家族になる

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家族になる

 ――祥子(しょうこ)。  ドンッ! と花火の音があたりに響き渡った。わぁっ! という歓声が周囲から湧き上がるが、祥子はそれに一切耳を傾けることなく目の前の恋人を見つめていた。社会人になってから三年ほど付き合ってきたひと。大切なひと。大好きなひと。彼は熱の篭った眼差しを向け、はっきりと言葉を紡いだ。  ――結婚しよう。  その声は次々に打ち上がる花火や歓声にかき消されることなく、祥子の耳に静かに届いたのだった。  都会ではまず見ることのできない、星屑の散りばめられた夜空が広がっていた。祥子はそれを眺めながらゆっくりと、どことも知れぬ道を進んでいく。周囲は街灯も少なく真っ暗なうえ、人通りもなかった。しかし静寂にはほど遠く、やかましいセミの鳴き声が満ち満ちており、聞いているだけでじんわりと汗が滲んでくるような気がする。  ……どれくらい歩いただろうか、突如どっと疲れが襲いかかってきて祥子は足を止めた。そのままワンピースの裾が広がらないよう無意識のうちに太ももを押さえ、その場にしゃがみ込む。小さなため息がこぼれた。 (わたし――)  瞼を閉じれば、つい先刻プロポーズをしてきた恋人の姿が浮かび上がる。花火が打ち上がる中、彼は真摯な瞳で祥子を見つめていた。その頬はわずかに上気していて、繋いだ手もかすかに震えていて――  祥子はそっと顔を覆った。 (なに、やってんだろ……)  うちの地元の花火大会に行かない? そう誘われてやって来た花火大会はとうの昔に終わっており、それどころか日付も変わっていて、小さな田舎町はひっそりと寝静まっていた。そんな時間にもかかわらず初めて来た町でひとりきりなのは、祥子が逃げ出したからだ。――プロポーズをしてくれた恋人から。返事をすることもなく、その手を振り払って。駆け出して。  はぁ、と盛大なため息がこぼれる。別に彼と結婚することが嫌なわけではない。祥子だって夫婦になれたらいいとこれまで夢想してきたし、プロポーズだって楽しみにしていた。  けれどいざ実際にプロポーズをされると現実が迫ってきて、――結婚すること自体が恐ろしくなって、思わず逃げ出してしまったのだ。 (……情けない)  目の奥がじんわりと熱を持ってきたけれど、それを必死に(こら)えた。泣きたいのはわたしではない、彼だ。逃げ出したわたしに泣く資格なんて、ない。  そう自らに言い聞かせていたものの、熱は引くことなく、むしろどんどん強くなっていって―― 「……ちょっとアンタ。邪魔なんだけど」  突如そんな野太い(・・・)声が耳朶を打った。  思わず顔を上げれば、そこには体格の良い、ド派手なメイクをした男性――いや〝オネェ〟がいた。茶色に染められた髪は胸元まであり、くるくるとカールしている。その胸は詰め物でもしているのかわずかに膨らんでいて、赤色のトップスにベージュのワイルドパンツと、秋を先取りした(よそお)いをしていた。  祥子が人生で初めてじかに見るオネェについ呆気に取られていると、彼(?)は警戒するような視線を向けてきていたが、やがてなにかに気づいたのかぎょっとしたような表情を浮かべた。「アンタ、もしかして――」  ん? と思わず首を傾げれば、「ちょっと来なさい!」とオネェに手首を掴まれた。そのまま強引に立ち上がらせられ、え、と思う間もなく手を引かれて、すぐそばにあった階段を上っていく。  周囲がどんな場所なのか把握していなかったのだが、どうやら祥子は二階建てのアパートの階段前に座り込んでいたらしい。それを上りきってもオネェは足を止めることなくずんずんと歩みを進め、やがて立ち止まったのは「206」と書かれた表札の前だった。その下には薄いマジックで「松崎(まつざき)」と書かれている。 (松崎……)  ぼんやりとそれを見ていれば、いつの間に鍵を開けたのだろうか、オネェが206号室の扉を開けた。「ほら、入んなさい」と言われ、目を白黒させながらも「お、お邪魔します……」と口にしてから中に入る。  狭い玄関だった。