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――夢は、叶うことの方が少ないと思う。
――何一つの後悔も未練もない道を選ぶことは、ほぼ不可能だと思う。
――そうだとしても、どうして彼の前にばかり、こうも壁が立ちはだかるのだろう。
――彼は、他の誰も持ってない、彼自身のその羽で、どこへでも飛んでいける人だと思っていた。
――ペンは止まっていた。
――筆談用の紙の上をコツコツと叩くだけのペン先を見つめている担任の眼に、ちょっとした影が差した。彼女の前に広げられた進路希望調査票は、当たり障りのない3つの大学の名前で埋められていた。
――「まあ、別にいいのよ、そんなに焦って、今すぐにちゃんと進路を決めきれなくても」
――先生の言葉に、俺は頭を小さく下げて「すみません」を伝える。
――「ただ……はっきり言って成績的にはあなたは中間層だけど、春の今の段階からここまで安全志向に志望校を設定することもないわ。ま、今はまだ、ゆっくり考えててくれればそれでいいけど、もし、もし何か本当にやりたいことが見つかったら、その時は妥協はしないこと」
――先生の言葉に俺が思わず顔を上げると、少しよれた化粧が微笑んでいた。
――結局俺たちは、色々な決断を先延ばしにしている。半分花を落とし葉に変わった桜がそれを咎めているようにも、残った半分の花がそれを許しているようにも思える。どちらにせよ桜の木は俺を見下ろして笑っている。
――ほんと、みんな桜が好きだよな。花の見頃はそう長くないし、だいいちこのピンクとも白ともつかない色からして、いかにも儚そうなのに。こうして風が吹けば、この小さな花は簡単にばらばらに壊れて飛び去ってゆくのに。世の中には、もっと派手で鮮やかな花がたくさんあるのに。それでも、人は桜に魅せられる。
――桜が咲く意味ってなんだろう。
――「ん。髪に花弁ついてたぞ」
――「わっ!!」
――突然、髪に通された指の感触に、思わず身体をびくつかせた。
――「はー……俺一応、声かけたよ? なんかお前ぼーっとしてて、俺が来たことに気付いてないんだもん」
――「天ヶ瀬くんってほんとずるい……」
――触られたところにそっと手をやると、春の陽射しのせいでなく、そこが仄かな熱を持ったように思えた。その天ヶ瀬くんは、今の俺の言動に、不思議そうな顔をしている。
――達観した大人なのか、無邪気なのか。この人は思っている以上に多くの顔を持っている、と前も言ったことがあるけれど、今となっては、それが少し違う意味をもって、胸が微かにずきりと痛む。
――さっき俺の髪に触れたその指先に、俺の指先で恐る恐る触れてみる。
――「え、何」
――「……ダメですか、手、つないじゃ」
――「はー……ずるいのはどっちだか」
――彼の大きな手は、俺と変わらないくらいおずおずと、俺の手を握ってきた。
――人通りの少ないルートを、選んで。今日は裏門から出て、帰ろう。
スーパーの袋の中を掻き回す音が、物の少ない部屋に響いている。俺も多少は、料理に慣れた。家に入り浸るのを許してくれているこいつに、甘えているのだろうか。
そういう自覚があるとはいえ、どうにも自分の家には、いづらかったりする。
あの日以来も父と母は、表面上俺に今まで通りに接している。こうして烏丸の家に寄ってなかなか帰ってこないことを、とやかく言われもしない。ありがたいと思うべきなのだろうが、それはそれで少し寂しかったりする。
俺がああまでして吐き出した心の叫びって、一体何だったのかって。
子供だな、俺。
子供の頃は、18歳ってもう少し大人だと思っていた。でもいざ18を迎えてみても、ちっとも大人なんかではなかった。これは多分、12になった時、15になった時……って、その時々、思ってきたことだ。歳だけ取っても、人は思い描いていた姿には追いつけない。大人になれない苦しみからは、俺たちはきっと一生逃れられない。
「俺がデビューの話、すぐに乗らなかったの、がっかりした?」
冷蔵庫を開けながら、背中越しに訊いてみる。互いの顔は、見えない。弱々しい返答が聞こえた気もしたが、麦茶を注ぐ音に掻き消されたし、実際、あまり返事を予想、期待もしていなかった。麦茶は夕陽を透かして透明だった。「正しい姿」であろうとすればするほど、歪んでいく俺たちを嗤うように。
「あんな、親と大喧嘩までして、って思うかもしれないけど。でも俺には、“俺”を作ってる、いくつかの自分のうちの一つを、容易く捨てることもできないんだよ」
烏丸の背中が少しだけ遠ざかった。横目で見えるそれは、テーブルに皿を並べて動いていた。
「今もまだ返事は待ってもらってるけどさ。いつまた逃すか分からないチャンスに、飛び乗らないのは馬鹿だって思われるだろうけど、でも俺、返事をする前に、考えたいことがあって」
2つのコップを持って振り向き、そこで二人の目は合った。
「boccoさんって知ってる? 」
「も、もちろん」
bocco。Asなんかが出始めるよりもずっと前から、俺たちの界隈では名前の知られていたシンガーである。その独特の歌声は「性別不明」と話題になり、特に顔バレを気にしていない本人の写真や映像を見ても、その中性的な顔立ちや髪型から結局男とも女とも分かりかねる、少々不思議な存在だ。
「俺boccoさんと知り合いなんだけど……あ、つってももちろん会ったことはないよ、ネットの仲間ってだけ」
僅かに上気した頬が、俺の言葉の続きを待っていた。
「その、boccoさんが今度やるライブに、出てみないかって誘われて……その……俺が、っていうより、俺とお前、So Asとしてってことで」
「は」
ああ時が止まった。まあ、そういう反応になるわな。
「や、え、ちょっと待って何言ってるの無理、無理無理無理!」
凍結していた時間は、顔の前で高速で振られる手と、慌てるあまり回りすぎる滑舌によって融かされた。
「だって俺、いまだに声を使って会話ができるのって、天ヶ瀬くん相手の時だけなんだよ⁉ 人前で声なんて出るわけない、歌なんて歌えるわけない! 今歌が歌えるのって、誰のことも前にしてないからでしょう! ……ていうか、俺以上に、天ヶ瀬くんの方が、困るんじゃ、ないの、こういうの」
「そう、なんだけど。ちょっと前の俺なら、こうやって迷うまでもなく、そんな話すぐ断ってたと思うんだけど……なんでだろう、断らなかったのって。なんか分かんないけど、これはまたとない機会なんじゃないかって、思ったのかもしれない。ライブに、出てみたら、答えが出せるかもしれない、先延ばしにしてる、返事の」
「……」
「それに、お前だって、分かんないよ、やってみたら、歌えるかもしれないじゃん、観客の前でも。普通の言葉では無理でも、歌っていう手段を使えば、お前もその声で、何かを人に伝えられるかもしれないじゃん。もしかして、もしかしてそれがきっかけで、治るかも、しれないじゃん……お前が、口利けないの」
「天ヶ瀬くん、そこまで……」
そこまで、考えてる。そうだよ、考えてる。考えたい、向き合いたい、決めたい。だから――
「ひとまず、boccoさんに一度会ってみようと思う。細かい色々は、それからだ」
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