piece.6

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piece.6

 自分の小さな手を引く母親の手を精いっぱい反対方向に引っ張り返して、地団駄を踏んで、何かを喚き散らす子供がいる。母親は、言うことを聞かないと置いていくわよ! ばいばい! と彼を怒鳴りつけている。  定番の光景だよなあ、と苦笑いを浮かべながら、制服姿の俺は親子の横をすり抜ける。  定番だけど、たぶん俺の子供の頃とはかけ離れた姿。  俺には俺が目の前のこのガキと同じ年齢だった時にも、何かが欲しくて、自分の希望を通そうとして泣き喚いた記憶は一切ない。  梓くんは手のかからないいい子ね~と周囲に褒められるたび、母はそうかしら~、と困ったように笑っていた。  だがそれはきっとただ、俺には遠いちいさな子供の時から、そうまでして欲しいものなど何もなかったからだ。 「(しおり)。起きなさい。はい、ほら着替えて……うん、その服、ぴったり。あなたは完璧に『栞』ね。お母さんうれしいわ」 「栞も今日から一年生ね。なあに……そうね、周りの子のランドセルはみんな新しくてピカピカね。それにいろんな色の子がいるわね。でもいいじゃない、やっぱり昔ながらの黒がいちばんかっこいいわよ。それに、栞のは新しくないし、最近のみたいに大きくないから重くなくていいでしょ?栞はほんとにお母さんの言うことをよく聞くいい子ね。あなたが、僕もみんなみたいな新品のランドセルじゃないとヤダーって駄々こねるような困った子じゃなくて、お母さんうれしいわ」 「はーい、それでは、まず最初に自己紹介をしましょう。これから一緒にお勉強する、1年1組のみんなですよ。しっかりお名前を覚えてくださいね。じゃあ……出席番号1番のあまがせくんから、はいどうぞ」 「あ、あまがせ、し……じゃ、なくて……あまがせあずさです」 「なんでー? なんで自分の名前、間違えちゃったのー? だせー!」 後ろの方の席から飛んできた誰かの声に教室のあちこちからだっせー、という笑い声が起こり、担任の先生がこら、ちゃんとお話を聞きなさい、と困ったようにクラスを鎮めていた。  いけない、ちゃんとしなくちゃ。お母さんとの約束なんだから。これからは、間違えちゃ、いけない。  外での僕は、天ヶ瀬梓。  最初は、自ら俺のことを栞と呼んでおきながら、外では俺に梓と名乗らせる母の言いつけのわけが、全然分からなかった。  それでも俺は少しずつ年齢を重ねるにつれ、それとなく気付き始めた。母親から呼ばれる名前とは他に“本当の名前”は別にあることが、“普通”ではないということに。  そっか、みんなはそうじゃないんだ。じゃあ、もしかしたら俺は、みんなと同じ“普通”じゃ、ないのかな。それなら、上手くやらなきゃ。普通に見えるように、俺と母さんの歪んだ親子関係を、他人の目に見せないように。  その気付きと同時に俺を苦しめたのは、家の一角に置かれた遺影の中の顔に、成長と共に日に日に似てくる俺自身の姿だった。  その夜、俺がもうとっくに眠りについたと思い込んでいる両親の会話を俺は聞いてしまった。 「母さん、いい加減そろそろ、梓のことを栞と呼ぶのはやめてやってくれないか。次の誕生日で、梓はあいつの年齢を超える。そして子供がいちばん多感な時期に入る。もうこんなやり方が限界だってこと、母さんだって本当は分かってるんじゃないのか⁉」 「じゃああなたは、梓を産んだ理由を忘れたの? あの子の……栞のことも、忘れたっていうの⁉」 物音を立てないように、しかし俺はへなへなと床にへたり込んだ。  ……ほらな。この家にあって、俺はそこにいるのにいない存在、それに他ならなかったのだ。  ……なんで今俺、こんなこと思い出した。 「……ただいまー」 リビングから灯りと、二人分の声が漏れている。 (今日は珍しく、親父もう帰ってるのか) 「あら、お帰りなさい」 「お帰り」 両親はテーブルの上の模試の結果を挟んで向かい合っていた。 「それ…… 」 「今日、郵便で届いてたのよ、医学部模試の結果。あなたは相変わらず、お母さんの思った通り、成績いいから安心だわ」 あ……なんか今……  一瞬視界がぐらついて、耳鳴りが世界を揺るがした次の刹那には、もう自分を抑えることができなくなっていた。 「……いつまで……だよ」 「え? どうしたの……」 「俺は一体いつまで、あんたらの幻想につき合えばいいんだよ!」 母の眼が戸惑いに揺れ、父が何かを悟った表情になる。テーブルの上から紙は滑り落ち、機械的に印字された偏差値や合格可能性の数字が俺たちの間を通り抜けていく。 「もし今でも、栞が死なずに生きていたとして」 ……ダメだ、冗談でも、こんなこと言っちゃ。 「栞が今の俺と同じように、勉強ができて学校ではそこそこの人気者だった保証がどこにある! もっと間抜けなのろまに成長して情けなくもいじめられてたかもしれないし、15や16にもなればぐれてあんたたちのことを泣かせていたかもしれない!」 「梓あなた何てこと言うの!」 母が悲鳴に近い声を上げて手を振り上げる。しかしその手は、俺の顔の上にくると、振り下ろされることもなくその場で動きを止めて小刻みに震えているのだった。 「……何が梓だ。今更なんだよ。いいよ、殴りたいなら殴れよ……ああ、母さんには俺が殴れないよなあ。大事な大事な、栞の生き写しの代替品だもんなあ。あんたには俺が傷付けられない。母さんには俺のことが、親の言うこともよく聞く賢くて愛らしい9歳の栞のままに見えてるんだから!」 母は言葉にならない叫び声をあげ、しかしその手はやはり振り下ろされない。 「母さん、落ち着け!」 父は俺たちの間に割って入ると、母を抑えつけて制止した。 「あんたもだよ親父。なんであの時母さんを止めなかった。止めなかったばかりか俺を作って母さんに産ませた。今ここで母さんの腕を抑えつけたところで、今更なんだよ。あんたはただの……偽善者だ」 父が言い返す言葉を失い、母の腕も、それを掴んでいた父の手も力なくだらりと下ろされると、俺は二人から一歩後ずさる。 「……だけどさ。いちばん反吐が出そうになるのが何か、あんたたちに分かるか? 栞さえいなければ、兄貴が無様な死を遂げなければ、そう思っているのに……栞やあんたたちのことが許せなくて、17年間で初めての激情を見せて抵抗しているのに、俺にはそれしか存在価値がない、あんたたちに押し付けられた役割の中でしか、俺は生きられないってことだよ」 追いかけてくる気力すらない両親に静かに背を向けると、俺は家を後にした。
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