ある男に起きた不幸な取引の結末

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 ルース・ローズマリー・コールドウェル。  彼女を知る者は、皆「あの人は女傑だ。王の片腕は彼女しかいない」と言った。  ルースは小さな頃から将軍である父に連れられて王城に来て、王子の遊び相手をしたり、父の部下達と立ち回りをしていて、いわゆるお転婆だった。  ルースは将来父の片腕となり、王の盾として騎士となることを夢見ていた――。  十四歳で父が王を守り亡くなったあと、騎士団に見習いとして入った。  十八歳で叙勲された時、王の後をついだアルバート王子に命じられて近衛へ異例といっても過言ではない若さで配属されて、将軍になったのは僅か二十四歳の頃だった。  誰もが彼女の栄達を疑わなかった。 「ふふっ、ジョシュア、ジョシー……。あなたのそのぶっちょう面はいつみても楽しいわ」  王のための私的な集団は『龍の鱗』と言った。昔から王の諜報活動や暗い仕事をこなすための組織であった。現在の『龍の鱗』の総帥はジョシュアと言う名の三十歳になったばかりの男であった。 「あなたがどうしてここにいらっしゃるのですか? 主は?」  ジョシュアは、嫌そうにルースを睥睨すると王の寝台から降りもせず、自分に愛称をつけて呼ぼうとする彼女に苛立ったように声を荒げた。 「アルバートは……、お風呂よ」 「いつからこんな枕仕事まで引き受けるようになったのか聞いてみたいですね」  娼婦をみるような蔑んだ目にルースは微笑みを浮かべた。 「今日からなの。王は私に子供を産むようにいったわ」 「晴れて王妃というわけですか――。それでは私はあなたに膝をおらなくてはなりませんね」  僅かに眉を動かしただけで、ジョシュアは跪いたりしなかった。  ルースは立ち上がると羽織っていたガウンをハラリと脱ぎ捨てて「そうね。私は承諾したわ」とあられもない姿を隠しもせずに着替え始めた。 「子供を産むことだけは――」  仄かに暗い瞳は、ルースには似合わない表情だった。 「アルバート様は、いい性格だわ。時間を見計らってあなたを呼ぶなんて……」  ルースの服は騎士服だから一人で着ることが出来た。 「もう、こんなものはいらないの」  ルースはベルトに止めていた剣帯から慣れ親しんだサーベルを抜くと暖炉へと放りこんだ。 「燃えませんよ――  ジョシュアは僅かに瞬くといつもは一切変えない表情に驚きを滲ませた。 「あなたにそんな顔をさせることが出来たなら、その剣も本望だとおもうわ」  ルースは、それだけ告げると部屋を出て行った。 「マリーは?」  王は戻ってくると、寝台にいないルースの小さい頃の愛称を呼んだ。 「帰られました」 「お前を呼んだから怒ったか――。お前はどう思った?」 「悪趣味だと――。もっとたおやかな女性はいくらでもおられましょう。何もあんな……」 「あんな? あれ以外に欲しいものなどないんだ  王はずっとルースに執着していた。それこそ、何故この年まで放っておいたのか不思議に思うほどだ。ルースもう既に二十六歳で、若いとは言いがたい。 「式はいつ挙げるのですか?」  色々やらなければならないこともあるから、早く決めて欲しいとジョシュアは言った。 「……マリーも憐れなものだな。私も一緒だが――」  アルバートは、ジョシュアにはわからないことを言う。仕事において、ジョシュアほど感情を読むに長けた人物はいないのに、そのときのアルバートの気持ちだけはジョシュアにはわからなかった。 「出来るだけ早く正式な発表をお願いします」  ジョシュアがそういうと、アルバートは手を振って出て行くように指示をした。  未婚のまま生んでしまうとルースが苦労することになるとジョシュアは思ったが、口に出す事はなかった。  王の私室の夜の護衛はジョシュアが行う事になった。情事の際が一番暗殺者が狙いやすいからだ。 王は衛兵すら扉に寄せ付けなかった。女将軍を閨に連れ込むのは外聞が悪いからだろうか。 そして、ジョシュアのみが護衛部屋で聞き耳を立てなければならなかった。あまり気の進む仕事とは言い難かった。  夜半に訪れる美しい女将軍は噂にすらならない。何故なら初日以外は美しく着飾ったルースが王の間を訪れるからだ。だれもそれがルース・ローズマリー・コールドウェル女将軍だとは気が付かなかった。彼女はずっと男装をしていたし、その令嬢は可憐な姿形で化粧を施して髪を流行の形に結い上げてしまえば、変装を見抜くこともできるジョシュアですら、迷いそうになった。 「……あぁ……んんっ……あ、アルバート!」  