あなたを歌う

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あなたを歌う

アンコールに応えてステージに上がった僕を、万雷(ばんらい)の拍手が迎えた。観客が手を叩く振動で、空気が震えているようにさえ感じた。 僕はあの日からずっと、あなたのことを歌ってきたけれど、どれもあなただけに捧げる歌ではなかった。人々が耳を傾ける歌をつくることができたのは僕自身のちからではない。 浅井(あさい)先生……あなたはこうなることを望んでいたんですね。 ステージにいる司会の女性が、僕に話しかける。 「仁科(にしな)さん、優勝おめでとうございます。それでは、歌っていただきましょう。仁科(かえで)さんで『あなたを歌う』です」 聴き慣れた前奏が流れる。僕は歌い出した。観客と、浅井先生……あなたに語りかけるように。 いつだって歌うときは、あの夕焼けを思い出す。 故郷(ふるさと)で、あなたと最後に会った日を。 「いっしょにいたい。東京についてきて」 三年前。落ち葉が舞う夕暮れどき。僕はあなたを抱きしめた。 困らせるとわかっていた。出会ったときから、あなたの左手の薬指にはプラチナのリングが輝いていた。 それでも、熱い心をぶつければあなたが築いた夫との絆は溶かせる。そう信じていた。 若さゆえに、あの頃の僕はわからなかった。ただ、感情の海に溺れているだけだった。 「仁科くん。ひとはね、幸せになれるひとといっしょになるのがいいんだよ。きみはまだ十八歳でしょ? いろんな子に出会えるよ。これから、たくさん」 「浅井先生以上の女性には、一生会えないような気がする」 「……いまの仁科くんのいちばんは私なんだね。それじゃあ、約束」 僕の背中に腕を回して、あなたは言った。 「私のことを歌って。私が、仁科くんのいちばんでいるあいだは」 授業でピアノを弾きながら歌いかけてくれるときと変わらないやわらかな声だった。 「うん、約束する」 「でもね、私そのものを歌わないで」 「……難しいな」 「仁科くんならできるよ。先生、ずっと聴いてきたからわかる。仁科くん、いつも昼休みや放課後に歌ってたよね。職員室でも話題になってたんだよ。歌をつくるために生まれて、歌うために生まれた。きみはそんな子だよ。これから、もっともっと輝く。先生が保証する」 「そういう歌ができたら、聴いてくれる? 東京に来て、聴いてくれる?」 「ううん。遠くで聴いてるね……そうしないと。だって、先生もきみのことが……」 あなたは言葉を切ると、涙をぬぐった。 「出会う順番って、自分ではわからないんだね……。私ね、もうすぐ三十二になるの……それなのに、こんなに気持ちが揺らぐなんて……。だけど、出会った意味はあったよ、私たち」 あなたは僕に頬を寄せた。 「私は、仁科楓の歌の結晶になるために生まれた。きっと、そうだったの」 ――結晶。 その意味がようやくわかった。 浅井先生。あなたを好きになって気づいた。 男も誰かを愛すれば(はら)むということを。相手から言葉と温もりを与えられ、日々思うあまり、いままでの自分にはなかった別の心が、身の内を駆け回る。 僕は慎重にその心を捕まえては、歌として世に放ってきた。 あなたを歌う。しかし、あなた自身を歌わない。この歌が、あなたのことだけを歌う歌ならば、万人には届かなかっただろう。 あなたは僕の唯一の心残りだった。あなたは、それがちゃんとわかっていた。わかっていたからこそ、涙をこらえ僕を送り出した。 あなたは僕よりも、ずっとずっとおとなだった。 東京に来てちょうど三年が経った今日。全国歌唱オーディションで優勝を飾り、CDデビューが決まった。 ここからはじまる。 やっとはじまったんだ。 あなたへの思いは尽きず、こうして歌うあいだにも、新しい歌が胸の奥底から湧き上がる。僕の身体に埋まる、あなたという結晶はいつも光り輝いている。 浅井先生。 あなたに出会えてよかった。 あなたに出会えたから、いまの僕も、いまの僕の歌も生まれた。 僕は光を孕みながら、これからも歌いつづける。 あなたへの愛を秘めたまま、あなたを歌いつづける。
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