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縞 第3話
美術室に松島の姿はなかった。
代わりに描きかけの油絵が隅にある。彼が昨日まで黙々と描いていた絵だった。コンクール用の絵なのだろう。しかし、キャンバスはイーゼルごと横に倒れていた。パレットもぐしゃぐしゃになって一緒に倒れている。彼が自分で倒したのか、彼をいじめていた誰かがそうしたのか、わからなかった。私は落ちた絵の具やイーゼルを拾いあげた。
「何してんだ!」
怒号? 驚いてうしろを振り替えると、北川先生がいた。どうやら先生は私が松島の絵にいたずらしていると思っているようだ。なんだか、目が必死だ。
私が事情を説明すると、納得してくれたが「この大切な時期にあいつは何をしているんだ」とため息をつき、椅子にもたれた。私のことを疑っていたとはいえ、松島のことを心配しているとはいえ、やはり先生は美しい。それは間違いない。残念だけどその基準は私の中で変わらない。私は先生に聞く。
「どうして七月の展覧会を私に紹介したんですか」
先生はきょとんとした顔で私を見つめた。松島は、北川先生にあの犯罪者の美術展を教えたと言っていた。先生は美術部の顧問なので彼の秘密を知っているのかと思っていた。しかし、そうではなかった。
「ああ、あれは松島が教えてくれたんだけど……僕は予定があったから。彼が言う美術展だったら間違いないと思って、君に教えたんだ」
どうやらこの人は、いじめのことも松島の家庭のことも知らないらしい。もしかしたら、いじめのことは知ってはいるが美術展の内容は、私と同様知らなかっただけなのかも。これも、おまけのしおりをくれたのと同じで、おまけの情報を私に伝えたに過ぎなかったのか。
しかし、私はしおりの時のように落胆はしなかった。もう、落胆するという感情が麻痺していたのかもしれない。
先生と私は表面的すぎる薄っぺらな雑談しながら松島を待ったけど、結局その日松島は美術部に来なかった。
それから松島は、学校から姿を消した。理由はわからない。彼のロッカーに書かれた「死ね」という文字が力尽きて横たわっている。私の席からちょうど見える、それを見つめていると、どこからか松島をいじめていた生徒達がやってきて、ぼーっとしている私を取り囲む。わざわざ隣のクラスから来るなんて何て暇なやつらなのだろう。私は心の中で呆れていた。
「成沢、おまえ犯罪者が好きなのか」
「松島と一緒の部活だろ」
犯罪者が誰を指しているのかなんとなく想像はできた。どこの誰がその情報を仕入れたのか、また、その情報が正確なものなのかは、定かでは無い。彼の親が、何かしらの犯罪により服役し、それが原因で彼は転校してきた。そんな噂があるようだ。でもこれだけは言える。松島、彼は犯罪者ではない。そして、私は松島が好きな訳では無い。そしていじめをしている彼らが許せないわけでもない。私が許せないのは……―――
黙っていたら、勝手に筆箱を捕まれて窓から放り投げられた。そこに入ってたのは授業で使う筆記用具。もうどうでもよかった。青空に舞った文房具を見て思った。いじめの標的になる前、私はいじめが怖いと思ってた。でも、実際にいじめられてみると怖いというより、単なる事故の連続にすぎないと考えるようになった。
松島の描いた宇宙のように、私が誰かにいじめられることなんて、ただ細胞同士がいがみあって血流が滞ってるにすぎないくらい小さなことなんだろうな。そう思うことにした。
美術部は先生と私の二人になった。松島がやられていた内容とほぼ同じ内容でいじめられ、放課後まで過ごした後、美術部に行き、先生と二人きりの時間を過ごし、ふらふらになって家に帰るという生活を続けた。それは夏休みに突入する終業式まで続いた。
終業式が終わると、生徒はいなくなり、部活動だけの日々が始まった。私はこの時を待っていた。先生と美術室で二人きりになれる時間が山のようにあるのだ。
どこまで先生は鈍感なのか、私がいじめを受けていうことには気がつかなかった。それよりも、「松島はもう来ないのかな」「彼のイーゼルとキャンバスは、クロッキー帳と一緒にそこの棚に保管しといて」と、来ない松島の心配ばかりしていた。
しかし、日が経つにつれて先生が松島に言及することは、少しずつ減っていった。だんだんと私の作品を見てくれるようになったのだ。あくまで私ではなくて、「作品」ではあるが。
「成沢、前より構図の取り方が独特になってきた」「この技法、どこで覚えたんだ?」と、様々な質問をしてくれるようになった。私の名前をたくさん呼んでくれるようになった。私はもっといける、もっと注目してもらえると思った。だって、私は今やっと松島と同じ地点に立っている。同じようにいじめを受けて、同じ宇宙を経験することができている。そう、思いたかった。
そんな中、親の通帳から勝手にお金を引き出して画集や画材を買ったことがバレてしまった。
怒り狂う母親と、私を軽蔑の眼差しで見つめる父親。私が自分の意志で買ったと主張したのに、「沙希がそんなことするはずない」「美術部の教師に抗議してやる」と勝手に都合の良い理由をつけて憤慨しはじめた。
私の部屋に散らかった油絵の具やクロッキー帳、画集を見た父親は、「こんなもの一生懸命やってどうすんだ」「家族を心配させてまでやることなのか」と、全部ゴミ袋にいれた。
「もう絵を描くのはやめろ!」
父親はそう言って、画材が入ったゴミ袋を窓から表の田んぼに投げ捨てた。
クラスメイトに文房具を投げられた時とオーバーラップする。あれはただの文房具だからいいけど、画材は違う。先生と私をつなぐ大切な画材をゴミみたいに捨てられた!