もう嫌だ――、止めて欲しい――。彼女は啼きながら、善がりながら、王に請う。  アルバートが時折呻くのも、二人の行為で生まれる水音すらジョシュアには聞こえた。そういう風に作られた護衛のための部屋だからしかたがないのだが、ジョシュアは自分までがルースを抱いているような気持ちになるのだった。 「マリー、可愛い――。もっと啼け、俺を銜えたままイクといい」 「あああ――っ! やぁ……っアル……」  どんなに愛を囁かれても癖なのかルースは嫌だという。甘くかすれているから唯の睦言にしか聞こえないが、まるで無理やり犯されてるようだった。  王はしつこい。何度もルースを追い上げ、自身をルースの身のうちに沈め、吐き出すのだ。  ジョシュアは一月で面影が変わるほどにげっそりした。  ルースも日中は将軍として仕事をしているのだから、最近ほっそりとしてきて、城のあちこちで人気が上がっている。憂いがちな瞳が原因かもしれないが。  そんな諜報をしているわけではないが、どうしてもそういう声が聞こえてくるのだ。  もう一月になるのに、アルバートはルースを王妃として発表することはなかった。そしてルースもそれを強請ったりはしないのだ。  ジョシュアのみが、イライラとその対応の遅さにいらつくのだった。  ルースは二月目には将軍職を辞し騎士団を辞めた。突然の辞任に周りは引きとめ、彼女をいさめたが、ルースは頑固として頷く事はなかった。  やっと王の妃になるのかと安堵したジョシュアを尻目に、二人は睦み合うことはあっても結婚することはなかった。  将軍であったから、将軍様の屋敷を使っていたが、そこを引き払い、取りあえずのものだけ王の私室の続き部屋である王妃の部屋に置いてルースは、身軽なまま王に囲れた。周りを世話するのは『龍の鱗』のメンバーだから、王の部屋にだれかがいることは王宮に住むものなら感づいてはいたが、王はそれに付いて言及を許さなかった。  籠の鳥のように愛でられ、愛の言葉を囁かれ、やがてルースは女の子を産み落とした。  ジョシュアが取り上げたのだ。  アルバートもルースも産婆も医者も呼ぶつもりがなかったようで、誰も近寄れない王の私室でジョシュアが血まみれになって取り上げた猿のような女の子は『ユイ』とアルバートによって名づけられた。  人を殺すことを生業とするジョシュアが死ではなく生で血まみれになったのは初めてだった。  感動など全くなかった――。そんな暇はなかった。  憮然と産湯を使わせて、綺麗になった猿を王へと預けた。  ルースの処置は二日苦しんだ彼女が眠ってから、行った。  アルバートが恐々抱く赤子を無表情でとりあげ、眠っているルースを抱え起こし乳を含ませた。 「お前は、本当にお役立ちだな――」  感心しているのか呆れているのかわからない主の声に久々に怒鳴りつけたい気分になったが、赤子が眠ってしまったので我慢した。 「ユイ、幸せになれ。ユイは唯一のユイだ――。誰かの唯一人の女として生きて行けばいい」  ジョシュアは、アルバートの言葉に目を瞠った。 「まさか、王妃にも王女としても認知されないおつもりですか!」  ジョシュアは主に向かって手を伸ばした。首元を癖で締め付けて、思い出したかのように離した。 「良かった――。お前でもそんな顔をするのだな」  アルバート王は目元を潤ませて、そう言った。 「マリーはお前に預ける――。マリーを守れ――」  ジョシュアは意味がわからずアルバートを睨みつけた。 「それが……、マリーとの約束なんだ」  アルバートは泣いていた。ボタボタと自分のシャツに涙を吸わせて、号泣していた。  アルバートは、ジョシュアに真相を告げた。ジョシュアが唖然とするような内容だった。  ルースは、それこそ王の傍らにいた幼いころから王に請われ続けたがそれをずっと跳ね除けていた。 「だって、私はジョシュアが好きなんだもの」 「でもジョシュアは、私の龍の頭だからお前を愛してはくれないよ」  ジョシュアは、『龍の鱗』のメンバーとして影でいつもアルバートに付き従っていたから、アルバートと一緒にいたルースはいつの頃からか、ジョシュアの存在を知っていたし、将軍になった暁には正式に紹介されてもいた。  アルバートの心はルース・ローズマリーのものだったが、ルース・ローズマリーの心はジョシュアにあった。  二人の心は悲しいくらいにすれ違っていた。  だからアルバートは提案をした。 「俺の子供を身篭れば、ジョシュアをやろう。男の子なら、置いていってもらうが、女の子なら一緒に連れて行けばいい。マリーが死ぬまで守るようにジョシュアに命じてやる」  ルースは迷った。