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先程までの色めいた空気は霧散してしまったが、二人して笑い合えば、車内は気まずさより気安さで満たされた。
カブは名残惜しげに橋爪の太股の筋肉を両手で撫で回しつつ、重そうな頭を左右にゆらゆら揺らす。
「あーあ、ほんと邪魔だなぁ僕のこのカブ。フェラどころかキスもできやしない」
しかし、外そうとはしないのだ。ここまできても外したくないのか、ここまでくると本当に外れないのか。
だが橋爪は、こんなに面白くて一生懸命なカブの素顔を、どうしても一目見たくなっていた。
「全くだ。俺もキスしたかったのにな」
顔が見たい気持ちが九割以上だが、本当にキスをしたい気持ちも少しはあって、橋爪が大げさに溜息をつく。
するとカブの動きがぴたりと止まった。
次の瞬間、ものすごい勢いで運転席と後部座席を隔てる強化プラスチック板にへばりつく。
「時間はっ!? 残り五分!? 嘘でしょ!?」
メーターのすぐ下の時計を確認したらしいカブは、目に見えて慌て出した。そしてカブ頭を両手で掴み、一生懸命持ち上げようとする。
「うぅっ! 痛いぃっ! 顔もげちゃうぅっ!」
腕がブルブルと震えるほどの力を籠めているのに、本当に外れないらしい。悲痛な声はとても芝居とは思えない。加えられる力に抗おうとするように、首には筋が何本も浮いている。
「やめとけ! 怪我すんぞ!」
両腕を掴み、カブの動きを力づくで封じた。
「もういいから。な、ほら、キスはまた今度な」
宥めようとしたが、掴んだカブの腕はぶるぶると震えていた。
「どうしよう……消えちゃう……もう消えちゃう……」
カブは本気で午前0時に脅えているようだった。もしかして、強烈な自己暗示なのだろうか。
橋爪はカブのことを、何か事情があって、自分がお化けだと思い込んでいるただの男だと思うようになっていた。カブ頭の生の野菜感が、被り物を強く実感させたのだ。
だが、本気で脅える相手に、馬鹿なことを言うななどとは言えない。むしろ、その脅えをこそ取り払ってやりたいと思うのが人情だ。
だから橋爪は、カブの震える体を包むように抱き締めた。
「今年は残念だったけど、理想のマッチョ探して、来年キスしてもらえよ。一年なんてあっという間だって」
ジャッコランタンの設定に合わせ、慰めるつもりで発した言葉に、カブは強く反発した。
「やだ! 僕は橋爪さんとキスしたいんだ! 橋爪さんじゃないと……嫌なんだよぉ……」
最後は完全に涙声になっている。橋爪の背に両腕を回し、力いっぱいしがみついてくる。
そして遂には
「やだよー! やだぁー! 消えたくないぃー!」
と号泣し始めた。
「大丈夫だ、消えたりしない、お前は消えたりしないから」
必死で宥めても、カブはビービー泣いて手が付けられない。
「消えるもんー! やだよぉー! キスもえっちもしたいよぉー! 橋爪さんと一緒にいたいよぉー!」
単純な願いを真っすぐ泣き叫ばれれば、くたびれた中年である橋爪の胸にも、不覚にもぐっと込み上げてくるものがあった。
細っこくて弱っちくて明るくて健気な子に、こんな風に縋られて、心を動かされない奴は男じゃないだろう。
「わかった、わかったから、な。いてやる。一緒にいてやるから」
白旗を上げ、抱きしめた薄い背をごしごし撫でる。カブに顔が隠れていては、涙を拭ってやることもできないではないか。
「えっく……うぅ……ほんと? 僕が透明になっても、ふぅっ、一緒にいてくれる?」
泣きじゃくりながら問いかけるカブに、力強く頷く。
「あぁ、いてやる。そんで、一年かけてがっつり体鍛えるから。来年のハロウィンは、隅から隅まで好きなだけ触らせてやる。だから泣くな」
そんな慰め方があるかと思うが、カブには効果があったらしい。お人よしすぎる、と呟いた声は、しゃくりあげる中にも僅かに笑みが戻っていた。
鼻をすすったカブが、瑞々しい野菜頭を橋爪の肩にうりうりと擦りつける。
「そんな約束しちゃってさ。言っとくけど、筋トレしてるとこ、ずっと見張ってるからね。サボんないでよね。あと、僕がこんなにキスしたくてもできないのに、他の奴としたりしたら呪うんだからな」
カブのお化けの呪いとは恐ろしい。酷く禁欲的な一年間になりそうだ。
「便所には入って来るなよ。後はまぁ、好きにしろ」
苦笑しつつも承諾する。なのに、橋爪の答えを聞いたカブは、喜ぶどころか身悶えるようにむせび泣いた。
「ほんと、優しいんだから……馬鹿だなぁ……。うぅ、やっぱり、消えたくない。橋爪さんと、もっと一緒にいたいよぉ……」
ちらりと時計を見遣れば、23時59分。タイムリミットまで残り一分を切った。
橋爪は、涙の味がするキスを想像した。涙や鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、嬉しそうに笑うカブの様子が思い浮かぶ。
本当の顔も知らないのに。けれど、そこにはカブの心からの笑顔があることだけは、不思議と確信がもてた。
だから、あぁ本当に、キスしてやりたい。
泣きじゃくりながらしがみ付いてくる体を引き剥がし、見つめあう。くり抜かれただけの顔が、この世の終わりかと思うほどの悲嘆に暮れて見える。
その奥の素顔にキスしてやりたくて、橋爪はそっとカブ頭を両手で掴んで持ち上げた。
すぽん
と、何の抵抗もなくカブが抜けた。
ふっ
と、胴体もカブ頭も掻き消えた。
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