颯太の過去

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颯太の過去

 無理やり酒を流し込まれた体は、痛みにも悦さにも鈍くなる。いつだって、突き上げられる度に胃からせり上がってくる酸味を堪えるのに必死だった。男達が何か下卑たことを言うだけで、声が頭に響いて頭痛が酷くなる。比喩ではなく本当に。  だがそれも、男達が一頻り楽しんで、自分を畳に転がすまでの我慢だった。  揺さぶられながら体力を使い果たしても、そこまで我慢すれば、泥のように眠ることが出来る。起きたら連中はいなくなっているし、後ろから溢れる汚れに辟易しても、熱いシャワーを浴びれば、全てすっきりする。  これでまた数週間はあいつらに会わなくて済む。そう思えば、多少の気持ち悪さなんて、たいしたことじゃなかった。 「うわ……っ」  誰かが頬に触れる感覚に、颯太は焦って目を開いた。 「大丈夫?」 ──この数日で見慣れたトラバーチン模様の天井。アパートじゃない。  だとしたら、誰かなんて一人しかいない。 「和さん……」 「ごめん、そんなにびっくりさせると思わなかった」  じんわり汗をかいた額に触れられ、「魘されてたけど嫌な夢でもみた?」と訊ねられる。 「いえ……」  数週間も経っていないのに、すっかり忘れていた。なのに、突然こんな夢を見てしまった原因は、火を見るより明らかだ。 「勉強してくれてたの?」 「……違いますよ」  そう言って和が指さした本だ。カウチソファーに寝転び、後背位のページを読んでいて、暖かい日差しの中で寝落ちした。  嬉しそうな和の話は聞き流し、颯太は上体を起こした。 「早いですね」 「うん。一仕事終えたから、休憩しようかと思って」  鼻歌混じりで和がキッチンに立つ。 「……機嫌もいいし……」  颯太が首を傾げると、和は少し驚いたように眉をあげた。 「わかる?」 「わかりますよ」 「がっぽり稼いじゃったんだよね。だから特別に、貰いものの高い緑茶でも入れようかと思って。お茶なら颯太も好きでしょ?」 「別に、コーヒーも飲めますよ」  初めて一緒にコーヒーを飲んだ時に顔を顰めてしまってから、和は苦みのあるものに気を遣ってくれてる。颯太の強がりに「そう?」と笑い、自分の好きなコーヒーではなく、颯太の好きな緑茶を入れる。 「コーヒーでいいのに……」 「まあまあ。たまには良いじゃない」  この男は、いつもにこにこしている。物腰も柔らかいし、他人への気遣いもある。そして、こっちが焦れったくなるくらい優しい。 「あんた、本当にヤクザやれてるんですか?」 「突然どうしたの? お茶を飲むのがそんなに変だった?」  振り返って目を瞬かせる和に、言い方を間違えたと気づいたが遅い。 「え、と……そうじゃなくて。……あんたは、知ってるやつらと違いすぎるというか」 「知ってるやつら? ヤクザの知り合いがいるの?」 「知り合い、というか……」 「その人達はどんな感じ?」 「……うるさくて横暴で、絶対に好きになれない連中」  颯太がそう言うと、和は「うるさくて横暴だと、うちと変わらないな」と宙を見て笑った。 「全然違う!」 「珍しい。熱が入ってるね」  和に笑われ、颯太はソファーの上で座り直した。 「絶対に好きになれない、か。まあ、素人さんに俺達のことを好きな人なんていないからね」  和が颯太の想像するヤクザを好きじゃないのは、この数日間でわかっていた。和と連中を一括りにするつもりはないし、そんなことを言わせたいわけでもない。  颯太はキッチンの方を向いたが、和は湯を沸かしていて、その背中しか見えなかった。 「俺だって、父親がヤクザじゃなかったら、もっと違う人生を歩んでたと思うし」 「違う人生?」 「たとえば、保健室の先生とか?」 「先生……?」 「あ、本気にしないでね。例え話だから。俺の仕事は組を守ることだから、その役目を放り出すことは出来ないし、するつもりもないよ。けど、颯太を怖がらせてたらごめん。嫌なことがあったらすぐ言ってね? こんなヤクザしかいないビル、嫌いなら無理させてると思うし」  和との生活で無理をしている自覚はない。  穏やかに笑うこの男は、そんな風に割り切れるまで、どれくらいかかったんだろう。それとも、出来た人間は自分の人生を捨てて他人のために生きられるのか? 「でも、それを聞いたのに、解放してあげられないのもごめん」 「え……」  そのヤクザの家に、ヒモ状態で住まわせてもらっているのは自分だ。