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雨の森の女王陛下
しとしとと雨の降る昼下がり。梅雨が来た。
吸血鬼には優しい季節と時間だ。
けれども、もうあと半月もすれば文字通り肌と肉を焼く夏が来る。短い安らぎだ。
小高い丘の上の屋敷に俺はいる。博士からの呼び出しが来たのだ。
いつもは節約のために自転車で来るのだが、あいにくのこの天気だ。バスに乗って麓まで来た。
博士が気に入っている、酷く目立ついつもの赤い服を着てきたので、周りの視線が痛かった。
往復500円。無職には大きな金額だ。とはいえ、博士は毎月5万円はくれる。そのおかげで生活費は何とかなっているのだ。
実験の被検体になっている対価にしては少ないが、そんなことを言うと、上下の唇を針と糸で縫いつけられそうなので言わない。
舗装されて時間が経ちすぎてボロボロになったアスファルトを踏みしめ歩く。行政も無能だよな。年末に綺麗な道路を掘り返してまた埋めるなら、こういう所にお金を回して欲しい。
しとしと降る雨の中、ようやく屋敷が見えてきた。
小学生の頃から慣れ親しんだ古い洋館。
あまり手入れされていない外観だが、建物の茶白とそれに絡まる蔦とがアンティークの美術品のようになっていて景観を損なっていない。いやむしろいい。
俺は屋敷の門の古いインターホンを鳴らした。
ややあって、ブツッという音と共に屋敷の中と繋がった。
「直人です」
「ああ、君か。一階の談話室に居るよ。早く来給え」
またブッッという音とともに繋がりが切れた。
俺の身長の倍もあろう大きな鉄門を開けて敷地に入る。
錆び付いたそれが出すギイィというノイズには何だかいつも圧倒される。
池の中からウシガエルが鳴く声がしていた。
水溜まりを避けながら入口まで歩を進める。
玄関にたどり着き、差していた真っ赤な蛇の目傘を閉じて傘立てに立てておく。
「ん?」
そこで違和感を感じて周囲を見回す。
何かがいつもと違っている感じがしたのだ。
そこで俺は三本の傘が、剣山のごとく傘立てに立ち並んでいることに気がついた。
(博士、また俺のことをおどかそうとしてるな)
博士は常に手を替え品を替え、俺のことを驚かそうとする。
今日も誰か先客が来ていて、俺が部屋に入った途端に後ろからぬっと現れるのだろう。こんなことが何回あっただろうか。楽しいからいいけど。
俺はそう思い、誰が来たのかを想像した。
そこに存在する傘は直人の分を除くと、二本。
何の変哲もないビニール傘と真っ黒な傘。
真っ黒な傘はたしか博士のものだったはず……。
黒い外側とは正反対に内側に雲を帯びた晴れ空がプリントされているものだ。俺には理解できないセンスだ。
なら、このビニール傘が来訪者の持ち物だろう。博士は安物が本当に嫌いな人間、いや吸血鬼である。こんな物は買わない。コンビニのビニール傘は千円近くするから安物とは言うのもどうかと思うが。
では誰だろうか?
カインは血の雨に濡れても何食わぬ顔をしているから傘はささないだろう。その血の雨は俺の血だったけれど。
他は……そうだな、従者がいる人が来たなら傘が1本なのは不自然だ。
この時点で、来訪者はアイスフラワーとケイオスの二人に絞られる。
そして、間違いなくケイオスではない。
ケイオスはなんというか、こう……もっと毒々しい傘の筈だ。バラのように棘とかついてるだろう。多分いや絶対。
ということは答えは――。
「アイスフラワーがいるのか……」
アイスフラワー。三十年前に吸血鬼になった女だ。
その名の通り、雪のように白いポニーテールの髪型で、純白の下地にに薄水色の雪結晶の模様といういかにもな服も着ている。
もちろん「十三会談」(コンベンション)のメンバーに入ったのは彼女が特殊能力を持っていたからだ。
かくいう俺も「吸血鬼に在らざるもの」(ジ・イレギュラー)と名付けられた日光耐性、耐銀性質があったから「十三会談」のメンバーとなった。
そして彼女の特殊能力は……やはり「覚めない眠り」(ウインター・インバイテーション)という氷に関する能力だった。
あー、多分いきなり部屋の中くっそ寒くするんだろうなー。
わかっていても寒いけど、知らないよりはマシだ。
木製の古びたドアを開けて、屋敷の中にお邪魔する。
玄関には靴は無い。博士の屋敷は完全に洋風なのだ。
靴の泥を落として、土足のまま談話室に向かう。
「遅かったじゃないか」
博士はアンティークのソファに足を組んで座っていた。
その手元には湯気のたったコーヒーカップとソーサーがある。
テーブルの上には何も載っていない。あくまで来客を隠す気だろう。コーヒーくらいだしてやれよ……。
「はぁ……お客さんいるんだろ。隠すなよ」
「ほぉー。よく気づいたな」
