明里

2/13
12人が本棚に入れています
本棚に追加
/26ページ
父は女のように麗しい人だったと、亡くなる前の母親がよく話していたことを、明里はふと思い出していた。 気怠げな昼下がり、明里は置屋の自室で、ぼんやりと袖のほつれを弄っていた。 今日は明里は茶挽きだった。 面倒だが繕わなければと、もう一度、袖の端をつまんで持ち上げた。 その瞬間、母の着物はいつもぼろぼろだったと、長い間埋もれていた景色がふわっと浮かび上がった。 明里の母は、薄汚れた着物でずっと煎餅布団に潜っていた。 あんたのお父はんは、そら綺麗なお人やったんよ、と。 病床でそう語る母は、とても楽しそうだった。 隙間風が通る裏長屋で、幼い明里はずっと、思い出話の中だけの父親を待っていた。 痩せこけた手で、明里の頬を撫でる母の目に映っていたのは、いつも、二人を見捨てた父親だった。 その目に映りたいと願っても、父親が帰ってこない限り、母は他の全てを拒絶するだろうと、幼いなりに考えていたのだ。 だから、明里は待った。 母が何回も語っていた、綺麗な簪を携えた父の姿を、往来の人混みから見つけようとした。 しかし、父親は帰っては来ない。 母は、骨と皮ばかりの指で、明里の整った目鼻立ちをなぞる。 そういう時、母はずっと、あんたはお父はんに、ほんまにそっくりやわ、と口癖のように呟いていた。 病に冒されても、ひたすら居なくなった父親を思い続けた母は、苦しみながら死んでいった。 最後まで、母が父の名を呼んでいたのを覚えている。 まだ七つだった明里には身寄りが無く、気がついた時には、島原の廓の中に居た。 父と母は駆け落ちだったのだ。 しかし、父は他の女と逃げ、後には病身の母と明里、そして借金だけが残された。 それでも、母は父を恨んではいなかった。 いつかは帰って来てくれると、強く信じていた。 幼い明里には、それが、酷く恐ろしいことのように感じられた。 全てを捨て、病をえても実家に帰らなかった母の執念が、この体にも流れているのだと思うと、怖くなった。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!