piece.2

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 じゃあまずはお前のソロのパートから録るから、と言ってマイクの前に立たせたはいいが、烏丸は俯いたまま――あの日のように下を向いたまま立ち尽くしている。 「あの、天ヶ瀬、くん、俺、やっぱり……ひゃうぅ⁉」 俺は烏丸の顎に手をかけて上を向かせていた。泡を食ったように見開かれた眼は、普段の表情に似合わず明るい色をしていて、一瞬見惚れそうになる。  あー、俺はまた、考えるより先に身体が動いて、ほんと、こいつといると調子狂う。けど。お前に、自分で、気づいてほしいんだよ。お前自身の可能性に。 「まーたお前はそうやって。下ばっかり向いてるのがよくない癖だよ」 「あ、あの……」 「……お前には、歌を歌うことなんて初めてだろう。でもさ、俺も初めてなんだよ。誰かのために、歌を作るなんてさ。だから、不安になったり緊張してるのは、俺だってそうだ。俺の初めてをくれてやったんだぞ、名誉に思えよ」 「天ヶ瀬くん、な、なんで、俺、なんかに……」 言いかけた唇を人差し指でなぞって遮り、その指を今度は自分の唇にあてがってシーッのジェスチャーを作る。あっけに取られて俺の顔を見ている烏丸にニヤリと口角を上げた笑みを向けると、奴の背中をとん、と叩いて再びマイクに向かせる。  ……俺も俺で、俺なりの強がりを演じている。  烏丸が小さく頷いて口を開き、すうっと息を吸った――。  次の瞬間、安い防音練習室の狭い空間の空気にのったその歌声は、俺の心臓を直接素手でひっつかんで、そのままビリビリと痺れるように震わせた。 (ああ。やっぱり、お前の歌声は、俺の思ったとおり……いや、それ以上だよ……) 油断したら、膝から崩れ落ちそうで、表情を変えないまま、目ん玉だけが淡々と涙を流し始めそうで、俺は額にうっすら汗を浮かべながら、倒されないように足に力を入れて立っているのだった。  初めてお前の声を聞いた時、それはどこへでも自由に飛んでいけそうな羽のような声だと思った。けどさ、お前いったいどこまで、俺を連れて行ってくれようとしてるんだよ……!  最後のフレーズが終わる。 「お疲れ」 俺はヘッドフォンを外しながら、ただ一言だけ声をかけた。その一言に、名前の付けられるもの、付けられないもの、いくつの感想や感情が含まれているかに、烏丸はたぶん、気付いていない。 ――「別録りにしてもいいんだけど、折角だから二人のところは二人一緒に録るか」 ――提案は突然で、展開は急激だった。 ――「いやあ前に使ってた方のマイクも持って来ておいてよかったよ」とか何とか言いながら、気が付いたら、天ヶ瀬くん、いや、若き天才歌手・Asは俺と並んでマイクの前に立っている。 ――なんという状況なのだ。 ――俺が、かえって緊張してしまうからやめようと言いかけた呟きは、すぐ隣で音合わせやら俺には見てもよく分からない録音ソフトの準備やらをしている真剣でそれでいてキラキラした眼、見れば見るほど整った横顔に、つい呑み込んでしまった。 ――しかし緊張してしまうというのは杞憂だった。さっきまでの一人で歌っている時とはまた違った感覚が、波になって俺の中に押し寄せていた。よく考えてもみろ、ずっと憧れていた人と、デュエットで今歌っているんだぞ、終始、夢を見ているようだったのは事実なのだが、同時に案外冷静な自分も、二人の斜め上の上空辺りから、自分たちのことを俯瞰してもいた。二人の声質は近いとはいえない。しかしそれがかえって、互いの声を強調することになっていた。技術で劣る俺が歌いやすいようにそれとなく導いてくれる声は、しかし手加減しているというわけではない。音楽の中で、彼というなれば対等になれたことが、きっと嬉しかったんだ。 ――たぶん、俺がこんなに感動したのって、これまで誰にも、真に対等な存在として、本当に人間らしく向き合ってもらったことがなかったからだろう。親切にしてくれた人はたくさんいる。でもそれは、彼らの心のどこかに同情みたいなものが入っていたからだろう。俺のことが、助けてあげなきゃ、守ってあげなきゃいけない存在に映っていたからだろう。それはとても、俺が文句を言っていいことではない。 ――それに俺の方も、誰からも意識的にか、無意識のうちにか、見えない距離をとってしまっていた。いつの間にか、何かの境界線を引かずに人と関わる術を忘れていた。 ――たぶんそれが、手放しで人を信頼することができなくなっていた俺が、自分を守るための方法だったから。 ――そんな時に動画サイトで偶々聴いたAsの歌が、以来唯一、俺とずっと一緒にいてくれる存在になった。いってみれば俺が一人で生きていくためのツールだったのだ。 ――しかし今その同じAsの歌が、それだけではない世界へと、俺を引き揚げてくれる大きな手になった。 ――自分には、できることは何もないと思っていた。だけど、今なら、見つけられるかもしれない、分かるかもしれない、俺がずっと探していたもの――。 ――録音が終わる。隣で天ヶ瀬くんが静かにヘッドフォンを外すのを見て、俺も慌ててヘッドフォンを外しにかかる。焦って余計に手元をもたもたさせている俺のことを待ってくれてから、彼が話し始める。 ――「お前、なんで自分なのかって聞いたよな」 ――俺は何も言わずに、ただ言葉の続きを待つ。 ――「……俺だってあの時、あんなこと言うつもり――正体明かすつもりなんてなかったんだ。隠れてコソコソやることでもないって思うかもしれないけど、俺にはどうしてもバレちゃいけないそれなりの理由がある。それでも、俺はお前には自分の秘密教えたこと、ましてお前を誘ったこと、俺の気持ちだと思って、受け取ってくれないか」 ――こんなこっぱずかしい台詞がよく言えたものだって、茶化す隙も与えないほどのごく真面目なトーンで言われて、やっぱり俺は何も言えなくなる。 ――俺はやっぱり、夢を見ているのだろうか。
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