そういうことなら、当日はお前の家まで迎えにいく。先生にも伝えておいて」
竜一は短く息を吐き出すと、颯太に「朝メシ時に悪かった」と言い残して帰っていった。
余裕のある暮らしぶりに、弟分に対する態度、政略結婚の話がある時点でヤクザの末端とは思っていなかったが、まさか幹部だったとは。
『若頭』なんて、任侠映画に興味がない颯太でも知っている。
「明後日、何かあるんですか?」
自分の分の食事を持ち、当たり障りない話題をふって和の向かいに座った。会話を聞いていたのに話に触れない方が変だ。
「うん、父が中期の癌みたいでね。親族で集まって、遺言の作成に立ち会うことになってる」
「癌って、大丈夫なんですか?」
「どうだろうね。詳しくは聞いてないけど」
「聞いてないって……」
「父親っていっても、こんな家に生まれると、産まれたときから上司みたいなものだからね」
和は何も気にしていない様子で、竜一の持ってきた本を読みながら顎を動かしている。
和が若頭ということは、和の父親は組長クラスなのだろう。そんな男が父親だと、家族という感覚も薄くなるのだろうか。
颯太の父親は電気メーカーに勤めるサラリーマンで、どこにでもいそうな極普通の男だった。父はイコール家族だったし、父親を上司だと思う感覚は共有してやれない。
何と言っていいかわからず、颯太は持っていたトーストを黙って齧った。焼けたときにバターを塗っておいたおかげで、咀嚼する度にバターが染み出してくる。
「俺の家は普通とは違うからね。父親が死ぬかもっていうのに、見舞いじゃなくて跡目の算段をする。うちではこれが普通なんだよ」
「……俺、何も言ってません」
「そうだね。でも、全部顔に出ちゃうところが、颯太の可愛いところだよね」
「そんなことない、……です」
「です、って。ふふっ、いいのに」
「……笑うな」
「いやいや、笑っちゃうでしょ」
和はきっと、人の表情を読むのが上手い。「颯太は顔に出る」と度々言われるが、和以外からそんな風に言われたことはない。
「あ、ごめん。残りは仕事しながら食べるね。この目玉焼き、すごく美味しかったよ」
食器で両手の塞がった和について行き、部屋の扉を開けてやる。
「ありがとう」
部屋へ入る間際に額へ押し付けられた柔らかな感触。
「うあっ」
何度されても不細工な声が出る。またキスされた……。
「俺、お昼は麺がいいな」
「……わかりました……」
「やった。楽しみだな」
甘ったるく漂わせていた空気を遮断するように部屋の扉が閉められる。
「……ねえグーグル、テレビ消して」
和が部屋に入ってしまったら、掃除をして洗濯をして、食事の支度をして。和から渡されたタブレット端末で電子書籍を読んだり、ネットスーパーで買い物をして時間を潰す。
『わかりました。テレビをオフにしました』
静かになって聞こえてくるのは、下のフロアで働いているヤクザ達の笑い声だ。
これだって、ヤクザと生活している実感を薄くさせる一因だと思う。この楽しそうな声と和の話が重ならない。
ヤクザにも色々いる。和達とあいつらは違う。そう思いたくても、さっきのような話を聞くと途端に不潔さを感じてしまう。こんなことでは和に失礼だ。
そう思うのに、簡単に割り切れないくらい、ヤクザが嫌いだ──。
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