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piece.3
――自分には、この世界に1ミリだって影響を与えることはできないと思っていた。でも――
――初めて二人で作った歌の動画。あれから、思い出した時にサイトをチェックしていたが、再生回数は何百回、1,000回、何千回と伸び、気が付けば万単位になっていた。
――いいねが付く、コメントが届く……初めて知った。誰かが自分の声を聞いてくれることが、自分を知ってくれることが、伝えたいことが、本当に相手に伝わることが。こんなにも胸を熱く震わせるということを。自分にも、できることがあったということを。今評価されているのはSo AsのSoとしての俺、仮の姿での俺であって、烏丸颯太、俺という人間そのものではないのかもしれない。でもこのさい、何が本当で何が虚構かなんて、実はどうでもいいんじゃないかと思えた。
――こうして俺の人生の一部は華やかな彩りを持ち始めたとはいえ、毎日の生活の大部分は今までと何ら変わりはない。日当たりの悪い部屋で申し訳程度の朝日を浴びて瞼を開け、頭をかすめるサボタージュ欲と戦いながら少しの間布団の中をごろごろうだうだして、実の詰まっていないカスカスの食パンを口に押し込む。歯を磨きながら半開きの目で鏡と、そこに映る男を眺めてその冴えなさに溜息を吐く。袖を通した制服は、この期に及んでいまだに着られている感が否めない。俺だって在学中にそれなりの体格になれると期待した入学当時の自分を殴りたい。ある程度皺は伸ばされ、ワイシャツもまぶしい白さにはしている。そういうことに気を遣うことが、自尊心を保つせめてもの手段だ。靴を履きかけて、一気に冬めいてきたここ最近の天候を思い出しマフラーをひっつかむ。ドアに手をかけて家の中を振り返れば、いつもと変わらぬあまりの殺風景さに寧ろ微笑が込み上げてくる。「いってきます」。ここには自分以外誰もいないが、一応心の中でそう念じる。
――朝の道は苦手だ。歩いている人は多いし、その上皆が早歩きだ。
――(息苦しい)
――こうも例外なく人々が早歩きをしていれば、避け切れずに互いの肩がぶつかることもある。その時は一応ぺこっと頭を下げはするが、人間の歩ける速度の限界に迫るんじゃないかという勢いで歩いている相手にそれが見えるはずもない。すみません、の一言が言えない俺は人の気分を害しているんだろう。露骨に睨まれたり、舌打ちされることもある。
――謝る意思がないわけじゃないのに。悪気があってこんななのではないのに。
――漏らしても仕方のない不満を飲み込むことには、もう慣れた。
――何も実感していなかった。こんなにもこれまでの延長の一日でしかなかったから。
――偶然といえば偶然だろう。いつもならヘッドフォンをしているところだが、外に出て案の定の冷気を肌に受け、マフラーを巻こうとヘッドフォンは外していた。
――(あ、J高)
――すれ違ったのは、近くの女子高の制服を纏った二人組。ここの女子と付き合ってるなんていったら、うちの高校じゃちょっとしたステータスになるような、そんな感じの。
――彼女たちは顔を寄せ合ってスマホの画面を見ながら何やら話している。そういえば、登校中にこうして道行く人の話し声が聞こえるのもなんだか新鮮だな、とぼんやり思う――と、そんな俺の耳を、瑞々しい少女らの声で、突き抜ける単語があった。
――「ねえねえAsの最新の投稿、聴いた⁉」
――「ね! 誰かとデュエットなんて、初めてじゃない? びっくりしちゃった!」
――「Asと一緒に歌ってるSoって人、何者なんだろう~? ネットにも全然情報出回ってないし、ゴリゴリの新人、なのかな……?」
――「ねー! でも、めっちゃ歌上手いし、いい声してない⁉ 私、好きになっちゃったな」