ひと一人が靴を脱げる程度の空間だが、入ってすぐの右手にキッチンがあるせいで余計に圧迫感を感じる。正面にある開けられた扉の隙間からは綺麗に片付いた部屋が見え、左手にある扉には「トイレ♡」と書かれた紙が貼り付けられていた。 「……ちょっと。早くしてよね」  そう家主(だと思う。鍵も開けていたし)に追い立てられ、祥子はのろのろとした動きで正面の部屋に入った。  だいたい十畳ほどの狭い部屋で、ベッドとローテーブル、あと小さなテレビくらいしかなかった。カーテンが桃色だったり至る所にぬいぐるみが置かれていたりと、全体的に可愛らしい印象を抱かせる空間だ。  そんな部屋のテーブルの上にはひとつの写真立てがあった。そこに映っているのは――  ぼうっと眺めていれば、祥子の横を颯爽とオネェが通り過ぎていった。彼は流れるような動作でパタリと写真立てを倒すと、「ここに座って」と、先ほどまでとは一変して優しい手つきで床に座らせてくる。  オネェは祥子の反対側に座って行儀悪く胡座をかき、テーブルの片隅にあった灰皿を自らの前に寄せた。どこからかライターとタバコを取り出し、カチッと音を鳴らして火をつけれる。彼はそっと目を閉じて少し吸ったあと、タバコを口から離し、ふぅ、と煙を吐き出した。白い煙がふわりと立ち(のぼ)る。  それを何度か繰り返したところで彼は瞼を上げ、「それで、」と口火を切った。 「なにがあったの? アタシで良ければ聞くけど」 「……」  祥子はそっと視線を逸らして部屋にひとつだけある窓のほうを見た。……気まずい。言ったほうが楽になるのだろうが、その言葉を素直に受け取って、見ず知らずの相手に相談を持ちかけてもいいのかと迷う。いや、名前も知らない相手だからこそ相談ができるのかも……?  ぐるぐると考え込んでいれば、はぁ、というため息が耳をついた。彼だ。 「迷うなら言いなさい。どうせこれっきりの関係なんだし」  そう言う彼の瞳には、どうしてか、わずかばかりの寂しげな色が()ぎっていて―― 「わたし、」と、知らず知らずのうちに言葉が出ていた。 「わたし、さっきプロポーズされたんです。三年間付き合ってきたひとなんですけど、とてもいい人で、彼となら結婚してもいいと思っていました。……けど、プロポーズを受けた瞬間、怖くなって逃げ出して……」  彼は煙をくゆらせながら静かに聞いている。そのことがありがたくて、つい、母にも、恋人にも吐露したことのない、ずっと秘めていた内心を口にしていた。 「うち、小学生のころに両親が離婚しているんです。どうしてかは教えてもらえてないんですけど……でもそのことがあったからか、家族って簡単に崩れちゃうものだって思ってて……。そんな家庭ばかりじゃないってわかってるんです。けど――」  言葉を探していれば、彼がぽつりと口にした。 「…………自分も壊してしまうかもって、怖いの?」 「…………はい」たっぷりと時間をかけて肯定した。「怖いんです。恋人として今までやってこれたけれど、家族になったらそうはいかないんじゃないかって……」  沈黙が部屋に満ちた。煙が静かに吐き出され、立ち上り、霧散する。  しばらくして「そう」と彼が口を開いた。「それ、完全にマリッジブルーね」  思わぬ単語に、祥子はぽかん、と口を開く。 「……いや、別にわたし、結婚を控えているわけじゃ――」 「それでもよ。アンタは……昔のことがあったから、それがひとより早く来ただけだと思うわ。立派なマリッジブルーよ」  オネェはそう言うとそっと目を伏せた。口から漏れた煙はゆっくりと拡散し、儚く消える。 「……そう、ですかね」呟くように言えば、「ええ、そうよ」と言葉が返ってきた。  マリッジブルーという〝誰にでもありうること〟だと言われて、祥子は少しだけほっとする。知らず知らずのうちに入っていた力が抜け、頬が緩んだ。  彼はタバコを口元に運び、しかし唇に触れさせることなく下ろすと、いつの間にか溜まっていた灰を灰皿に静かに落とす。  そのまま考えをまとめるかのように動きを止め、……少しして「――機能不全家族って知ってる?」と訊かれた。 「機能不全家族、ですか?」 「そう。機能不全家族。子供から見て〝正常な家族〟として機能していない家庭のことよ。