2人が本棚に入れています
本棚に追加
夕暮れ、家路
そのあとも黙々と仕事をこなし、珍しく定時に帰れることになった。6時半頃、夏の西日はまだ空に浮かんでいる。冷房の効いた社内から一歩進んで、湿気でむんとした暑さを凌ぐためにワイシャツの袖を捲っていると後ろから聞きなれた、透き通った声が聞こえてくる。
「太一くん」
はい、と応えた声は裏返ってしまった。自然体を意識しすぎて力みすぎた。そんな僕を見て、「なに今の、変なの」とくすくす笑うあなたを見ると自然と笑顔になれる。
やっぱりこの人が好きだ。
今の会社に入った4年前から、ずっと好きだった。うちの取引先の会社に勤める兄貴とは3年の付き合いだから、不格好でもいいからもっと素直に好意を伝えていれば間に合ったんじゃないかなと、最近は早苗さんの笑顔を見る度に考えてしまう。
「どうしたの?そんな暗い顔して。今日お仕事頑張ってたもん、もっとスッキリした顔してな」
どうやら知らない間に辛気臭い顔をしていたらしい。早苗さんはいつも人のそういう変化に本当によく気がつくし、にししと邪気のない笑顔で励ましてくれる。
この笑顔は、兄貴にも向けられているのだろうか。兄貴が疲れた顔で帰ってくれば、あの声で癒してくれるのだろうか。兄貴が求めれば、僕の知らない顔をするのだろうか。
本能が僕を満たす。理性の盃に張りつめたものがわずかに零れた瞬間だった。
行き交う人混みの中で、力いっぱい抱きしめた。僕の胸に収まりきるはずのない彼女を押し込もうと、痛いくらいに抱きしめる。
誰が見ているかわからない。もしかしたら兄貴が見ているかもしれないし、両親が見ているかもしれない。こんな人の目に溢れた雑踏の中で、早苗さんは僕を突き放さなかった。けれど、この10秒間彼女の腕は行き先を失って宙ぶらりんのままだった。その事実に気がついた時、僕は彼女を手放した。
ごめんなさい、と鼻をすすってからつぶやく。言葉を探してる早苗さんを横目に、僕は家路に就く。鼻を赤くして闊歩するサラリーマンは、この街には馴染まなかった。こんな状態で家まで帰る勇気はない。
人々の視線から逃げるために、近くにある彼女の家に向かうことにした。インターホンを鳴らすと、パジャマ姿の彼女が現れる。せっかくの休日をこんな僕に邪魔されて険しい顔をしていたが、僕が泣いていることに気づいて優しくなった。
その優しさにつけ込んで、さっきの続きを彼女に求める。浅黒い肌に、ささやく声は少しハスキーで、指は小さく、丸い可愛らしい指だった。
果てる時、1匹の蚊がぽとりと地面に落ちるのを見た。この蚊が吸った血は、好きな人の血だったのだろうか。地に転がってぴくぴくと情けなく痙攣してる様は、ベッドの上を映す鏡のようであった。
最初のコメントを投稿しよう!