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乗り込むなり「歌舞伎町まで」と言い放ち、タクシーの後部座席に血みどろの男が崩れ落ちた。
一瞬ぎょっとしたものの、すぐに特殊メイクだとわかる。だが、ぐったりした様子は妙に本物めいていた。男は気だるげに携帯を取り出し、ぼそぼそと話し出す。
漏れ聞こえる会話から察するに、どうやら二日酔いホストのようだ。もう飲みたくねぇという呟きは悲壮感に満ちていて、運転手の橋爪は、他人事ながら同情を覚えた。
だが、「あいつ今日百は使うだろ」という声が聞こえてしまい、その同情心も霧散する。
このゾンビに百万円も払う客がいるのかと思うと、空しさを感じざるをえない。
幾度となく込み上げた「俺だって怪我さえしなければ」という繰り言を、橋爪は唇を噛んで胸にしまいこんだ。
怪我によりアメフト選手の道を絶たれ、知人の紹介でタクシー運転手へと転職した橋爪は、今の自分はまるで道路の上をぐるぐる回る独楽鼠のようだと自嘲していた。
乗客と話すのは好きだが、ただ車を走らせるだけの仕事にやりがいは感じられない。毎日毎日、同じようなことの繰り返しだ。
そんな男の私生活が充実しているはずもなく、離婚の影響もあって、すっかりくたびれた中年といった風情になってしまっている。かつては自慢だった大きな肉体は、今ではただ運転席を狭くしているだけだ。
だが、この瞬間だけは、タクシーの運転手もそう悪くないと思う。それというのも、二日酔いゾンビを目的地まで送り届けたところ、「いいよ、とっといて」と声がかかったのだ。磨き込まれた爪が光る指先には、一万円札が挟まれている。メーターは三千円強。約七千円のチップとは太っ腹だ。
どんよりと車を降りたゾンビは振り返り、気だるげな声で「はっぴーはろうぃーん」と呟くと、にたり、と笑った。
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