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号砲
生まれて初めて、眠れない夜がきた。
どうしようもないのに、楓は幾度となく彼とのやり取りや会話を思い出しては、どういうことだと問うた。誰に? 彼に? 自分に?
何かがおかしいことは解っていた。嘘を吐かれているだろうことも予想はついていた。それでも考えるのだ、いつから? どうして? どうする?
どうする?
それを問われるべきは自分なのか。思わず楓は反駁する。
明らかに彼の方が分が悪い。あちらはショービジネスの担い手で、こちらは一介の大学院生だ。そんなことは考えなくても解る。そもそもインモラル… いや、それは差別用語だ、と脳内で訂正する程度に冷静だったが、実社会では「アウト」な関係なのだ、自分たちは。まだ彼も新人に毛が生えた程度だから、誰にも気付かれていないだけだ。
しかし今後はそうもいくまい。元から期待された素材だ、怪我が完治し、来季を迎えればあちら側に帰っていく。そこでのスキャンダルは命取りだ。
…醜聞、なのだろう。
そんなつもりは何ひとつ、ないけれど。
液晶画面の青白い光が楓の横顔を照らす。とっくの昔に彼の動画は再生を終えている。もう何度も見た4年前の21奪三振。彼の本性。白球を投げるため、野球をするためだけにつくられた、非常で精巧な最新鋭の戦闘機。
もしバレたら… 台無しだ。彼の経歴も、未来も。
楓は生唾を嚥下する。自分の方も世界がひっくり返るのは解っていたが、それはどうでもよかった。失うに惜しい何ほどのものも無い。
ではどうする?
同じ問いに戻って、楓は乱暴に前髪をかき上げる。
恋をした。
次の約束が待ち遠しくて、その日まで夜を数えた。視線が合えば自然に笑みがこぼれ、声を聞けば胸が高鳴った。僅かな距離ももどかしく、触れた指先から伝わる熱に心が舞い上がった。一分一秒でも長く一緒に居たかった。一方的な思い込みや勘違いではない、はずだ。嘘を吐かれていたけれど、彼が名乗りづらかったのも想像に難くない。そもそも、まさかこんなことになるとは、彼も自分も思っていなかったのだ。
思っていなかった。でも。
恋、だった。
堂々巡りの自問自答は出口を見つけられず、楓は泥のような現実に飲み込まれてゆく。
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