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一瞬見えた黒い髪の毛の残像だけを残して、カブは跡形も無く消えてしまった。
橋爪はカブ頭を掴んだ形で固まっている自分の両手を呆然と見つめる。たった今まで泣きじゃくっていたカブが、消えてしまった。
「おい……嘘だろ……」
出て行ったはずなどないとわかっていながら、タクシーの周囲を慌てて見回す。照明に照らされた駐車場には、カブ頭はもちろん人影もない。
そんな馬鹿な。そんな、馬鹿な。
頭の中で繰り返される言葉に意味などない。あまりの衝撃に思考は停止してしまっている。だがその中に、じわりじわりと滲みだしてくる実感があった。
まさか、本当に。本物の、カブのお化け。―――ジャッコランタン。
「お前、マジかよ……。あぁ、するってーと、キスは来年までお預けか?」
突きつけられた信じがたい事実を確認するように、そこにいるはずの透明なカブに向けて、冗談めかして無理矢理言葉を押し出す。
だから言ったじゃん!と、じたばたしながら怒っている姿を思い描いて。
だが、ふと思い出す。
消える直前に、カブ頭がすぽんと抜けたことを。呪いだから外れないと言っていた、あのカブが。
気付かない内に滲み出していた嫌な汗が、つっと橋爪の背中を伝い落ちる。カブが掻き消えた瞬間と同じか、それ以上の速度で、心臓がバクバクと暴走する。
思いついてしまった可能性を、カブに聞かせたいのか聞かれたくないのかわからないほど小さな声で、ぽそりと吐き出した。
「まさか、呪いとけて天国行ったとか……言わないよな?」
そんなはずはない、と思う。出会ってからついさっきまで、天国に行けるようなきっかけはなかったはずだ。
だが、確かにカブ頭が外れた感触があったし、中に隠れていた髪の毛も一瞬見えた気がする。
「嘘だろ、おい、まさか、俺が頭外したから天国いっちまったなんて……言わないよな……? まだ未練も
山ほどあるもんな? ……なぁ!」
問いかける声は、焦りを含んで徐々に大きくなる。見えないカブが透明な声で何か答えているような気配もない。
「なぁ! ―――!」
名前を呼ぼうとして愕然とした。
「嘘だろおい……俺、お前の名前も聞いてねぇぞ」
あの、おかしなカブ頭。マッチョを見てキャッキャと喜び、橋爪の筋肉に触れて「おぉぉ」と変な声を上げ、『お野菜フェラ』に失敗して不貞腐れ、消えたくないと泣いた可愛いカブ。
あいつはさっきまで確かにここにいたはずなのに、顔も名前も知らないと気付いた途端、すさまじい勢いで印象が不確かになってくる。
カブのお化けは、本当にこのタクシーに乗っていたのだろうか。
「本当に、行っちまったのか……?」
問いかけに答える声はない。大きな塊が後悔に似た苦さを伴って、橋爪の胸をぐっとせり上がってくる。
天国に行けたなら、いいことだ。もう先の見えない孤独に苦しまずに済む。
けれど、耐え忍んだ放浪の果てが、自分とのあんな些細な時間でいいのだろうか。わかっていれば、彼にとって最後の一日になるとわかっていれば、もっとしてやれることがあったはずなのに。
「おい! ……この馬鹿っ!!」
拳を叩きつけた衝撃はシートに吸い込まれ、乾いた音を立てた。後部座席は空気もシートもひんやりとしていて、まるで今夜は一人も客を乗せていないかのようだ。
橋爪は悔しさなのか悲しさなのかわからないぐちゃぐちゃを吐き出すように咆哮すると、深くうな垂れた。
カブが座っていたシートに手をつき、そのまま長い間、うな垂れていた。
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