そう言って、博士は手元のコーヒーをすする。
その顔を見て確信する。
この人がビニール傘を隠すことを忘れるとは思えない。きっとあの傘は俺を試すために残したんだろう。
「で、誰だと思うんだい?」
「アイスフラワーだろ。ビニール傘があった」
「へぇ……。なるほど。では答え合わせだ」
「ぐぇっ!?」
後ろからいきなり抱きしめられた。固く俺を抱きしめる腕はやっぱり純白と水色の袖だった。
アイスフラワーはそれだけでは飽き足らず、自分の胸を背中に押し付けてきた。
が、彼女は貧乳も貧乳、なんの弾力もない。
ゴリゴリとした石臼で挽かれるような感覚に背中の肉が悲鳴をあげる。
「痛い……痛いってアイスフラワー……ああああああ!?」
後ろを振り向くと同時に悲鳴をあげてしまった 。
そこにあったのはアイスフラワーの顔なんかじゃなかった。
骸骨だ。ドクロだ。死の象徴とも呼ぶべき物が視界を覆った。
「ぷっ……くっふ、はっはっはっははは!」
唐突に幼子の笑い声が部屋の中に響いた。
「あー、おかしい。ぷっふふ。」
声のする方を見ると、ベージュのドレスを着た幼女がソファに堂々と鎮座していた。
「パトラ……。お前の仕業か……」
「なっはっは! 如何にも! クレオパトラ様であるぞ!ひれ伏すがよい!」
クレオパトラ。正確にはクレオパトラ7世。小野小町、楊貴妃と共に世界三大美人と名高い女性だ。もっとも、この世界三大美人は日本だけでしか通じないらしい。昔は違和感も何も無かったが今思えばそりゃそうだ。極東の一歌人が世界的美人として扱われるのは普通はない。
クレオパトラの最期は自分自身を蛇に噛ませての自殺だったのは有名な話だ。
しかし、噛まれたのは最期ではなく最初だった。噛ませたのは蛇ではなく吸血鬼だった……ということらしい。まあ、詳しいことは知らないのだけれど。
で、そのクレオパトラ様はソファの上で優雅にお茶を飲んでいる。
「お前、従者の人達は?」
と、骸骨に抱きしめられたままの俺が訊くと
「なーんか、そーゆー気分じゃなかったから置いてきたのだ!」
ワガママに付き合わされる従者の人達にはホントに頭が下がる。心の中で掌を合わせた。
「で、この骨格模型はなんなんだ?」
と俺は言ったが、パトラは首を傾げるだけだ。
「ああ、君はパトラの能力を知らなかったね。パトラ、教えてあげて」
博士が取り次ぐと、パトラは得心したように、ああ、と呟き、尊大に応じた。
「よかろう!我が能力は「イシスの翼」!死者を呼び覚ます能力だ!それらを傀儡のように操り、戦わせるのだ!」
パトラはとても尊大に死者の尊厳を踏みにじった。
「え、じゃあ本物の死体なのか……?」
「当然だ!」
「気持ち悪っ!」
「ええっ!?」
え、そこびっくりするとこ?と思っていると
「うおーん!我が能力を馬鹿にしよった!うえーん、カエサル!ナオトが虐めるんだ!」
とパトラは言いながら、俺をがっしりと抱いたままの骨に泣きつく。てかそいつカエサルなのかよ!
博士は白衣のポケットからメモ帳とペンをとりだして、
「でもまあこれで実験はつつがなく終了だ」
「実験?」
「ビニール傘で君が誰を連想するかだよ。ホワイトフラワーだろ?」
「そうだけど……?」
「フハハハハ!!!! 今認めたな!? 安っぽいビニール傘でホワイトフラワーを想像すると!ホワイトフラワーが安っぽい人間だから! それに君はカエサルの胸と彼女の胸を勘違いしたね!! それ程までにホワイトフラワーの胸がないと思っていた! 違和感を感じなかった! 貧乳! 貧乳!」
「ちょっと待て! マジでやめろ! それ絶対ホワイトフラワーに言うなよ!俺が氷の彫像にされる! 不老なのに死ぬ!」
そんな俺の訴えもむなしく、博士は左のポケットから謎の機械を取り出した。
「フハハハハ!!!! もう遅い!バッチリと音声も録ってある!」
「なっはっは! 直人の負けだ!ひれ伏すがよい!」
「くっ……」
「まあ、私たちも吸血鬼だけど鬼じゃない。秘密にしてやってもいいぞ」
「ふふふ、ひみつひみつ!3人のひみつ!」
「嘘ついたら針千本飲ますからな……」
涙目になりながらも、それだけは釘をさす。
「で、パトラ。カエサルをどけてくれよ……」
「おお!そうだった!」
パトラが指をパチンと鳴らすと、俺にまとわりついていた骨が砂となって跡形もなく消えていく。
後に残ったのはアイスフラワーの衣服だけだ。
よくこの服、手に入ったな。珍しいデザインなのに。
「さて改めて、直人くん、新月邸にようこそ」
と博士は大仰に手を広げて言った。魔王みたいだ。
「で、こんな雨の日になんの用だよ」
「こんな雨の日だからこそなのだ!花見に行くぞ!」
「花見?」
もう桜の時期は終わっているけれども。それにこんな雨の中で?
