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父は女のように麗しい人だったと、亡くなる前の母親がよく話していたことを、明里はふと思い出していた。
気怠げな昼下がり、明里は置屋の自室で、ぼんやりと袖のほつれを弄っていた。
今日は明里は茶挽きだった。
面倒だが繕わなければと、もう一度、袖の端をつまんで持ち上げた。
その瞬間、母の着物はいつもぼろぼろだったと、長い間埋もれていた景色がふわっと浮かび上がった。
明里の母は、薄汚れた着物でずっと煎餅布団に潜っていた。
あんたのお父はんは、そら綺麗なお人やったんよ、と。
病床でそう語る母は、とても楽しそうだった。
隙間風が通る裏長屋で、幼い明里はずっと、思い出話の中だけの父親を待っていた。
痩せこけた手で、明里の頬を撫でる母の目に映っていたのは、いつも、二人を見捨てた父親だった。
その目に映りたいと願っても、父親が帰ってこない限り、母は他の全てを拒絶するだろうと、幼いなりに考えていたのだ。
だから、明里は待った。
母が何回も語っていた、綺麗な簪を携えた父の姿を、往来の人混みから見つけようとした。
しかし、父親は帰っては来ない。
母は、骨と皮ばかりの指で、明里の整った目鼻立ちをなぞる。
そういう時、母はずっと、あんたはお父はんに、ほんまにそっくりやわ、と口癖のように呟いていた。
病に冒されても、ひたすら居なくなった父親を思い続けた母は、苦しみながら死んでいった。
最後まで、母が父の名を呼んでいたのを覚えている。
まだ七つだった明里には身寄りが無く、気がついた時には、島原の廓の中に居た。
父と母は駆け落ちだったのだ。
しかし、父は他の女と逃げ、後には病身の母と明里、そして借金だけが残された。
それでも、母は父を恨んではいなかった。
いつかは帰って来てくれると、強く信じていた。
幼い明里には、それが、酷く恐ろしいことのように感じられた。
全てを捨て、病をえても実家に帰らなかった母の執念が、この体にも流れているのだと思うと、怖くなった。
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