piece.4

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piece.4

――自分には生きている理由などないと気づいてしまうことは、死にたい理由を見つけること以上に人を苦しめる、のかもしれない。 ――これといった不幸もないのだ。 ――無意味に、無目的に、無益に生きて。無限ではないはずのこの星の酸素を浪費している人間には、自分でそうと分かっていても心を病んで自らを手にかけることすら許されないのだ。 ――生き続けなければならない。この世界は、自分がいなくても一つの問題もなく回っていくと知りながら。 ――最初から、俺が生まれることなど誰にも望まれていなかった。 ―― 「あんたなんて産まなければよかった」 ―― 「っ、はあ、はあっ…… 」 ――まだアラームも鳴らないのに目を覚まして、半分反射的にベッドの上で上半身を起こす。寝間着の胸元をぐしゃっと掴むと、この時季にそぐわずそれは冷たい汗にぐっしょりと濡れていた。 ―― ……なんで今更、あの頃のことを夢に見たんだ。 ――もう一度眠ることもできそうにないから、そのままベッドを抜け出し、着ていたもの全部脱ぎ捨てて洗濯機に投げ込むとそろそろと風呂場に足を踏み入れる。シャワーの蛇口を勢いよく捻り、必要以上の水圧を髪に、顔に、身体に受ける。それでも俺は目を閉じなかった。しばらくは何をするでもなく、ただ鏡を、その中の身体を滑り落ちていく水滴を見つめていた。 ――じっと眺めていると、自分は生きている人間なんかじゃなくて、ぜんまいが外れて動かなくなった玩具の人形か何かなんじゃないかという錯覚にすらとらわれる。でも―― ――生きてんだよな、俺。ちゃんと。 ――たしかに、あの時誰にも見つけられず、助け出されていなかったら、俺は死んでいたよ。でも、俺が生きながらえるに足る理由がどこにあった? 俺一人が生きるか死ぬかで、この世界の何か一つでも、左右されることがあったか? 一つの命であるということ以上に、大人たちが俺を救う理由が何かあったのか? ――何もないだろう、そんなもの。 『いつも楽しく拝聴しております! 最近はSoくんとのコラボも上げてくださってるのめっちゃうれしいです! おふたりってどういう関係なんですか? 笑』 「 ……っゔふぉ」 何気なく目にした動画についたコメントに、思わず咳き込む。 ……どういう関係って。 「? どうかしましたか」 隣を歩いていた烏丸に不審そうな目を向けられる。 「あーいや、何も!」 「聞いて、ました? あの、今日はここまででいい、俺は、ここに寄るので」 「え」 烏丸が足を止めたそこは――  スーパー?  俺がぽかんとしてその場から動かないのを見て烏丸がおずおずと、しかし半分呆れた声を出す。 「……よかったら一緒に来ます? ……夕飯の買い物だけど」 「お? おう……」 限りなく変な空気、よく分からない状況になってしまった。烏丸の後ろにそろそろと続いてスーパーに足を踏み入れる俺、などどんな情けない図だろう。  店に入ると烏丸は意外なほどテンポよく売り場を回っていく。 (いち男子高校生の癖に、こういうの慣れてんのか) ぼんやりと後ろをついていくだけの俺に、烏丸がふと振り返ってきた。 「何か、食べたいものとかありますか? 天ヶ瀬くん」 「は、お、俺……?」 言葉の意図が呑み込めず俺が目をしばたたかせていると、烏丸はにいっ、と悪戯っぽい、しかし頬を染めた笑顔を作った。  ……こ、これは……。  それから俺たちは、ああでもないこうでもない言いながら、肉やら野菜やらをカゴの中に放り込んでいった。狭々しく陳列棚を覗き込んでいると、互いの距離が縮まる。頭が触れそうになる。たまに小突き合ったりしながら、笑い合いながら、ただ夕飯の食材を買う、それだけ。  なんかでも、こういう普通のことが、こんな小さなことが、とてつもなく――幸せだ、って思った。  ……俺の思考も、たいそうくだらなくなったものだ。  レジで烏丸が店員の前に進み出かけたので、あ、俺がやるよ、と位置を変わった。ぴ、ぴ、と小計金額を変えていく画面を目だけで見下ろしながら、なるべくさりげなく、聞いてみる。 「普段買い物とか、不便じゃない?」 「……ほんのちょっと」 小さな声で言って目を伏せた横顔を見て何を言おうかという思案は、合計金額を告げる店員の声で遮られた。 「俺4円ある」 烏丸がひょいっ、とキャッシュトレイに1円玉を載せる。 「ありがとうございましたー」 去り際、店員に生温かい笑みを向けられた気がして、自分の頬が軽く紅潮した気がしたが、腕を伸ばして俺の財布にじゃらじゃらと小銭を投げ入れる烏丸は多分、気付いていない。