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ヤクザとの出会い3
「二週間でいいんだけど、どうかな?」
「ど……」
この状況で鳥肌が立っていないことが奇跡だと思った。
セックスの練習相手、って言った……?
颯太が言葉を失っていると、男は笑って颯太の暗髪に触れた。温かい手が額を撫で、伸びすぎた前髪をさらっていく。邪魔だった前髪が視界から消えたせいで、こちらを見ている男の目がしっかりと見える。
「すごく可愛いから、死ぬつもりなら勿体ないなって思って。可愛いってよく言われない?」
そう言われ、颯太は条件反射的に顔をしかめた。
幼い頃から言われ続けてきたせいで、自分がやや女顔だという自覚はある。つり目気味の黒目がちな目に長い睫毛、肌は男にしては白く、小学生の時には「男のくせに女子みたいだ」とクラスでからかわれた。しかし、お陰さまで背も伸び、今や女性に間違われることはない。
未だにこの容姿が一部の人間から好まれることは知っている。だが往々にして、その一部の人間を好きにはなれなかった。
颯太は眉間に深くしわを寄せ、頭に置かれていた男の手を払った。
「ふざけるな、俺は娼夫じゃない!」
「もちろんわかってるよ。でも、君みたいな子に今まで会ったことないし、一目惚れだと思ってもらえないかな?」
「あ、あんたは一目惚れした相手をいきなりベッドに誘うのか……!」
「いや、それを言われると」
颯太が睨むと、男はゆっくり頭を振った。「なんて言えばいいかな」と曖昧に笑い、首の後ろに手を当て、襟足を指に絡ませて唸っている。
その顔の横には、吸われもせず燃え続けているタバコの煙が一筋。小さな火はじりじりと白い巻き紙を侵食し、あと少しで男の指に辿り着こうとしていた。
くだらないことを言っていないで、さっさとタバコを吸って、さっさとどこかへ行ってくれればいい。なのに、男はまだ首を捻っている。
「ほら、物語のお姫様は美人っていうだけで、助けられたことがほとんどでしょ? 本人の意には則してないかもしれないけど。でも大体がハッピーエンドなわけだし、君も、命の恩人を信じてくれると嬉しいんだけど」
「……付き合ってられない」
男がふっと笑った。
「ズバッと言うね」
ズバッとも何も、意味がわからないうえ、命の恩人だなんて。恩着せがましいにも程がある。長いこと考えて絞り出した理由がそんな冗談の賜物とは、さすがヤクザ関係者だ。颯太は内心で毒づいた。
自分は決して助けられたわけじゃない、男に自殺の邪魔をされただけだ。
「二週間付き合ってくれたら、このビルを使ってくれて構わないって言ったら?」
男はそう言うと、再び颯太の顔を覗き込んできた。いちいち距離が近い。
「死ぬ場所に困って、うちのビルに来たんでしょう?」
風向きの関係からか、煙に混じって、ふいに男からいい匂いがした。
「そ、れは……」
確かに、ついさっきまで誰にも迷惑をかけない死に場所を探していた。誰にも迷惑をかけず、何も残さずに死にたいと思っていた。
しかし、こだわりのない颯太にとって、死ぬ場所はどこでもいい。ここと同じような条件のビルはいくらでもあるだろうし、おかしな男に絡まれるくらいなら、こんなビルはこっちから願い下げだ。
「俺、帰る……っ」
「待って。君にとってこれがメリットになるかはわからないけど」
そう前置きをしてから、男は颯太の相槌を待たず言葉を続けた。
「二週間付き合ってくれたら、君が死んだときに誰よりも悲しんであげる」
それはどこか独り言めいていたが、聞き流すことも、噛み砕いて呑み込むことも出来ない重さで颯太の元へ届いた。
「そんなのはどう?」
「な、に……?」
胸が勝手にバクバクし始めて、颯太は動揺を隠せなかった。
その隙をつくように、男の手が再び髪に触れてくる。今だけは、髪に神経が通っていないなんて、信じられなかった。
「どうしても駄目かな?」
男の指先が、頬を辿って顎、肩に触れた。
だって、自分が死んで誰かが悲しむなんて、そんなの本望じゃない。そんなやついらない──。
駄目かな? に対する答えは決まりきっている。
駄目、だ。そう決まりきっているのに、その言葉はすんでのところで声にならなかった。
先程から気になっていたタバコの火が、颯太が口を開くより早く男の指先を焼いた。
「ッ──!」
タバコはコンクリートに振り落とされ、火はすぐさま健康サンダルの裏で踏み消された。
男は颯太の肩を掴んだまま、火傷直後の痛みに堪えているようだった。火傷の様子を見ながら、唇に少し赤くなった指の腹を押しつけている。
「……あの、……大丈夫?」
「あー……うん、大丈夫。ありがとう。……格好悪いところ見られちゃったね」
「……そんなことより、早く冷やした方がいい」
まったく途方に暮れる。目の前で怪我をされたのでは、……立ち去ろうにも立ち去れない。
颯太が「痛くなる前に早く」と言うと、男は苦笑いを浮かべながら、体に触れていた手を離してくれた。
あ……、と思った。
「じゃあもうお手上げ、って言いたいところなんだけど」
話しかけられて、ようやくはっとした。今すぐこの場から逃げろ。頭の中で警鐘が鳴っている。
なのに、飴色の目に見つめられていると、どうにも動けない。
「もうちょっとだけ説得させてくれない? 寒いし、よければ家の中で。火傷も早く冷やしたいし。ね?」
男は吸い殻を拾って微笑むと、カーディガンの前をかき寄せ、下のフロアへ続く階段に足を向けた。まるで颯太がついて来ると見越したような態度で。
「ちょっと、勝手に……っ」
「温かいコーヒーでも飲もうよ」
相手はヤクザで、とんでもない提案をしてきた男だ。いや、平日の日中に、部屋着姿のままビルの屋上にいるなんて、本当にヤクザかどうかさえ怪しい。ただの頭のおかしいやつかもしれない。
「屋上は好きなんだけど、冬は寒いのが難点だね」
そんな男についていってはいけないのに……。
「君も寒いでしょう? 鼻が赤い」
後で面倒なことになると容易に想像出来るのに、男の微笑む顔を見ると、なぜか今より悪いようにはならない気がした。
「いつから屋上にいたの? ほら、こっち。早くおいで」
優しく手招きされ、颯太は促されるまま、男の後ろについて階段を降りてしまった。
「大丈夫。そんなに警戒しなくても、悪いようにはしないよ」
『悪いようにはしない』なんて、極悪人の常套句なのに。
そう思った時にはもう遅かった。
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