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プロローグ
§
会ったばかりの男の部屋でソファーに横になる。
その寝心地は申し分なく、寝転んですぐにこの部屋が好きになった。顔にあたる日射しは穏やかだし、空調も快適で、時々隣の部屋でイスを引く音が聞こえる以外は無音と言っていいほど静かだ。
この匂いだって嫌いじゃない。確かに他人が生活している匂いなのに、嫌いじゃないどころか、落ち着きすぎて、呼吸するたびに体から力が抜けていく気がする。
ついさっきコーヒーを飲んだばかりなのに、ミルクたっぷりでは眠気予防にならなかったようだ。噛み殺しても、次々に欠伸が出てくる。
『まさか死ぬつもり? ヤクザのビルから飛び降りて?』
ソファーが窓際に設置されているおかげで、瞼を上げるだけで視界に青空が入ってくる。
『だったら、君の二週間を俺にくれないかな?』
『二週間だけ、俺の花婿修行に付き合ってくれない?』
微睡みながら、屋上で男に言われたことを反芻する。
『セックスの練習相手になってほしい』
改めて思い返しても最低だ。
そして、餌に釣られて誘いに乗った自分も、同じく最低だった。
『出来る限りのお礼はさせてもらう。金が良いならいくらか用意するけど、君を買いたくはないから、出来れば別のものがいいな』
最低だと思うのに誘いに乗ったのは、男がセックスの対価に金を嫌がったからだ。自分でも笑ってしまうが、たったそれだけの理由で、のこのこ男の部屋について来てしまった。
(事件に巻き込まれたって文句言えない……)
約束したからには、男の言う練習には付き合う。だが、男がその練習相手に、見ず知らずの男子大学生を許容した理由が気になる。
(そういえば、その辺の話、一切聞いてない……)
女性とのセックスを想定しての練習なら、普通、女性を相手にするだろう。男ほど容姿が整っていれば、相手はすぐにでも見つかったはずだ。
ゲイでもない男が、セックスの相手に男子大学生を許容した理由──しかも、プロでも売りをしているわけでもない、自分の住んでいるビルで自殺しようとしていた迷惑なやつ、を許容した理由がわからない。
絶対に妊娠しない相手なら誰でもよかったとか? 後腐れのない相手なら誰でもよかった、か?
いずれにしても微笑ましい理由ではなさそうだ。
(やっぱり間違いだったか……)
風が強いせいで、雲の流れがやけに早い。
顔に当たっていた日射しは、いつの間にか厚い雲に遮られ、部屋に入らなくなってしまった。この様子だと、今夜は雨になるだろう。
もしそうなら、今日は飛び降りるのに最適の一日だった。
最後に見る景色は快晴で、どうしても汚してしまうアスファルトは、夜のうちに雨が流してくれた。ビルを事故物件にしてしまう後ろめたさが、少しは軽減されたかもしれない。
「ふあ……」
我慢しきれなかった欠伸が溢れた。
だが、その後悔も二週間の延長だ。
今日から二週間、この部屋で男の花婿修行に付き合う。
あとは死ぬだけだと思うと、人間、とんでもないことにも頷けるな。
男のことを考えながら、颯太は雨粒を見る前に眠りに落ちていた。
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