デジャビュ

1/2
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 玄関のドアを開いたその先で夏の陽光を背に浴びながら、やあ、と彼はいつもどおりに左手をひらひらと振った。  蝉の声が降っていた。  彼のこめかみを汗が伝う。 「とりあえず中入れてくれよ。溶けるし、あちい」  彼――友人はそう言って、右手に提げていたコンビニのビニール袋を揺らした。僕はああ、うん、と適当な返事をして、ドアを開けきった側に身体を寄せて彼が通れるスペースをつくった。お邪魔しまーすと彼は弾んだ調子で挨拶し、僕の部屋に乗りこんだ。 「うわっ、暗。カーテンくらい開けろよ」  彼はわいわい騒ぎながら、僕の城を踏み荒らす。床に転がっているコンビニ弁当の容器をゴミ袋に投げ捨て、閉め切っていたカーテンを遠慮なく開けた。夏の陽射しが容赦なく床を灼く。それだけで部屋の温度が少し上がった気がする。 「冷房下げるぞ。こんな部屋いたら俺が死ぬ」 「……親に電気代払ってもらってるから」  勝手知ったるようすで僕より先に腰を下ろし、冷房のリモコンを操作した彼に小声で抗議する。追いかけた僕に振り向いて、彼は笑った。 「学生なんてそんなもんだろ」  俺も一人暮らししたいなあ、と伸びをして、彼はそのまま寝転んだ。下を向いていた僕と目が合う。  絡まる視線から逃れるように、僕は目を逸らした。 「ほい。差し入れ」  彼が起き上がりもせず横柄な態度で突き出したビニール袋の中身は、ソーダ味のアイスキャンディだった。一つのアイスに木の棒が二本ついていて、二つに割って食べるタイプだ。当然、彼は僕と半分こするつもりで買ってきたのだろう。無言で割って差し出すと、彼は背中で反動をつけて起き上がった。豹を思わせるしなやかな動き。  受け取ったアイスを舌舐めずりして堪能しながら、彼はつぶやく。 「夏って嫌いなんだよな。いちばん嫌い」  意外だったので、僕はアイスを舐めるのも忘れて、まじまじと彼を見つめた。彼が視線で何、と訊ねる。 「いや、きみは夏が好きそうだと思ってたから……」 「どんな偏見だよ」 「だって似合うもん」  どこがだよ、と彼に突き返され、僕も反射的に答えられなかったため、その議論が白熱することはなかった。しかし、Tシャツに短パンというラフな格好が見劣りせず、かつ汗をかくようすが様になっている時点で、彼は太陽の神様に愛されているとしか思えない。  ふ、と彼の漂わせる空気が一瞬やわらいだ。笑ったのだ。 「何だよ」 「いや、俺もだいぶ懐かれたなあと思って」  僕がむくれていると彼は窘めるように嬉しいんだよ、と口にした。 「最初に会ったとき、おまえ怯えて声も出なかったろう。……俺がなんとかしてやらなきゃって、マジで思ったもんな」  過去のことを引き合いに出されるとは思ってもおらず、照れくささのあまり僕の合いの手はぶっきらぼうにならざるをえなかった。彼とは数年来の付き合いだが、昔から自信家で強引で、そういうところも含めて――敵わないやつだった。  そのあとは彼中心で他愛ない話をした。僕はほとんど聞き役でたまに相槌を打ったり質問を挟んだりするだけだ。大学の講義の話、サークルの友人の話、ハマっているゲームの話。 「……そのゲームにさ、リプレイヤーっていうのがいるんだ。時間を巻き戻して人生をやり直してるんだって」  そいつがゲームの秘密を握ってるみたいなんだけど、全然心開いてくんなくてさ……彼の話は冗長な言葉たちで飾り立てられ、上の空の僕の耳をつるつると滑っていく。 「……なあ、聞いてる?」  その問いかけに我に返る。彼はすでに食べ終えていたアイスの棒を咥えたまま僕を見ていた。僕はごめんと謝ったが、彼に機嫌を損ねたようすはなかった。むしろ、僕が聞いていないことを見透かしながら、それでも風が凪いだような、優しい目をしていた。  その視線に耐えられなかったのと、話を聞いていなかった罪滅ぼしの意味も込めて、僕は興味もなかったゲームの話題を少しだけ掘り下げてやることにした。 「そもそも、なんでその……リプレイヤーってやつは人生をやり直してるんだろうね」  そこなんだよ、と彼が同意してくる。それがわからないから困ってるんだよな。まじアイツ攻略難しい。そんなことをぶつぶつ呟いたあと、彼はいたって真面目な顔で、こう続けた。 「でも、……たぶん叶えたい望みがあるんじゃないのか。それがなかなか叶わないから、叶うまで繰り返すのさ。何度でも」  ふうん、と相槌を打ったきり、会話がやんでしまった。さっきまで口が止まらないとばかりに喋り倒していたのに彼らしくもない。話題が尽きたのか?  冷房は作動しているはずなのに、体感としてはまったく利いているようには思えない暑さだ。秒針の音にタイミングを合わせるように、僕の額から汗が流れる。 「×××は、」  沈黙に耐えられなかったのは僕のほうだった。自分でも何を話そうとしているのかわからないまま、口が動くのに任せて言い放つ。 「どうして、こうやって毎日、僕に会いに来てくれるの」  蝉の鳴き声が脳内を侵食する。  ぽたり。彼の髪から汗の粒が滴った。  彼が口を開くまでの間に、僕はいったい何度瞬きをしただろう。 「おまえだって、好きでこう(ヽヽ)なってるんじゃないだろう」  彼の回答は、僕の問いの答えになっていなかった。いつものことだ。  