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捨て台詞のようなものを吐いて出てきたが、一歩外に踏み出すと、自分のしたことが漸く恐ろしくなってとても平静を保っていられず、俺は暗い街の中を全力で駆け出した。どこへ向かうとか、何も考えず、ただ走った。
……行き先を考えていたわけではないはずなのに、無意識のうちに足は、そこへ向かっていた。
(来てしまった)
冷たい光の電球に縁取られた、無機質な白い壁。
インターホンを鳴らしたところで、あいつは出るのだろうか。
ピンポーン。
「……俺だ。悪い、突然」
ドアに顔を寄せて声をかけると、中で僅かにバタバタと足音がしたのち、ギイッと空いた隙間から烏丸のまんまるくみはった目がのぞいた。
「天ヶ瀬……くん?」
その顔を見た瞬間、瞳に溜めていたものが零れそうになって、俺はあいつの細い身体を強く抱き締めていた。
「天ヶ瀬くん? あの……」
「……なあ。血が繋がっているからといって、無条件に愛せるわけでは、ないよな?」
……俺は心底、自分の浅ましさに絶望している。何もかもを、与えられ過ぎている俺の姿は、こいつには残酷なはずなのに。それでも、親には感謝しなさいとか、血の繋がった家族なら分かり合えるとか、そういう概念を生まれたその時に捨て去った烏丸なら、これほどまでに冷酷に両親の元を逃げ出した俺のことを、咎めはしないこともまた、分かっているからここに来たのだ。
「……俺は、兄のことがどうしても許せない」
「……天ヶ瀬くん、お兄さん、いたの? 初めて聞いた……」
「いる。でも、会ったことはない」
「え……」
俺には栞という兄がいた。
栞は心優しく頭も良い少年で、そんな栞を母は溺愛していた。
しかし、父と母と栞、3人の平和で幸せな日常は、突然奪われた。
栞は9歳の時、交通事故で死んだ。
その後で生まれたのが俺だ。
俺が生まれてきた理由はただ一つ。
栞の身代わりとして生きること、そして9歳を超えてからは、栞の続きを生きること。
栞を失った母の心の穴は、栞の生き写しを得ることでしか埋まらなかった。
ある時点まで俺の服は全部、栞が着ていたものだった。10年も前の時代錯誤な型のランドセルは明らかに周りから浮いていた。水泳やらそろばんやら習字やら、習い事も、全部栞がやったのと同じものを習った。近所の大型犬ラッキー、怪盗何たらシリーズ、それにシチュー。栞が好きだったものを、俺も好きになった。好きという設定だった。
『俺』には、梓としての人格など最初から与えられていなかった。俺には栞であること、栞が辿る道を同じように辿ることだけが求められていた。
自分が生まれた瞬間に、いやそれよりも前から背負わされていた役割を知った俺は、その役を演じることだけで人格を形成してきた。成績優秀、品行方正は栞がそうであったから、そうであるはずだったからだ。完璧でなければいけない。誰にも文句を言わせない「いい子」であらねばならない。
医学部進学科なんてところに入学したのも、15歳の栞はそれくらい勉強ができたに違いないというのが半分と、あの時の執刀医がもう少し腕のいい医者だったら、もしかして栞は助かっていたかもしれないと、両親は思っているんじゃないかと推察したのがあとの半分だ。
努力は全部、親のため、だったかもしれない。でも、それに反発することは、自分自身のための努力などは、選択の地平になかった。
だって自分なんてもの、最初から俺には存在しないのだから。
母の栞への愛情は少し過剰だったのだろう。冷静に考えれば、死んだ子の身代わりをもう一人の子にさせるなど残酷もいいところである。しかし母はそれを実行した。そこに倫理観など存在しない。当然俺も母には溺愛されていたし、俺が母の自慢の息子だったことは間違いない。しかしその愛は全部、栞へ向くものだ。母の視線は目の前の俺に向いてはいるが、その情の本当の向かう先は実体のない兄なのだ。こんな空しいことがあるだろうか。それでも、それをよしとしなければ、俺が親の愛情を得ることは叶わないのだ。
それに、常に誰かを演じていることはある意味楽ではある。この選択は、行動は、誰かのものだって責任逃れをすることができる。
