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「思い出した! 大工さんが作業服脱いで、タオルで汗を拭ったんだ! 逞しい肩や腕が汗で濡れて光ってて、胸もすごいむっちりしてて衝撃的だったんだよぅ! そうそう、あの体に触ってみたくて、ふらふら表に出てったんだった。そっかそっか、思い出したわ。いやぁ、すっきりしたぁ」
カブは取り戻した記憶に満足げだが、衝撃を受けたのは橋爪だった。ようやく見つけた興味の対象が、まさかマッチョ野郎だったという話か? 引きこもりが解消されるほどに触りたかったと?
がくっと力が抜け、ハンドルに突っ伏しそうになってしまう。げんなりとバックミラーを見遣れば、大発見に興奮した様子のカブが両手を前方に出してにぎにぎしていた。まるで、逞しい胸筋を揉みしだくかのように。
「男の体に触りたくてふらふら外に出て、そこで車に轢かれて死んだって? 言っちゃあなんだがそりゃかなり……」
「間抜けだね。かなり。我ながら」
橋爪がさすがに飲み込んだ言葉を、カブがきっぱりと補完した。
馬鹿馬鹿しすぎて、逆にリアルだ。お化けのふりをしようという人間は、もう少しシリアスな死因を考えるものではないだろうか。
こいつは案外本物だったりするかもなと思いつつ、
「何にしても、好きな物が見つかってよかったな」
とすっかり砕けた口調で祝福する。まぁマッチョ好きのお化けだったとしても、さして害はあるまい。
「ほんとほんと。何で忘れてたんだろう。死んだ時に頭打ったせいかなぁ」
重そうなカブ頭を傾げたが、記憶を失っていたことは大して気にしていないらしい。
「そうとわかれば、実体化してる今の内に、湯気が出そうな筋肉と触れ合いたいよね!」
と元気に拳を握った。
まぁお化けだろうが、やりたいことがあるのはいいことだ。たとえそれが特殊な性欲ゆえだったとしても。
「行き先変更っ! 筋肉へGO!」
はしゃいで号令したカブのお化けを乗せ、タクシーは都心へとUターンした。
橋爪はタクシーをコインパーキングに停め、トレーニングに励む男たちをカブに見せてやった。ガラス張りのトレーニングジムは、言ってはなんだが動物園の檻のようだ。
カブは薄着の女性の揺れる胸には見向きもせず、筋トレに励む男ばかりを熱心に眺めている。中でも、こめかみに血管を浮かべながら体を虐め抜いているゴリゴリのマッチョが好みらしい。
「う~、ごっつごつだよぉ。エロいなぁ。触りたいなぁ。あっ! 見てあの人! すっごい! でっかい! かっこいい!」
額をガラスに押し付けんばかりにして中を覗き込むその声は、羨望と欲望にまみれている。
中から見たらさぞかし怖いだろう。何しろ、不気味な表情にくり抜かれたカブを被った男が、発情した様子で覗き見しているのだから。
「通報されるからほどほどにな」
そう言いながら、橋爪もカブが格好いいと言った男に目を遣った。確かに、よく鍛えられた肉体をしている。
橋爪が現役の頃はあの男より逞しかったと思うが、今では完全に負けていた。相手が奇妙なカブとは言え、目の前で他の男の筋肉を褒められるのは悔しいものがある。
だが、体を鍛えるのが好きな男に共通する思いとして、筋肉への賞賛そのものには悪い気はしない。
橋爪は気付けば自分から、他にもいいジムがあるぞとカブに勧めていた。
「あー! 楽しいっ! 筋肉最高っ! 今日が人生で一番幸せっ! もう死んでるけどっ!」
ジムをはしごするタクシーの車内でも、カブは大はしゃぎだった。くり抜かれただけの表情は変わらないが、不思議と花が飛び交いそうなほどの満面の笑顔に見えて、つられて橋爪の口元も緩んでしまう。
この仕事をしていて、誰かの人生で一番幸せな日に貢献できるなんて、考えたこともなかった。
橋爪はもう、カブが何者なのかなど、とっくに気にならなくなっていた。
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