「やめません!」
私は、たった十六年間だけど、生きてきた中で一番の大声を出した。父はさらに、夏のコンクールに向けてアイデア出しをしようとしていたクロッキー帳もとりあげようとしていたので、「やめて!」と全体重をかけて父に体当たりした。合間を見計らって、学校に電話をかけようとする母から、電話機をとりあげ、電話線を抜いた。クロッキーと電話をかかえ、部屋に鍵をかけてひきこもった。
「沙希、松島君でしょ! 彼に何か悪いこと言われたんでしょ!」
部屋の外で母が叫んでいた。父が、「もうほっといてやれ」というのが聞こえた。
家族を心配させてまでやることなのか?
そう言った父の言葉が反芻する。そうだよ。それくらい私はこの作品を完成させたいの。そうしなきゃ、意味が無いんだよ、全て。
十六歳の夏にこうして私はいろんなものを失っていった。松島は相変わらず学校に来ず、私は先生と幻のように幸せな時間を過ごすことができた。幻? そう。今考えれば、それは私が勝手に幸せと考えていただけで、先生にとってはつまらない部活動だったのかもしれない。全ては私の都合の良い妄想だったのかもしれない。
「最近、成沢いいかんじだな」
クロッキー帳にアイデアを書きながら、配色カードを見ている私の横に北川先生が迫る。
「ここは黒く縁取るのではなくて白くすれば、立体感を強調できるんじゃないかな?」
先生の右手が目の前に伸びてくる。白くて決め細やかな、ほどよく筋肉のついた腕。私の欠陥だらけのアイデアに、滑らかな曲線を足していく先生の、彫刻のように長い指、大理石のように静かに光をはなつ爪。私のためだけにこの腕は動いてるんだ。もうそれだけで心が満たされていく。
この時間がずっと続けばいいと思った。美術室の扉が永遠に開かなくなって、ずっと先生と二人きりになれればいいのにと思った。地震が起きて皆死んでしまって先生とだけ生きていけたらいいのにと思った。そうすれば、先生は誰にもとられないし、先生は誰のことも好きにならないから。
幸せな時間のはずなのに、私の心は知らず知らずの間に消耗していった。コンクールのことで終始頭がいっぱいになっていた。食事をとる時間さえ惜しいと思い、何も食べずに絵を描き続けた。夏休みが終わるのが怖かった。彼が帰ってきてしまう気がした。
夏休みが開けた。静かだった学校に生徒たちが戻り、どこにいても生徒達の声や何かしらの雑音がするようになった。彼らは変わらなかったが、私はこの夏休みで変わっていた。
夏休み明け、私は宿題を提出しなかったので、職員室に呼び出された。しかし、教師達は私の変わり果てた姿を見て、それ以上は追求せず、「言いたくないことがあったら、言わなくて良い。ちゃんと休め。もう、勉強はいいから」と私を使えなくなった筆を見るかのように適当にあしらった。今まで常に成績が上位だったから、先生達に好かれていたんだな、と思った。そう、私は大人にとって、社会にとって、ただの見てくれがいい「コマ」だったのだ。
友達は一人もいなくなっていた。教室を移動する時、いつも美也が横にいたのに。くだらないことを話してたけど、それさえもなくなった。美也は視界からわざと、私をはずすようになったのだ。そういえば秋にある体育祭のリレーも、「体調が心配だ」という理由からはずされた。誰かに「痩せた?」と言われる。なぜか家族も、必要以上に私に干渉しなくなった。人から見ると私はどんどん駄目になっていっているらしい。
私の居場所はひとつひとつ、消えていった。
私の周りにいる人達は、こんなに些細なことで私の周りから簡単に離れていってしまうんだな、と思った。まあ、私が自分で壊したんだけど……全ては作品を完成させるため。そんな理由で。
私は自分の置かれている立場を何とか正当化しようと絶望を欲していた。
しかし、ある朝。私は目覚めた時に、突如訳のわからない不安に襲われた。具体的に何が不安なのかはわからないが、このままだと自分が本当にこの世でひとりになってしまうのではないかと思った。
枕元に散乱する描きかけのアイデア。そう、あれだけ夏休みがあったのに、私は何も出来ていなかったのだ! 着色まで進んだ絵もあった。先生が手取り足取り教えてくれたのに、その翌日になると私はキャンバスを絵の具で黒く塗りつぶしてしまったのだ!