でもいつの頃からか、俺の中にある梓の部分が少しずつ、少しずつじわじわと頭をもたげてきていることを、もうどうしても否定することはできなくなっていた。それに気づかないフリをしていなければ、二つの人格はバラバラに分裂して、俺はたぶん精神的に――死ぬ。
「少しは落ち着いた?」
目の前でマグカップから立ち上る湯気がゆらゆらと揺れている。
「ごめん、こんなのしかなくて」
カップの中身を啜る俺を前に、照れ臭そうにあいつは笑っていた。温かい茶は、身体じゅうの組織に沁み入るように俺を温めて、俺は自分の血管という血管に冷気が入り込んだままになっていたことにここで気付いた。
「ごめん、俺……」
「もー、俺たち、何謝り合いっこしてんの」
烏丸はふるふると首を振りながら弱々しく笑った。
「Asをやっているのって……」
「……俺の人生には、最初から筋書きが用意されてた。はいって渡された台本から、ほんの少しだけでも逃れるために……いや、誰かに押し付けられたのとは違う、自分のための生きてる意味を、自分の手で手に入れるための、その手段は音楽だった……まあ、こんな事情があるから、顔出しは死んでもできないんだけどな。皮肉なものだよ。仮の姿であるはずのAsでいる時がいちばん、なけなしのほんとの自分ってやつでいられるんだ」
俺の向かい合わせに座った烏丸は、お茶を一口だけゆっくりと飲み下した。カップの中の小さな水面に映る瞳が僅かに揺れているのは、静かに立つ水紋のせいだろうか、それともそうではないのだろうか。数秒後、烏丸は何かを思い出したように立ち上がった。
「天ヶ瀬くん、夕飯、まだ、食べてないですよね?」
「え、ああ、うん……」
「さっき作ったから、夕飯、もしよかったら」
「いいのか? ごめん、ありがと」
「うん、でも、ひじょうに間が悪いんだけどさ」
「?」
数分の後、台所から戻って来た烏丸が持っているものを見て、俺はその言葉の意味を理解することになる。
(そういうことか……)
目の前の皿に盛られているのは、冬場の定番メニューの代表格、シチューである。
白いシチューに浮かぶ温かくて柔らかい人参やら、ブロッコリーやら。そういうものを、俺は今までうまいうまいと言って食べていたはずなのに。
「なんでだろ」
身体のどこも動かすこともなく。瞬きをすることもなく。なのにいつの間にか、表情の一つも変えないままに俺の両の眼からは涙が垂れ流しになっていた。
初めて人前で泣いた。というか、泣くなんていつぶりだろう。それすら分からない。だから、勝手に流れ続ける涙を止める術を俺は知らなかった。
「何の味も……しない」
殆ど焦点の合っていなかった視界の中で何かが動いたと思った次の瞬間、俺の身体は温かいものに包まれていた。手の中からスプーンが落ちてカタン、という音を立てた。肩の辺りの筋肉と骨に僅かな軋みを感じ、固まっていた首をゆっくりと動かして、温もりの正体を知った。
「烏丸……力、強すぎ、いたい」
言っても烏丸は俺を抱き締める力を弱めなかった。俺は、烏丸に強く、強く抱き締められているのだった。ああ。なんか……いつか俺が烏丸にしたのと、似ているな……。
「ごめんな……折角、食べさせてくれたのに。お前が作ってくれたり、お前と一緒に作るものは、何だってうまかったのに。なんでだろうな。シチューだけは……何の味もしない。ごめんな……ごめんな。俺、なんでこれが好きだって思ってたんだろう。俺本当は、食べられない、うまくない、シチュー……ごめん。ごめんな」
「いいんだよ。気にしてない。それより天ヶ瀬くんがほんのちょっとでも、自分を分かったことの方が、俺はうれしいよ。何が好きで、何が嫌いか。ちょっとずつでも、ゆっくりでも、これから、分かっていけばいい。俺も、近くで見てるから。手伝うから。だから……だから、いいんだよ。無理は、しなくても」
「うん……」
ああ。すごい、あったかい。俺は瞼の力を少し、抜いた。烏丸の心音と俺の心音が、混ざり合って、自分の呼吸がだんだんゆっくりになっていくのを感じた。
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