俺も俺で自意識過剰だったか? と思うと余計に気恥ずかしくなった。  で、結局俺は烏丸の家に来てしまったわけで。 「よかったのか? 急に来たりして。親御さんとか……」 「いいよ。俺、一人暮らしだから」 「え、あ、そうなの……」 「着いた。家、ここ」 烏丸の視線の先にあるのは無機質なアパート。ついていくと、その一室の前でドアの鍵を開けながら、俺を振り返ることもなく烏丸が呟いた。 「中学まで住んでた家は、追い出されたから。高校入ってからは、ここで一人暮らし」 「え……」 細い背中を見つめて、俺が固まっていると、 「はいどうぞ」 ドアを開ける時になってやっと、烏丸がこちらを振り向く。  開かれたドアの先は、なるほど男の一人暮らしと言うべきか、いやそれにしても物の少なく殺風景な部屋が視界に飛び込んできた。 「……おじゃましまーす……」 俺はそろ~っと靴を脱ぐと、抜き足のようにその未知の空間に足を踏み入れた。 「ふふっ。そんなそーっと入ってこなくていいのに」 そんな俺の様子を見て、烏丸は困ったような、呆れたような柔らかい笑みを浮かべた。 「だって」 ふいっと顔を背けて唇を尖らせる俺をちら、と見て、烏丸はまた背を向ける。買ってきた食材たちを袋から出し並べ始める。  それから俺たちは並んで台所に立った。料理に不慣れな俺はかえって足手まといだった気もするが、野菜を切りながら、炒め物をかき回しながら、烏丸はころころと笑っていた。それを横目で見て俺も、時々笑い声を漏らしていた。  そうだよな。こういうことでいいんだよ、多分。  俺たちが作ったものは大したものじゃない。そりゃ俺よりは慣れているといったって、烏丸も男子高校生の一人暮らしだ。簡単な料理を並べたローテーブルに向かい合って、手を合わせた。「いただきます」 「む、うまいな」 まずくなりようもないメニューだけど、俺は能天気に感想を述べた。 「……ほんとだ。おいしい」 烏丸は箸でつまんだ白飯をじっと見つめたまま固まっていた。 「烏丸?」 「……知らなかった。誰かと食べる食事が、こんなにあったかいなんて」 「……」 「……俺さ。本当は口が利けなくなった原因、ちゃんとあるんだ」 「え…… 」 「心的外傷……っていうのかな。ネグレクト、ってやつだろうな、今から思えば。俺は多分、所謂ノゾマナイニンシンってやつで生まれて、俺の父にあたる男は行方くらまして、母と二人残されて。でも母の関心が俺に向くことはなくて。飢え死にする寸前だった俺はある日母の部屋から助け出されて。それからは親戚の家を転々とした。どの家の人も、しゃべらない俺を気味悪がって、最後は手放すんだ。たらい回しみたいにされて、最後に住んでた家を出た時には、もう行くところがなかった。だからここに一人で住むしかなかったんだけど。まあその家の人も、一度は俺を預かった手前、完全に見捨てるわけにもいかないんだろうね。毎月お金を振り込んで、経済的な面倒は見てくれてる。だから、不満は何もない、よ」 「……」 「食べることに、何の感慨もなかったんだ。遠い記憶の中の俺は、足の踏み場もない散らかった家の中をひっかき回して、食べられる物を探してて。親戚の家に住んでた頃は、一緒に食卓を囲みはしても、ここは自分の居場所じゃないって思いがどこかにずっとあって。しゃべらない俺には、家の誰も、話しかけてこない。俺は、そこにいるのにいないような存在だった、ずっと。一人の家で食べるようになってからは、毎日の食事なんて、飢え死なないための最低限の作業でしかなくなった。物の味なんてさ、とっくに感じなくなってたんだよ」 カタン、と箸を置く音。ごめん、変な話して、と苦笑いを浮かべるあいつを。気付いたら俺は、考えるより先に、力の加減も知らずに抱き締めていた。 「天ヶ瀬くん? く、苦しいよ」 烏丸は俺の腕の中で、困ったように笑っている。 「……だよ」 「え?」 「なんでお前ばっか、こんなつらい思いしなきゃなんないんだよ」 「いや、お、俺別に、つらいとかは…… 」 腕の中から抜け出そうとする細い身体を逃がさまいと、押さえる腕にさらに力を込める。大人しく動きを止めた烏丸が、ぼそりと付け足す。 「俺、これも知らなかった」 「え?」 「自分のことを話すって、こんなに、苦しいんだね」 ああ。この人は、自分の痛みが分からないのだ。そういうの、少しだけ……分かる気がする。
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