piece.2

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piece.2

――“俺と歌わないか” ……? ――この人はいったい何を言っているのだろう。 ――それよりも、Asが天ヶ瀬くん……?ただでさえ、俺みたいな凡俗な人間が天ヶ瀬くんみたいな学校一の有名人と関わることは絶対にないと思っていたのに、その上に、俺なんかには一生その姿を拝むことはできないだろうと思っていたAsが、天ヶ瀬くんその人だったなんて! ――いやそれ以上に、俺今、しゃべってた、よな……? ――俺にはもう一生、自分の言葉を声にのせて、誰かに伝えることなんてできないんだと、思っていた。だって、遠い遠い記憶にある中で、自分が最後に声を発したのって…… ――おかあさん、いかないで ――いや、何をぐるぐると考えたって、天ヶ瀬くんの放ったあまりに衝撃的な一言に、思考は全部引き戻される。 ――“俺と歌わないか” ……? ――何を言っているんだ、俺が歌なんて歌える人間じゃないこと、あなたは分かっているはずではないか―― 「ちょ、ちょっと、待って……天ヶ瀬くん、いったい何言って……そんな、俺、歌なんか、歌ったこともないよ!」 わかりやすく狼狽えた、というか、全然頭がついていきません、みたいな目を向けられ、勢いだけで爆弾発言を放つほど沸騰していた脳味噌が一瞬の間をおいて急速冷却されると、俺ははっとしてぱっ、と、烏丸の肩から手を離した。 「……お前、名前なんていう」 「……烏丸、です……」 「じゃ、なくて!」 「え、あ、ああ、颯太(そうた)」 「颯太……そっか、よし、なるほど」 俺は屈んでいた姿勢から背筋を伸ばすと、今度という今度は横断歩道を渡った。 「え、ちょ、それだけ⁉」 背中に烏丸の困惑の声を受ける。  おいおい、お前また信号見送る気か?  ついてくる気配もないあいつには構わず、俺の歩みは一歩ごとに速度を上げていく。  ああ。そうだ。まだ名前のないあの曲を、まずはあいつが歌うための歌詞に書き換えて……あいつと俺の声が重なったら、どんなハーモニーになるか……俺にはもう見えてるんだよ、ちゃんと。だからすぐにでも、楽譜を書き換えてパートを割り振って……それからそれから、  あの曲の、タイトルは――  溢れ出して止まらないアイデアを、少しでもこの身体から零したくなくて、最終的に俺は夕方の繁華街を風を切って駆け抜けていた。  悪いな、烏丸。俺本気だから。お前のこと逃がすつもりなんて、更々ないから。 ――で、気づいたら俺はマイクの前に立っていた。 ――「曲、できたから」と言って天ヶ瀬くんがデモ音源を渡してきたのは俺が初めて声を出して他人と会話したあの日の翌日で、そんな、昨日の今日で、光の速さで曲を持ってくるのか、と正直面食らった。 ――「曲自体は、元々作ってる途中だった曲を手直ししたものだけど、歌詞とかは書き直したんだ……なんていうか、その……お前の、ために?」 ――彼は言いながら差し出した楽譜を俺の手が掴むのを見届けるようにすると、ふいと横を向いてしまった。 ――これは……もしかして、天ヶ瀬くんが……照れてる……? ――なんかレアなところ見れたかも、と思った。誰もが完全無欠のように思っている天ヶ瀬くんは、実は勢い任せにすごいことを口走ったり、いいこと思いついた時は子供みたいに駆け出したり、それでいてこんなふうに照れた横顔を見せたりって、本当はとっても人間らしい感情の豊かな人なのかもしれない。こんな、みんなは見たことのない天ヶ瀬くんの姿、数週間前のあの偶然の出会いがなかったら、知らないまま過ごしていたのかもしれない。 ――思わず顔面の表面温度が上がった気がして、空いている方の手でそれとなく顔を覆う。ブレザーの腕に隠して薄く染まる頬に、天ヶ瀬くんはたぶん、気付いていない。 ――その日家に帰ると俺は、靴を脱ぐのももどかしく、転がり込むようにプレイヤーの前に座ると、デモ音源を再生した。三角座りの俺の耳に、その旋律とリリックが、いつになく真っ直ぐに突き刺さった。それはもはや痛いくらいで、いつしか俺は、三角座りの膝に顔を埋めていた。いつの間にか目頭から流れ出した熱い雫が、着替えないままの制服の膝を濡らしていた。 ――これが、この世で一番くらいに尊敬していた人が――Asが、俺のために作った歌…… 。 ――歌に込められた想いはあまりの熱量と質量を持って押し寄せてきたので、その時の俺には正直――受け止めきれなかったのだ。 ――俺に、この歌が歌えるのだろうか。 ――両手をめいっぱいに広げても抱えきれない。 ――やっぱり、俺には、歌えない。
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