そしてまたゼロから、アイデア出しから、始める。
でも、描けない。だって、アイデアなんて、無いんだから。書きたいものなんて、無いんだから。松島と同じように苦しめば何か見いだせるかもしれないと思ったけど、違う。違うんだ。ねえ、私には何が足りないのかな?
向日葵が太陽の沈んだ方向を向いて枯れている。ずっしりと実った種の代わりに、まわりの花弁は茶色く変色している。夏が終わろうとしていた。私は西日が差し込む美術室に、一人で立ちすくんでいた。放課後で、誰もいなくて静かだった。
気がつくと、私は美術部のロッカーの前にいた。そこには、松島が置いていった道具が入っている。私の手は、自分の歯ブラシをとるかのように、自然に彼のクロッキー帳に手を伸ばしていた。周りに人がいないのをもう一度確認してから、中を見てしまった。彼のアイデアがあふれんばかりに一ページに何個ものっていた。
そのひとつひとつが、私には想像できない構図や線の描きかたをしていて、ページをもっとめくりたい、もっと見たいと思わせた。
最後に近いページに、縞模様が描いてあった。動物園で見る、シマウマの縞が濃密になったような感じ。何層にも重なる、不安定なのに完璧な曲線の群れ。見ていると吸い込まれそうになった。その絵には大きく×がつけられている。この作品は描くのをやめる、没になったアイデアなのだろうか。
私は思わず、自分のクロッキー帳を持ってきて、その縞模様を素早く描き写した。細部まできっちりと描き写した。
いったい何をしようとしているの? 没になったアイデアだから? それは松島のアイデアなのに。何度も頭の中でもう一人の自分が言ったが、無視した。完全に写し終わると、どっと疲れがでてきた。蝉がどこからか、飛んできてこつんと窓にぶつかり、死んでしまった 。私はしばらく窓についた蝉の少量の体液とちぎれた脚の一部を見ていた。この世の終わりって、こんな感じなんだろうか? とふと思った。
もう松島が来なくなって一ヶ月半が経とうとしていた。縞模様に油絵の具で色を塗る。縞模様は何層にもなっていて、それ以外は何もない。私は今まで何回も試行錯誤して試した色の重ねや筆遣いを駆使して、縞を幾重にも作っていった。それを見た先生は、成沢が「モチーフを描かないなんて珍しいな」、と感心していた。
そう、私は今までは絵の中に必ず何かモチーフがあるものを描いていたが、今回の絵は何も無い。ただ、キャンバスに筋の様な縞が幾つも広がっているだけだ。だけど、その空間を見るだけで吸い込まれていくようにしたかった。絵の具を重ねるたびに先生が誉めた。
「これならコンクールでも絶対目立つ!」
「夏休みに何度もアイデアを練り直してたけど、これが一番良い」
「構図も着色も最高だ」
今思うと、私のことを先生が心から誉めてくれたのは、あれが最初で最後だったんだな、と思う。
残暑は続く、九月の三週目に突然松島が登校した。それは誰も予想だにしないことだった 松島は大きな画板を抱えていた。それは布にくるまれて、ロッカーの横に置かれた。いつもなら誰かがその画板を取り上げたり蹴飛ばしたりするだろう。しかし、彼から発せられる言葉にしようのない暗く冷たい影に、私も含めクラスメイトは誰も近づけなかった。
まるでいつでもポケットからナイフを取り出して、皆を切り刻んで殺すのではないかというほどの殺気。不思議とその日はいつもいじってくる男子たちが私にも来なかった。移動教室が多かったのもあるし、何より私のことを松島の目の前でいじめることに、躊躇したのかもしれない。
私は彼が来たときから、画板の中身が気になってたまらない。中に入っているのは言うまでもない、きっとコンクール用の作品だ。彼は、学校に来ない間、自分の作品に集中していたのだ!