そのうえ、和の戯言に『付き合ってやっている』という体をとらせてもらっている。和に無理を強いられている自覚もない。 「あんたは、あいつらとは違います……」 「ありがとう。でも本当、そんなことないんだよ」  和の言い方がどこか自嘲じみていて、夢見の悪さに任せて話してしまったことを後悔した。和の言い方では、ヤクザに対してではなく、そこに属する自分に対して嫌悪感を抱いているようにしか聞こえない。 「すみません、そうじゃなくて。俺がヤクザを嫌いなのは……」  嫌いなのは……。  他人に話すのを躊躇う。 「颯太?」 「……両親が、連中に追い詰められて失踪したからで」 「え?」  話して楽しい内容でもないから、人に話すのは初めてだ。 「父が友人の借金の連帯保証人になってたっていう、ドラマとかで定番のやつです。その人は蒸発して、闇金連中は父に金を返すよう言ってきたんですけど、でも五千万なんて大金、うちにはなくて。完済する当てもないのに、利息でどんどん借金が膨らんで、両親は失踪して……」 「それで、自殺しようとしてたの?」 「違います。それが直接の理由じゃないです」  大学入学を機に上京していたため、田舎の両親が借金に苦しめられていることなんて微塵も知らなかった。それどころか、両親が失踪したことさえ知らなかった。これは全て、アパートに押しかけて来たヤクザから聞いた話だ。  男子大学生が親と連絡をとる時なんて、帰省の時か、母親からたまに送られてくるメールくらいしかない。薄情なことだが、全てを知ったのは両親が死んだ後、闇金のやつらがアパートへ押しかけて来たときだった。  初めて会うガラの悪い連中から、両親の死亡診断書と保険金請求書を渡された。借金の返済に充てるから今すぐサインしろ、という脅し付きで。  親の死を見届けられる人は幸せだと思う。颯太はその遺体さえ確認できず、どういう経緯で死んだのか知らされないまま、両親から仕送りが送られていた口座に多額の保険金が振り込まれた。  金で親の生死を知ったことが悔しかった。両親の残した金が、すべてヤクザに巻き上げられたのも悔しかった。  だが、膨らんだ借金を返済するにも、保険金だけでは数百万ほど足りなかった。  いつしか生活圏内に連中がうろつくようになり、今まで交友関係を築いていたはずの友人はいなくなった。いい雰囲気だと思っていた子にも、拒絶されるようにフラれた。 「告白してもいないのにフラれたのは、さすがに笑いましたけど」  気づけば、周りに誰もいない状況を作り出されていた。 「この先一人で生きていても、楽しいことなんて何も起こらないと思ったんです。生きるために食って寝て働いて、いなくなった親の代わりに借金を返して……」  あと二年も我慢すれば、社会人になって銀行でローンが組める。有難いことに、借金はそこまで悲観する額ではなかった。頭の中に、仕方ないという諦めもあったんだと思う。借金という両親の残した遺産は、死にたくなるほど苦痛なものでもなかった。  しかし、その強がりも、大学の休学を余儀なくされた時に呆気なく崩れてしまった。  借金を返し終わった後の生活を考えても、何も浮かんでこない。大学を休んで、数年間アルバイトに明け暮れて、借金を返し終わったところで、その先に何が待っている? 未来予想図の中にぽっかり空いた溝を埋める何かを自分は持ち合わせていなかった。  大学で講義を聞くことだけが、唯一金から離れられる時間だったのに。  コトンと、テーブルにマグカップが置かれた。目をあげると、「颯太の分だよ」と微笑まれる。 「……いただきます」 「どうぞ」  熱々のマグカップを両手で持ち、フゥと息を吹き掛けた。  和は自分のマグカップをテーブルに置くなり、颯太にぴったりくっついて座った。話の続きを催促するわけでもなく、下手に慰めてくるわけでもない。 「あ、の……」 「んー?」  何も言わない体温が心地よくて、ふいに、寄りかかりたいと思ってしまった。 「いえ……」  颯太は火傷しそうなほど熱い緑茶をすすり、乾いた喉を潤した。 「和さん……この緑茶、熱湯で入れました?」 「熱湯? 普通のお湯だけど」 「……渋くて、コーヒーくらい苦いです」 「えっ」  マグカップに口をつけた和が目を見開く。その反応がなんだか面白くて、思わず吹き出してしまった。 「わ、笑わないでよ」 「すみません」  気が抜けたからか、苦い緑茶を迎え入れた胃も一緒になってきゅるきゅると声をあげる。今度は颯太が笑われた。 「……和さんこそ、笑わないでくださいよ」 「ごめんごめん。お腹すいた?」 