――「うんうん、またデュエット曲、上げてくれないかなあ」
――(ま、じか)
――マフラーを巻く手が止まるどころか、気づけば歩みまで止まっていた。人波の中立ち止まれば、数人に一回はすれ違うサラリーマンの肩があたる。今日は一段と、舌打ちの音もよく聞こえる。それにも構わずに、俺は通り過ぎて行った女子高生を振り返る。名前も知らない、よほどのことがなければこれからの人生で言葉を交わすこともない人たち。
――そんな相手に、歌は届いていた。
――自分には、この世界に1ミリだって影響を与えることはできないと思っていた。自分には、できることなど何もないと。
――でも、そうではなかった。少なくとも俺は今、あの二人の心を動かしていたのだ。この広い世界から見たら、こんなのちっとも大きな影響ではないかもしれない。俺たちの音楽が世界を少しだって変えられるかは分からないし、時代を作るなんてそんなおこがましいことはとりあえず今はできない。
――でも、たしかにこの世界には俺の居場所があって、誰かに自分のことを好きになってもらえた。
――なんだかやっと、ほんの一言だけだけど、「君はここに存在しててもいいんだよ」って、言ってもらえた気がした。
――俺の横を自転車が猛スピードで通り抜けて行って、止まっていた俺の時間は再び回り出した。そうだ、俺が立ち止まろうと、俺の周りの時間は待ってはくれないではないか。入学以来、誇れることは無遅刻無欠席だけなのに、こんなところで遅刻などしてはつまらない。俺も小走りになって通学路を急いだ。いつも遮断していた外界の物音は静かで、しかし確実に、冬の音が俺たちのもとへと迫り来ていた。
俺が心配する筋合いもないことだと、それは分かっていたのだが、烏丸のことに関しては、素直によかった、と思っていた。
あんな、ふとした拍子に、口が利けるようになったんだもんな。
いまだに口数は少ないし、しゃべる速度はゆっくりだけど。でも確実にあいつは、俺と筆談じゃなく会話できるようになっていた。
そりゃ、3組の奴らもあいつの事情を分かって接しているみたいだった。でも、それでもなお、というか、それだからこそ、あいつと皆との間にはどこか距離、というか一線があるように俺には映っていた。出会った瞬間に、正直、俺の頭のどこかを過った心配のようにイジメられることは決してないが、クラスの中で微妙に浮いている存在……いや、それこそ本当に、部外者の俺がそう簡単に判断すべきことでもないのだが。
――他人にそういう目を向けてしまうことへの、自己嫌悪も少しあった。
だからこそ、あいつがしゃべれるようになってくれたことに、多分心底から、安心したんだと思う。今度からはあいつも、みんなから、社会から、置いて行かれなくて済むようになるんだって。
でもそれって同時に、俺が烏丸のことを気に掛けることの必要性の消失でもある。
――なんだよ。俺たちの関係なんて、他人に毛が生えたようなものじゃないか。歌のためにつるんだ相手でしかない、お互いにとって。
それなのに、何だというのだろう。俺の心に重りを落とす、焦燥にも似たものは。
こんなの全然スマートじゃない。皆の尊敬の的、天ヶ瀬生徒会長に、こんな非合理的な思考は許されない。
「天ヶ瀬~、次移動教室だろ? 行くぞ」
「……そうだった……ん、行こ」
「珍しいな、天ヶ瀬がボーッとしてるなんて。大丈夫か?」
俺は、だーいじょぶだって、と笑いとばしてなんとか取り繕う。だめだ、ちゃんとしなきゃ。そう思うのに……
廊下を歩いていて“2年3組”の札が視界に入った時、どうしても意識をその教室に――その中にいるであろう一人の男に向けてしまうのだった。
そしてその時俺の目に入った光景といえば――
(は……? な、んで……?)