「ああ、パトラの日本語はちょっとニュアンスが不味かったね。紫陽花だよ。庭に咲いているだろう?」
この新月邸は小高い丘の上にある。勿論、丘全体が敷地内だ。その中腹の林の中に紫陽花畑はある。
「なるほど。そういうことか。なら少し休んでから行こうか」
と言って、ソファに腰かけようとした途端、
「ダメ!今すぐ行く!お花見に行く!」
「と、女王様はおっしゃっているぞ?勿論拒否権はない」
博士はニヤリとしながら、手元のボイスレコーダーを見せびらかした。悪魔め。
そんなこんなで屋敷に置いてあった長靴を借りて外に出た。
パトラには、例のビニール傘は大きすぎるのではないかと心配したが、彼女は黄色いレインコートを博士に着せてもらっているところだった。
ゆるやかな雨が木々の葉を、楽器のように鳴らす。
生き物の声や姿はほとんどない。たまに子鳥のさえずりが聞こえる程度だ。
泥だらけの足元に気をつけながら、花畑の方に歩いていく。
しばらくすると、件の紫陽花畑が見えてきた。
そこはあまり開けていない場所で、青と赤が様々なコントラストで混じり合った花が点々として絵画のように美しかった。
「どうだい?雨の中なかなかオツなもんだろう。いや今はエモいって言うんだっけか?」
「ぬはは!エモいエモい!」
唐突にパトラはトテトテと走っていった。その後ろ姿には心配も覚えるが、同時に愛らしかった。
紫色の紫陽花の葉っぱに小さな蝸牛がゆっくりと歩いていた。
それをパトラが木の枝でつつくと、蝸牛は殻にこもってしまった。
そんな様子を遠目に二人で見ている。血のつながりはないが、なんだか遠い親戚と遊んでいるようだった。
「なあ博士」
「なんだい」
「前々から思ってたんだけどパトラって本当にクレオパトラなのか?随分歴史のイメージと違うんだけど」
歴史が正しいのなら2000年以上生きていることになる。なのにあの無邪気な態度を保っていられるのはどういうことなのか。
「彼女はね……演じているんだよ」
「演じる?他人に良く見られる為にか?」
「違う。彼女自身を騙すために演じているんだ。知っていると思うけど、クレオパトラの人生は権力闘争と謀略に満ちていた」
「それで?」
「そのままだよ。彼女はね、自分や家族を守るために手を汚さざる負えなかった。そして自分だけ生き残った末に心を壊した」
俺は黄色のレインコートを雨に濡らしてはしゃいでいるパトラを見た。その顔は邪気のない無垢そのものだった。
だけど、その裏で彼女が2000年かけても癒せない傷があるとしたら……。
そう思うと胸の奥が痛くなる。助けになりたいとはおもうけど、2000年という途方もない時間が、俺に慰めることを許そうとしない。
「そんな事言われても、俺には何も出来ないよ、博士」
俺には何もできない。吸血鬼としての能力も「十三会談」では最弱。それに今でも人間に戻りたいと思っている。血液パックだって見たくもない。そんな自分の気持ちの整理のついていない俺がパトラを助けられるはずがない。
「なあ、紫陽花の花言葉、知ってるか?」
唐突なセリフに俺は無言で首を横に振った。
「色によって色んな意味がある。青は辛抱強い愛情。ピンクは元気な女性。白は寛容」
そういって、博士は一度話を切り、こう続けた。
「でもね、多くの日本人は家族団欒を想像するらしいね」
俺にはよく分からなかった。
「永劫不朽の体を持つ吸血鬼しか彼女の友達はいない。いや、友達と言うよりは家族の方がいいか。彼女はそのくらいに君のことを思っているはずだよ。」
まだ会って半年も経ってないのに2000年も生きている彼女が?
ありえないとは言わないが、歪んではいないか。
俺は吸血鬼になってから、自分の親のことも家族とは思えないのに。
博士の言いたいことはわかる。
博士は世界を見通すような発言をするが、どこかズレていて口下手だ。
「八月にはクロスロードも『仕事』で日本(こっち)に来るらしいし、その時にまた親睦会でもやろう。」
博士はそう言って、どこか遠くを見つめるように目を細めた。
「ナオト!ミハヤ!こっちこっち!」
パトラが手招きをしながらこちらを呼んでいた。
博士はふと空を見上げる。
俺もそちらの方を見る。
ただそこには曇り空は広がり青空は見えなかった。
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