拍動が早くなった。何で戻ってくるの? あんたが戻ってこなければ、私はずっと先生といられたし、これからも先生は私のことだけを見続けてくれたのに。夏が終わってしまう。もう、そこまで終わりが来ている。私は、もうそれ以上彼を見れなかった。
美術室に行くと、北川先生が私の描いたキャンバスの前に立って、うろうろしていた。よほど私の作品が気に入っているんだろう。
しかし、残念ながらそれは私の作品ではない。泣きそうな顔をしていると、後ろに松島がいた。彼は私の絵を数秒見つめたあと、何も言わずに袋から自分が描いてきた作品を取り出した。そこには「縞」が描かれていた。私のものとは比べものにならないほど、完成された「縞」。
私はその時気づく。あの×は、没の印ではない。この作品を描くという印だったのだ。
それから後のことはよく覚えていない。ただ、私がやったこと、つまりは盗作をしたことについて、北川先生がずっと説教していた。
「成沢、おまえは人として最低なことをしたんだ。おまえがコンクールに応募する資格なんてねえよ。絵も描く資格も無い。それだけ、ひどいことをしたんだ」
ひどいのは先生じゃないですか。私がどれだけあなたのこと好きか、何も知らないでしょう? あなたの夢を見てたことも、くれたおまけのしおりをバカみたいにずっと大切にしていたことも。松島と同じになりたくてわざといじめを受けてたことも。
何も知らないくせに。あんたのせいだ、あんたのせいなんだよ。私がこんなふうになったのは。
いくら先生への思いが強くても、私がした行為でそれは帳消しになった。
「先生、もういいよ。俺は怒ってないってば」
「いいわけないだろ!」
松島が私をかばっている。
「だって成沢さん、つらそうじゃないか!」
同情された。あんな不潔でニキビ面の絵以外何をしてもてんで駄目な親が犯罪者のいじめられっ子に、同情された。そう自分が考えていると気づいたとき、私は自分が本当に汚くて、嘘だらけのくそやろうなんだと思った。
松島のポケットから何かがこぼれ落ちた。それは、マグリットのしおりだった。北川先生がどさくさに紛れて、それを踏んだことにも気がついた。赤い絵の具の足跡がついていた。もう、そこに青空は残っていなかった。
私はその日のうちに、退部届を提出した。
一人で美術室の冷たい床の上にたたずんでいる。さっきから、後ろに感じる鮮やかすぎる視線が鼻についてたまらない。振り替えると、私の盗作品が、もうコンクールにもどこにも、誰にも必要とされていない「それ」があった。
幾重にも塗り重ねられた、派手な絵の具達。嘘、嘘、嘘。それは私を軽蔑した眼差しで見つめている。だから、私も地獄を見つめる覚悟で見つめ返したんだ。もう私には、あなたしかいないのかもしれない。私が作り出した最大の虚構、私の分身。あなただけが私の真実なの?
先生が憤慨して美術室を出て行った後、松島に「成沢さんが好きだった」と告白された。私は盗作品に問いかける。
ねえ、彼は私の何を見ていたんだろうね。
あんな才能がありながら。私が先生からもらったおまけのマグリットのしおり、真似して持ってただなんて。何てバカなことをしてるんだろうね。自分の母親が描いた花の絵を、私がたまたま良いって選んだからって、何が嬉しいんだろうね。いじめを庇ってくれたって、本気で思っているなんて、どれだけ人を見抜けないんだろうね。盗作なんて思ってない、関係ないとか言っていたけど本当かな? どうして松島が私のことを好きなのかわからないよ。
「君をいじめた奴を今から懲らしめてくる」
彼は積極的に、まるでスキップをするように階段を駆け上がっていった。今までの消極的な松島は、どこかに消えていた。手には固い大きな物差しを持っていた。おそらく、彼はそれでいじめっ子達を殴りにでも行ったのだろう。そんな物差しで何ができるっていうのだろうか。美術室の天井から、さっきから生徒達の騒ぎ声が聞こえるのだ。
笑える。自分の作品を盗作した女を庇うなんて。笑えるよ。私はちっとも松島のことを好きではないけれど、さっき「ありがとう」と言ってしまったんだ。彼の好意を受け入れたんだ。また嘘をついたんだよ。だって、松島と一緒にいればまた北川先生と一緒にいられると思ったから・・・・・・。
ああ、でもそしたらきっとまた私は、おかしくなってしまって、何かをなくしたり誰かのことを傷つけたり、自分からどんどん何かが欠けていったりしてしまうのかな?
どんなに問いかけても鮮やかな縞は一言も答えてくれなかった。
ただ、静かにそこにある。確かに私の作り出した嘘は、そこに存在しているんだ。それは本当なんだ。絵は嘘をつかない。いつも本当のことを教えてくれる。報われないことも報われることも。悲しいけれど、全部、全部教えてくれる。
そして、いつまでも私のことを見ていた。
END
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