piece.1

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 あれから昼休みのぼろベンチ以外でも、ちょいちょい烏丸の姿を見かけるようになった。 ……というか、俺の目が無意識のうちにあいつを探すようになった、という方が正しいかもしれないが。  あんな、とろくて要領悪そうなのに、自分が興味を持ってるなんて思いたくもなかったが、あくまでそういうわけではなくて、状況が状況だから気になってしまうのも仕方がない、と結論付けることにした。  その日の帰り道。道路を隔てた反対側の歩道に、俺は烏丸の姿を見つけた。烏丸はやはり、あのいかめしいヘッドフォンを着けて歩いている。  道行く他の生徒たちは、誰一人、俯いて歩いてなんかいなかった。隣を歩く友と顔を見合わせている。目的地の方を、前方を、しっかり見据えている。なんだかいつにも増して綺麗な今日の夕焼け空を、歩きながら時々見上げている。  それなのにあいつだけは、烏丸だけは、下を向いて、歩いていた。ヘッドフォンでこの世の全てを自分から遮断して、足元ばかり見ていた。  それがなぜだか、俺には無性に腹が立った。  あいつのプレイリストはほとんどAsの曲ばかりで埋められているって。俺にAsの話をするときみたいに、本当はあんなふうにちゃんと笑えるって。俺は知っていたから。  だから腹が立ったんだと思う。  その必要もないのに、遠回りになるだけなのに、気づいたら、俺は道路を斜め横断して、あいつがいる側の歩道に渡っていた。  小走りで、あいつに追いつく。ほんの少し、息が切れる。なんで、こいつのために俺がこんな労力使ってるんだよ。烏丸が足音に気付いて振り返るか、振り返らないかの間際、俺の手があいつのその細い腕を掴んだ。考えるより先に、身体が動いていた。 (あ、ま、が、せ、くん……⁉) またあの、声にならない口パクが、驚きに見張られた目とともに俺に向けられる。俺の自分の行動に対する戸惑いは一瞬で吹き飛んでいた。 「お前、俺の……じゃねえよ」 普段の数トーン低い俺の声が聞き取れなかったのか、烏丸がヘッドフォンを外す。 「だからあ! 俺の歌聴きながら、下向いて歩いてんじゃねえよ!!」 更に見開かれた目が、俺を見上げている。色素の薄い瞳が揺らいでいる。ヘッドフォンを外すはずみで俺からすり抜けかけていた腕を、力を強めて握り直す。 「この世の終わりみたいな顔しやがって。行かせてたまるかよ」 ぐいと烏丸の腕を引く。目の前の信号が赤に変わり、走り去る大型トラックが視界と聴覚を奪う。トラックがいなくなった後の横断歩道の向こう岸で、信号を一度見送った俺たちを不審がって通行人の一人が一瞬振り返った。 『天ヶ瀬くんが何を言っているのか……「俺の歌」ってどういう?』 おずおずと差し出された画面。俺は烏丸の腕から手を離し、はー、と溜息をついた。 「気づかなかった? 俺の名前」 『天ヶ瀬くん』 「じゃ、なくて!」 烏丸は数秒間考えていたが、ついに何かに思い当たったのか、小さく息をのんで大きな目を更にめいっぱい大きくしてもう一度俺を見上げた。 「~~♪」 囁くように歌う、1フレーズ。Asの、歌。 (う、そ……) 口パクの唇が震えている。 「天ヶ瀬、梓。Asは、俺だ」 烏丸の震えたままの唇が再び開かれた。初めて会ったあの時と同じ、大きな目に涙をためて――それが一筋、零れ落ちるその瞬間、 「あ、り、がと……」 (こいつ……今、しゃべった……⁉) 俺以上に、烏丸本人が驚いて自分の手足を確認したり、辺りを見回したりしているが、いや、お前今確かに、しゃべれてたよ……?  掠れて途切れ途切れの、しかし透き通った声が俺をかすめて、寒空に消えていく。初めて聞いた、いや、今まで誰も聞いたことのない、声。なあ、お願いだ、もう少し…… 「そんな日、どんなに夢見たって来ないって思ってた、けど……Asその人に、いつか、会えたなら……ありがとうって、伝えなきゃって……ずっと、思ってた。 ……動画や配信の、コメントなら、何度も書いたことがあるけど……俺の感謝の言葉なんて、読み切れないほどたくさん、届くうちの、一つでしかないんだって……だから……あなたがこんなに、近くにいて……直接、俺の、言葉で伝えることが許されてる、なんて……俺、も、う、うれしすぎて、どうしたらいいか……。 あなたの、あなたの歌だけなんです。あなたの歌だけが、いつも、俺の心と共に、あるんです。 ……ありが、とう……出会って、くれて、俺と」 こいつは、それはそれはゆっくりとしかしゃべれない。言葉と言葉は、ちっともすらすらとつながらなくて、息も絶え絶えになりながら、これだけのことを言うのにいったいどれだけの時間がかかったのか分からない。それでも俺は、不思議と全然苛立つことはなかったのだ。  烏丸はこんなにも、俺には身に余る言葉をかけてくれていたのだけど、俺がそれに気づくのは後になってからだ。この時の俺には、烏丸の話の内容なんて少しも入ってきていなかった。ただ彼の、方向も定まらず儚げに浮かぶ、しかし真白な羽のように軽やかにどこへでも飛んでいけそうなその声を、全身に浴びるように聴いていることの幸福と興奮で、頭がいっぱいだったのだ。 (この声……もしかしたら、いや、きっと――) だから後先も考えずに、気づいたら、烏丸の両肩を掴み、覆い被さるようにこの眼に烏丸の眼をしっかり捉えて、言葉を放っていたのだ。 「お前……俺と歌わないか⁉」
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