たとえばDVがあるとか、愛のない家庭とか。今の世の中だと八割から九割の家庭はそうだって言われてるわ」  え、と祥子は思わず声を漏らした。「そんなになんですか?」と尋ねれば、「そうよ」と肯定の言葉が返ってくる。  彼はタバコを灰皿の(ふち)に置いたまま視線を虚空へ向けた。その横顔はどこか傷ついているような、寂しげなもので。 「でもね、それは当然なのよ。だってひとは不完全な存在なんだから。どうしたって自分本位なところが出てきちゃうだろうし、自分の子供とはいえ気持ちを完全に把握できるわけでもないもの」  そこまで言うと彼は重たそうに腕を持ち上げ、タバコを口にくわえた。二、三秒吸うと、その煙をたっぷりと吐き出す。 「だからあなたも怯えなくていいのよ。間違えるのは当然。間違えてしまったら真摯に向き合ってやり直せばいいのだから。相手も同じ人間だもの、そうすればわかってくれるはずよ。――アタシは、それができなかったけど」  意味深な言葉に首を傾げれば、彼はふっ、と笑い、語り出した。 「アタシ、これでもバツイチなんだけど、奥さんにはアタシが〝こう〟だってこと言えてなかったのよね。気持ち悪いって言われて、拒絶されるのが怖くて。……けどね、やっぱりダメなのよ。秘密を抱えているのは後ろめたくて、いつのころからかあのひとを避けるようになっちゃって――それで離婚よ。バカみたいよね。子供だっていたのに」  目を(すが)め、彼は自嘲する。〝こう〟というのはおそらくオネェであるということだろう。それを隠して、秘密を抱えて結婚し――離婚した。  どう声をかけて良いのかわからず視線をさまよわせていれば、「だからね、」と彼が先に声を発した。声に引き寄せられるようにして彼のほうを見ると、彼は優しげな、愛おしげな笑みを浮かべていて。 「アンタは幸せになりなさいよ」  祥子は夜明け前の街をひとりきりで歩いていた。山際がほんのりと赤く染まっており、夜空はつい数時間前とはまた違った美しさを見せている。  あのあとオネェは小腹のすいた祥子に簡単な料理を作ってくれたり、クレンジングを使わせてくれたりと、かなり甲斐甲斐しくしてくれた。今は別れを済ませて、うろ覚えながらも恋人の実家へ向かっている途中だ。 (それにしても――)  大きな橋を渡りながら、先ほどまでそばにいた彼のことを思い返す。祥子の旧姓と同じ「松崎」に、妻と子供がいたという彼の過去。そして極めつけはテーブルの上に飾られていた写真――正確にはそこに映っていた幼い祥子と母。  ふっ、と、祥子は思わず笑みを浮かべる。思わぬ〝再会〟だったが、彼が名乗らなかったということは知られたくないのだろう。特に母には。それならばわたしも――  祥子はゆっくりと来た道を振り返る。そこには日の出前のシンとした住宅街が広がっていたが、すでに彼の住むアパートは見えなくなっていた。  そっと唇を震わせる。 「さようなら、――お父さん」  と、そのときだった。 「祥子!」  大好きな声が聞こえてきて、祥子はバッと勢いよくそちらを向いた。橋のちょうど反対側、そこから愛しい恋人が息を切らせながら走ってきているのが見えて。 「(れん)く……」  そのまま抱きしめられた。強く、強く、まるでもう二度と離さないとでも言うかのように、力強く。  その手は、かすかに震えていた。 「よかった……」  ぽつりと落ちてきた言葉に、肩に伝わる震えに、祥子は思わず目を見開く。心配を、かけたのだろう。そのことを認識した途端どっと感情が溢れてきて、じわりと視界が滲んだ。声が震えそうになるのを必死に抑え込み、彼のシャツを握りしめ、言葉を紡ぐ。 「……ごめんね、勝手に逃げ出して」 「いや……なにか、理由があったんだろ?」 「うん」  静かに頷き、祥子は深呼吸をした。……もう、大丈夫。父が背中を押してくれたから。だから。  ――そっと唇を震わせる。脳裏に浮かぶのは、勇気を振り絞ってプロポーズをしてくれた彼。 「蓮くん、あのね――」  視界の端で太陽が昇り始めた。周囲が明るくなり、キラキラと輝く。  世界は、眩しかった。
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