あいつは、あの日以前と同じように、クラスメイトと筆談でやり取りしていたのだ。
(……なんだよ。あいつ、口が利けるようになったんじゃないのかよ――⁉)
俺の中で、何かがガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。疑問、不信、怒り、悔しさ、ショック――全てがないまぜになって、俺の中に渦巻いていた。
「……おい、天ヶ瀬? まじで大丈夫か? 」
覚えず足を止めた俺を呼ぶクラスメイトの声に、意識を引き戻される。烏丸の目がこちらを向きかけて、反射的に俺は目を逸らして、それから自分が一体どこを見ていたのだか、自分でも分からなかった。
「……あー、悪い。行こう」
なんだよ。なんだよ、なんだよなんだよ―― 。
「あ、天ヶ瀬くん」
昼、裏門のベンチに向かうと、奴は何食わぬ顔で、いや寧ろ懐っこい笑みさえ浮かべながら、手を振って俺を迎えた――ちゃんと、汚れを知らないその透明な声で俺の名前を呼んで。
それが余計に着火剤となったんだろう。
なんだよ。今はちゃんと、声に出して、俺に話しかけてるじゃないかよ。
いつにない速度で彼につかつかと歩み寄る俺の乱暴な足音と、その笑ってない眼に湛えられた澱んだ色を感じ取ったのか、さっきまで間抜けに微笑んでいたあいつは固まった。だけど俺は、そんなことに構っていられなかった。このままじゃ、気が済まなかった。
「どういうことだよ⁉ お前、口が利けるようになったんじゃなかったのかよ! 」
ほとんど無意識に、俺は烏丸の肩を掴んで揺さぶっていた。驚いて俺を見上げるその目は、めいっぱいに見開かれている。いかにも気の弱そうに見える、こいつのいつもの表情。
「 ……俺見ちゃったんだよ。お前、クラスでは今まで通り、筆談、してたよな……?」
しばしの沈黙が流れて、俺の腕の中の華奢な肩は力なく落とされ、奴は自分の膝に視線を落として力なく微笑む。
「 ……ごめん。別に、騙すとか、そんなつもりじゃ、なかったんだ、けど……でも、冗談抜きで、ほんと、なんだ……天ヶ瀬くん相手じゃないと、無理だったんだ、って」
「は……? どういう、こと……」
「俺も、さ。もしかして、本当に、普通の人と、同じように、俺も、口が利けるように、なったんじゃないかって、ちょっと本気で、思ったんだ、けど……でもダメだった。やってみようとしたんだけど、クラスの人、とか、先生とか……と、話そうとしても、やっぱり、今までと何も変わらない、出したくても、声、出なくて……どういうわけか、俺も、分かんないんだ、けど、俺がこうやって普通にしゃべれるの、天ヶ瀬くんとだけ、なんだ」
なんか、頭をがーんと殴られた気分になった。
……そうか。そんなにうまくいかないのか。だけどどうして――それなら、こいつが救われる日は、いつになったら来るというのか。
「でも、どうして天ヶ瀬くん、そんな剣幕で…… 」
「別に、騙されたと思ったとか、そんな話じゃない。だって……俺は、お前が口が利けるようになってよかったって、ほんとに思ってたから。これで、お前もこれからは、少しはこの世界で生きていきやすくなるって、思ったから。なのに、なのになんでだよ、こんなの…… 」
ああ。俺今すごく、かっこ悪くて恥ずかしいことを口走ってるんじゃないのか……? くそ。いくらなんでも、勘弁してくれ……
弱々しくなる語尾を引き継いで、烏丸が小さく首を振る。再び俺を見上げてきたその眼は、さっきとは全然違う、穏やかな色を湛えていた――たぶん人の、これほど温かくて穏やかな表情を俺は見たことがないってくらい。
「それでも、いいんだよ。そんなこと言ってくれる人に、俺は、初めて会った。だから、そういう天ヶ瀬くんとだけ、で、俺は嬉しい、んだよ」
ああ。そうか。俺だけなんだ。こんな、嘘のない言葉を、直接に真っ直ぐに、この晴れた冬の日の空気のような澄んだ声で、聞けるのは。この世界でたった一人、俺だけなんだ。
そのことを、滅多なことを言うものじゃないけど――たまらないと思った、んだと思う。
烏丸の肩を掴む手の力がちょっと強くなる。ベンチに座るあいつの上に身体を屈める。俺の視線は、俺を見上げたままのあいつの顔の――その薄い唇を捉えている。
――そこではっと小さく息をのんで、我に返った。烏丸から身体を離し、肩を掴んでいた手もぱっと離す。烏丸はぽかんとして動じない、が
俺、今何しようとした――?
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