piece.7

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piece.7

 置かれた環境に拘わらず夢は叶う、なんて綺麗事を、とても俺の口からは言えないが、目の前に広げられた、迷いなく第三志望まで埋められた進路希望調査票を見るともなく眺めて、意識せずとも溜め息が出ていたらしい。 「……お疲れか? 生徒会長」 「っ! すみませ、大丈夫ですよ、はは……」 「まあまあ、ここでは俺以外の目はないんだし、気にするな。常に気張ってなきゃいけない立場にあっちゃ、大変だろう。貴重な寛げるチャンス、くらいに思ってもらって構わん。実際、二者面談って言ってもなあ。お前みたいな優等生には、正直俺も言うことがないからさあ」 生徒である俺の目から見ても、そんなんでいいのか、と言いたくなる態度だが、普通科と違って2クラスしかない医学部進学科で1年から持ち上がりのこの担任教師とは、まあある程度気心の知れた関係と言っていいのだろう。 「成績のことは全然心配してないけどよお、実際どうだ、生徒会長業務は。あんまり普通科の奴と関わることない閉鎖的な人間関係にいたからさ、天ヶ瀬は。その辺だけは心配だったんだよねえ」 俺の前では開くことのなかった受験情報誌の表紙を指で弄びながら、担任が尋ねる。俺はその指先に視線を落として、一呼吸おいてから答えた。 「大丈夫ですよ。俺に、すごくよくしてくれる奴も、いるんで」 「……そっ、か。なら、よかったな」 顔を上げた担任は一瞬小さく目を見開いたが、すぐにいつものけだるげな薄笑いに戻った。 「……失礼しました」 予定時間より少し早く面談を終え、教室のドアを閉めた俺の、制服のポケットが震えた。 「――!」 スマホの通知を開いた俺の目に、思いもよらない文面が飛び込んできていた。 ――春だ。 ――3学期までの厳しい冬景色が嘘のような、優しい陽の光が窓から射し込んでいた。誰もいない教室の、まだ座り慣れない新しい自分の席で、進路希望調査票に向かう。 ――それとなく横目で眺めた窓の外では、自分と同じ制服を着た無数の人影と声が揺れていた。微かな風に乗って運ばれてきた遠い喧噪が俺の耳をくすぐった。 ――教室に居残ることに特に意味はないし、別に帰ったってよかった。でもどうしてか、ここから離れがたかった。ぽかぽかと暖かい陽射しと空気に、しばし包まれていたかったのかもしれない。この時期だとまだ部活を引退していない者が大半で、放課後の教室は一人になるに丁度よい空間だった。 ――部活、か。 ――当然、俺は人生で部活に入っていたことなど一度もない。口の利けない人間にできる部活なんて、現実的には俺のいる社会にはなかった。 ――春の陽気にまどろみかけた頭に、ぼんやりとした思考が去来した。 ――俺にできることなんて、進学なり就職してやりたいほどのことなんて、何にも―― ――『3年3組6番 烏丸颯太』 ――俺が書いたのはそこまでだった。 ――別に、何度も書いては消して、書き直して、を繰り返していた、というわけではない。目の前の用紙は最初からきれいなまま、真っ白なまま。 ――第一志望から第三志望の枠の中に、書くことが何一つ思いつかないでいた。 ――何も書かれていない白紙を見れば見るほど、余計に頭が重くなって、つい、瞼がくっつきそうになる。 ―― (……まずい、さすがにこんなところでうたた寝は。今日はもう帰るか、進路希望調査は家で書こう。さすがに明日は提出しないと、まずいよな。もう2日くらい、締め切り延期してもらってるし……) ――鈍った身体を起こして立ち上がったその時、すらりと背の高い場違いな人影が、教室の入り口に現れた。 ――「あ、天ヶ瀬くん⁉」 ――「あー……やっぱりここにいた」 ――「えっと……どうした、の…… ?」 ――彼は何も言わず、スマホの画面を俺の顔の前に突き付けた。 ――「え、何々っ……! こ、これって……」 ――驚きのあまりその先の言葉を継げずにいると、天ヶ瀬くんも溜め息を吐きながら頷いた。 ――「……俺に、デビューしないかって、声を掛けてきたレコード会社がある、んだ……」 ――「じゃあ、もちろん返事は……」 ――彼は答えなかった。 ――は? 嘘だろ…… ――「まさか、断ったの⁉」 ――なんで? ふざけんなよ。 ――俺は、俺だったら、俺にできることは、歌しか、ないから―― ――君はそれが……君の歌が、必要とされたってことなんじゃ、ないのか――? ――「……返事は、まだ、してない」 ――「え……」 ――彼は俺から視線を外して、教室の窓に切り取られた小さな空を少し仰ぐようにした。春の陽が、その輪郭を曖昧にする。彼がどんな表情をしているのか、その時の俺にはよく見えなかった。 ――「……なんていうかさあ。やっぱ、無理なんじゃないかと思うんだよね。二人分の人生どっちも歩くっていうのは」 ――「あ……」 ――机の上で俺の手に握り潰された進路希望調査票がグシャッという音を立てて、夕方の静かな教室に響いた。 ――俺たちは、高校3年生になった。
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