人生でこれほど迷った瞬間はなかっただろう。けれど、彼女は持ち前の豪胆さで、その提案に乗った。  その日の内に二人は結ばれた。情事の後にジョシュアを呼んでいたアルバートの意地悪に嗤うことはあっても憎むことは出来なかった。それだけ酷いことをアルバートにしているという自覚がルースにもあったからだ。  選んだのは自分だ――。 「このナイフは、王に引き継がれる魔を払うというものだ。王の証だな。女だからいらんとは思うが、もっていけ。もしかのときに証立てになるだろう」  ジョシュアは有り得ないほどうろたえた。いつもの冷静な自分は白目をむいて気絶したのだろうと思う。 「龍は? どうされるつもりですか」  ジョシュアが統べる『龍の鱗』は、小さな組織ではないのだ。 「お前の叔父が引き受ける」  自身のいないところで全てが決まっていたのかとジョシュアは自分の不甲斐なさに激しく苛立った。 「お前もマリーのことを憎からずおもっているだろう」  同じ女を好きになったのだから、アルバートにはわかっていた。  三人が三竦み状態だったのは、アルバートだから気付いたのだ。 「そんな事は――」  アルバートにいえるはずがなかった。毎日毎日人の好きな女を抱いて、それを聞かせた悪趣味な主に「ありがとう」なんて台詞は。  次の日の夜陰に紛れて、ルースとユイを連れて、ジョシュアは住み慣れた王宮を後にした。  王はその後、妃を迎えた。息子と娘を一人づつもうけて、その十六年後亡くなった。  墓場まで、『ユイ』という娘と『ルース・ローズマリー』という女について語ることもなく持っていったのだった。  ===== 「ジョンでいいか――」  己の名前が犬の名前のようで、ジョシュアは嫌だと思った。  ジョシュアがルースを連れて隠れたのは王都の下町に近い場所だった。隠れるには絶好の場所で、あらかじめルースが用意していた家から痕跡のないように三ヵ月たってから移ったのだった。 「ジョンは嫌か――?」  ルースは、ジョシュアの顔色を読むことが得意だった。 「いえ、あなたの名前は何にしますか? マリーですか?」  アルバートが呼んでいた愛称で、いやみぽいかと思ったが、ジョシュアは尋ねた。 「えっと……ローズでは駄目か?」  駄目とか上目遣いで聞かれて、ジョシュアは思わず目線を逸らした。  薔薇……、咲き誇る薔薇。彼女にぴったりだとジョシュアは思ったが、それが少し恥ずかしかったのだ。 「一つだけ聞いていいですか?」  いくつでもいいとルース改めローズが頷いた。 「あなたは王妃になりたいと思わなかったんですか? 王はあなたを愛していたし、王妃になるのに問題があるわけでもなかった」  ローズは、小首を傾げた。あれほど男勝りであったのに、母となった今、彼女は確かに女性だとジョシュアは思った。 「王妃になったら、ジョシュアを……ジョンを得られるなら考えたかもしれないな」  そんな風にローズは笑う。 「私がそんなに……」 「ああ、ジョンが好きだ――。これは思い込みだろうと散々アルバートにも言われたが、そんなことはない。私はジョンが欲しくて、この子を産んだのだよ」  だからと言って、アルバートが嫌いなわけじゃなかったけどとローズはジョンを煽った。嫉妬というものは、すべからく理性を失わせる。  隣のベビーベッドで眠る赤子は、フクフクしていて可愛らしかった。 「あなたは、私のことをそれほど知らないでしょうに」  ジョンは、ローズの唇に噛み付くように口付けて、その胸をまさぐった。 「んっ……全てを知っていたら、楽しくないだろう。知る楽しみを私は知っている」  口付けから首に舌を這わせたジョンの頭を抱いて、ローズは嬉しそうに言った。 「後悔するかもしれませんよ――」 「お前を得て、それ以上の喜びがあると思うのか?」  煽るように勝ち誇るようにローズは、ジョンを引き寄せた。 「……愛しています――」  目を伏せてジョンは、神に告白しているような厳かさでローズに告げた。 「それは知らなかったが、嬉しいっ!」  ジョンはあれほど閨で「止めて」と口にしていた彼女の制止の声を聞かないことに気付いた。 「もっと! お願い……奥まで……欲しいっ」  懇願するローズに快楽を与えながら、アルバートの下にいたとき彼女が口癖で「止めて」と言っていたわけではなかったのだと気付いた。  そう気付けば、丁寧に愛だけをもって、ローズに尽くす事が出来た。  ジョンに与えられる快感に酔いながら、ローズは余りの幸せに初めて涙を零したのだった。
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