ヤクザとの出会い1

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ヤクザとの出会い1

       §  低気圧から延びる寒冷前線の影響で、今日の東京は風が強いらしい。駅前で信号待ちをしているとき、誰かがそう言っていた。  すごい。予報的中だ。  二月の鋭い風を頬に受けながら、立花颯太たちばな そうたは塗装の剥げた冷たい柵を握っていた。  たかだか八階建てのビルの屋上なのに、周囲に高いビルが少ないせいか、視界は開けていて解放感がある。その分、風を防ぐものがなくて寒いが、颯太はすぐにこの景色を好きだと思った。時の流れが、ゆったりしている。  平日の昼時。通勤通学時間を過ぎた住宅街に人影はなく、ベランダで洗濯物を干している住人もいない。日常的に聞こえる車や電車の音は些細で、耳に入ってくるのは走り去る選挙カーの声と強く吹いている風の音だけだ。  颯太はマフラーに鼻を埋め、北風でぼさぼさになった髪を耳にかけた。髪も黒、コートもマフラーも黒なのだから、もう少しくらい太陽の恩恵を受けられてもいいのに。  一張羅とはいえ、着古したサイズオーバーのコートは裾から入ってくる強風を防ぎ切れていない。景色を眺めていたくても、颯太の体はたった数分で芯から冷え始めていた。  こんなことなら、もっと早くに思い切っておけば良かった。いざ飛び降りるとなれば、最後の一歩を尻込みするんじゃないかと思っていたが、その心配は杞憂だった。今、この手を離すことに何の抵抗も感じない。雲一つない青空が後ろ髪を引いてくるが、自殺には理想的な環境だ、とさえ思えている。  三年間暮らしたアパートは引き払い、大学への退学の届出も済ませた。お世話になった教授へは朝一番に挨拶できたし、複数あるアルバイト先にも辞めると伝えた。お陰さまで友人と呼べる友人はおらず、身の回りは綺麗さっぱりして、思い残すことは何もない。  二十一年間生きてきたが、我ながら損な性格をしていたと思う。  自分の最期の場所さえ、好きな場所ではなく、こうして出来るだけ人に迷惑のかからない場所を選んでしまった。  死に場所として最初に考えたのは、自宅のアパートだった。だが、アパートで首を吊っては、これまで親切にしてくれた大家さんに迷惑がかかる。ただでさえオンボロなのに事故物件の称号がついては、家賃をタダにでもしない限り次の借り手がつかないだろう。  あとは、入山、入水、飛び出し、飛び込み。定番のものから流行りのもの。いろいろ検討したがどれもダメだった。どの死に方も、最終的に金のかかるものばかりだった。身寄りがないうえ、颯太は親の残した借金を抱えている。なのに金のかかる死に方を選ぶなんて、到底そんな贅沢をする気にはなれなかった。  生きていくにも金がかかるが、死ぬにも金がかかる。だったらもう、その辺のビルから飛び降りてしまえ──。  憧れて入学した大学の門を出たとき、全てがどうでもよくなり、吸い寄せられるようにここへ来ていた。  通りすがりに見つけた雑居ビルの屋上だ。ビルの正面側には極端に窓が少なく、入っているテナントは営業しているのかさえわからなかった。住居ではなさそうだし、飲食店や子供が近寄りそうな店も入っていない。今の颯太にとって、最期の場所の条件はそれで十分だった。  中で働いている人には申し訳ないが、どうか皆さんがこれからの非礼に目を瞑ってくれることを祈る。  颯太は小さく息を吸い、腕の力を使って柵の上へ右足を振り上げた。柵に跨がると、視界が数十センチ高くなる。たった数十センチでも、高くなった分だけ景色の見え方が変わる。さっき前を歩いてきたビル、マンション、神社、通った大学、その全てがやけに小さく見える。  二度と戻らないと思うだけで、一足飛びに雲の上まで来てしまった気になるからだろうか。今朝まで生活していた場所なのに、すでに懐かしい気がした。 「……そこで何してるの?」  思いがけず聞こえてきたのは、張りのある柔らかい声だった。 「ねえ、君」  わずかに驚嘆の色を含んでいるものの、その声は戸惑う風でもなく、今にもビルから飛び降りようとしている颯太を詰問する風でもない。迷子に話しかけるような声だった。  颯太が黙って動かずにいると、男は静かに返事を促した。 「何してるのかって聞いてるんだけど」  話しながらこちらへ近づいて来ているようで、その足音はどんどん大きくなっている。  颯太は柵の上を握り、背中を丸めた。背筋を冷や汗が伝う。こんな時に誰かに遭遇するなんて、考えてもいなかった。 「ねえ」  声をかけられると同時に肩を掴まれ、些細な抵抗も空しく体ごと男の方へ向けさせされる。男は颯太が思っていたよりずっと近くまで来ていたようで、そのあまりの近さに思わず息が止まった。 「っ、……」  見開かれた飴色の目がじっとこちらを見ている。  声の柔らかさとは違い、男は切れ長気味の華やかな目をしていた。だがか、だからか、今一つ感情が読み取れない。少し癖のある亜麻色の髪は男の表情を隠すように靡いているものだから、颯太には男が怒っているのかどうかさえわからなかった。 「まさか死ぬつもり? ヤクザのビルから飛び降りて?」  颯太が固まっていると、男は苦笑して首を傾げた。  年は颯太よりも少し上だろう。質の良さそうなヘンリーネックの白シャツに、ベージュのスウェットパンツを履き、編み目の大きなグレーのカーディガンを羽織っている。上品だが、かなりラフだ。屋上へはタバコを吸いに来たようで、美丈夫の指には火をつけたばかりのセブンスターが摘ままれている。 「素人さんみたいだけど、うちに何か恨みでもあるの?」  ろくに吸ってもらえていないタバコが、主の隣で細く煙を上げている。 「飛ぶなら他のビルでお願いしたいな。ほら、お住まいのマンションとかあるでしょ?」 「え? ちょ……っ、うわっ」  伸びてきた腕を避ける暇も与えられず、「さあ、降りて」と腰を掴まれる。男は躊躇なく颯太を抱き寄せると、無慈悲に柵の上から引きずり下ろした。
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