「……生きてると面倒なことばかりですね。生きてるだけで腹は減るのに、食べるためには金がいるし」  苦いものを美味しいと思ったのは初めてで、嬉しくて顔が緩んでしまう。ここに来て最初に飲んだブラックコーヒーは三口と飲めなかったのに。 「和さんには感謝してます。最後にこんなに贅沢させてもらえて」  屋上で和の手を取らずに飛び降りていたら、苦いものを美味しいと思うどころか、空腹に侘しさを感じることさえ忘れたままだった。 「颯太」 「なんですか?」  顔を覗き込まれ、優しい手で前髪に触れられる。全開にされた額は和のキスを待っているようだ。 「セックスなんて、下衆なことを要求してるのに? 颯太は人が良すぎるよ」 「男の体なんて金にもなりませんし、それくらい別に。それに、うちへ取り立てに来たやつらと違って、 和さんは優しいから」  初めて髪に触れられた時にも、夜毎好き勝手してくる手にも、気持ち悪いと思ったことは一度もない。 「和さんの顔が良い、っていうのもあるかもしれませんけど」  自分で言って自分で笑ってしまう。憎まれ口なんて、久しぶりに叩いた。 「あれ?」  だが、和の顔はいつものように笑ってはいなかった。 「そいつらに乱暴されたの?」 「乱暴というと語弊がありますけど、それで騒がずに帰っていくから、合理的だと思って受け入れただけです」  和の顔から表情が消えていくのがわかる。 「そんな顔、しないでもらえますか?」 「男の恋人がいたんだと思ってた……」 「そんなわけない」  何か言いたそうな和に対し、颯太は目を細めて遮った。  数日一緒にいるだけで、ここまで同情してくるのだから、やはりこの男はヤクザに向かないだろう。 「受け入れないとどうしょうもなかっただけです。ごねて大学で騒がれたり、バイト先に来られて、周りに迷惑をかける訳にはいかなかったので」  家に押し掛けて来るなり、連中は腹の上に馬乗りになってそう脅してきた。 「女じゃないし、男に使われたくらいで困ることも減るものもない。あんたみたいに童貞を大切にしてるわけでもなかったし」 「あのね……。颯太もそういう冗談言うんだね」 「俺、別に性格良くないです」  今度の軽口には、苦笑だったが笑ってくれた。決して顔色を窺っているわけじゃないが、和が笑っているとほっとする。 「変なこと話してすみませんでした。和さんには、つい余計なことまで」  お茶をすすり、取り急ぎ、先程感じた空腹を満たす。 「颯太は割り切れるようになるまで、どのくらいかかったの?」 「俺のは……割り切ったというより、流されてただけです」  ふいに肩を引き寄せられ、体に人の重みを感じた。 「何日一緒にいても、颯太は振り向いたらいなくなってそう」 「なんですか、それ。心配しなくたって、このビルから飛ぼうなんて、もう考えてませんよ」  このビルどころか、あと一週間後に自殺するなんてことが出来るのだろうか? もし自殺を断念したとして、またあの未来の見えない生活に戻ることは考えられない。そろそろ、今後の身の振り方を考えないといけない。 「颯太……」 「ん」  押し重ねられた唇は、柔らかく温かかった。こんな風に、セックスの一部でもないキスを大人しく受け入れてしまうほど、ここでの生活が体に馴染んできている。 「ねえ、颯太」 「な、んですか?」 「もしよければ、下の事務所でバイトしない?」 「え?」 「昼間だけでいいんだ」 「下、って?」 「六階の弁護士事務所」  眉間に皺を寄せていると和に笑われた。確かに、自分があの派手な人達の中で役に立つとは思えない。 「契約書の整理、って言ってたかな。人手が足りないらしくて、一時的に手伝ってくれる子を探してるらしいんだ」 「へ、え……」 「確か、大学では法学部に在籍してるって言ってたよね? 興味ない?」 「興味は、ありますけど……」  弁護士事務所でバイトが出来るなんてまたとない機会だ。だが、一週間しか手伝えないなんて、逆に迷惑にならないんだろうか。 「颯太は家でぼーっとしてるのが苦手なタイプでしょ? 興味があるならやってみたら?」 「……事務所の方の、迷惑にならないなら……」 「それは大丈夫。きっと竜一も助かると思う」  和は颯太の頭を撫でるなり、どこかへ電話を始めた。  颯太は和の話し声を聞きながら、降って湧いた新しい予定に動揺を隠せなかった。  終息させなければいけない生活の中で、何か新しいことが始まるのは不思議な心地だった。
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