食べかけだった僕のアイスは、先のほうがじゃっかん溶けて床に水たまりをつくっていた。そのまま放置しておけば水たまりどころか海までも形成しそうだったが、彼に指摘され残りのアイスは僕の胃袋に収められた。  べたべたの両手と口元を拭っているさなか、さっきのゲームの話だけどさ、と彼が言う。 「もし人生やり直せるとしたら、おまえはどうしたい?」  不意をつかれた問いかけに、僕は目を見開いた。彼の引き締まった眼差しが僕を捉えていた。彼の瞳に、僕の情けない姿が映っている――僕の、目の下の隈や、出っ張るあまり尖って見える喉仏や、襟ぐりの広いTシャツからのぞくいやに浮き出た鎖骨なんかが。  布団の上のクッションに無意識に手を伸ばす。 「……僕は、僕であることを、やめたい」  弱々しい口調で抱きしめたクッションの上にこぼれたのは、そんな言葉だった。  彼は特段驚きもしなかった。ただ僕の髪をかき混ぜて、寝癖混じりの頭をさらにぐしゃぐしゃにしただけだった。 「きみだったらよかった」  ぽつりとこぼすと、彼にうん? と訊き返されたので、僕は精いっぱい声を張った。 「僕の人生が、きみみたいならよかったって言ったんだ」  彼は笑った。汗の雫がきらきら舞う。 「ばかだな。俺の人生なんてそんないいもんじゃないよ」  ――そういうとこだよ、と僕は思わず詰りたくなった。そういうとこが、僕に夏が似合う人間だと評されてしまうきみの所以だよ。薄暗いところに籠っている僕とは、あまりにちがいすぎる。 「じゃあな。ちゃんと鍵かけろよ」  夕方――といってもこの季節はたいして涼しくならないが――西日が隠れて刺すような陽射しがやわらいだ隙をつくように、彼は帰っていく。僕は無言で肯くことで返事に代えた。 「あれ、玄関の二重ロックどうしたの」  彼は今初めて気がついたらしく、まじまじと玄関のドアガードを見つめている。U字部分を引っかけて止めるコブの部分が何かの衝撃で折れたのかなくなっていて、ドアガードが本来の役割を果たせない状態なのだ。 「……壊れたけど面倒くさいからそのままにしてる」 「せっかく一緒になって設置してやったのに。不用心だな。ちゃんと直しとけよ」  彼は僕のハハオヤかと思うほど口うるさく戸締まりのことを言い、いったん出て行こうとして、開けたドアをまた閉めた。そして振り向かずに、淡々とした口調で言った。 「俺は俺の都合でおまえに会いに来てるだけだから。……俺もさ、ちょっとしたゲームをしてるようなもんだ」  息を呑む。僕が固まっているあいだに、またな、と彼は告げて今度こそ出て行った。  彼がいなくなった途端に僕の城はしじまに包まれた。しかし彼がこの空間をかき乱していった余韻は今もまだ残っていて、僕を何となく落ち着かなくさせる。  今まではぐらかされていたのに、なぜ、このタイミングで、僕の問いに答える気になったのか――嬉しいのか、悲しいのか、それすらもよくわからない。わからないなりに、彼も覚悟を決めたのかもしれない、と心中を推し量った。  僕も、いいかげんに覚悟を決めないといけない。  日が落ちて、あたりは闇に包まれていく。じきに夜がやって来る。その前に――僕はドアの鍵をかけ、カーテンも閉め切った。  それは意味のない行為だと、もうずっと知っている。 ***  それは街が寝静まった頃に訪れる。玄関に近づく靴音。鍵の開く音。ドアが開いて閉まる音。床が軋む音。  布団にくるまり、端に寄って入り口側に背を向けながら、目を瞑ってそれらが聞こえないふりをする。少しでも、その瞬間が来るのを遅らせるために。 「△△」  名前を呼ばれる。布団が引き剥がされ、人一人分の重みがのしかかってくる。ねっとりと優しい声。 「今日もイイコで待てができたな。今ご褒美あげるからな」  吐息が首筋にかかって肌が粟立つ。反射的に身をよじって逃げようとすると、反感を買ったのか両手で首を押さえつけられた。ぐえ、という喉の奥から飛び出た悲鳴と、喉の肉が押し潰される感触。酸素が行き渡らないのを感じ、しだいに指一本動かすのすら億劫なほど全身から力が抜ける。  ようやく首を押さえつける力が弱まり、呼気が通ると喉がかっと熱を持つ。思わず咳き込むと、少し呼吸が楽になった。  涙のせいか、はたまた脳の酸素不足のせいか、定まらない視線で相手の顔を見た。指先が震えていた。 「父親から逃げられると思っているのか、このばか息子が」  いいようにされる自分を想像しながら、催す吐き気をじっと堪え、クッションにしがみつく。綿の柔らかい感触の奥に、それよりも硬い、芯のようなものを感じ、それがわずかな心の慰めになった。  すぐに終わるから。少しの辛抱だから。 「ようやくわかったか。――そう、それでいい。いい子だ」  抵抗しなくなった僕に、父親はヤニで黄ばんだ歯を見せて笑った。そして父親の手が、口が、僕を蹂躙する。  熱帯夜は熱がこもる。僕の全身を絡みつくよう、熱気が這う。 「やっぱりおまえは最高だよ」  僕はせめて声を出さないように、顔をしかめて口を噤んでいるしかできなかった。  気がついたときには、もう父親は部屋にいなかった。  蹌踉めく足でトイレに向かい、嘔吐する。胃の中を搾り尽くして顔を上げると、憔悴しきったようすではあるが昨日と同じ、×××の瞳に映っていたのと同じものが鏡に映し出されていた。  目の下の隈。出っ張った喉仏。浮き出た鎖骨。  そう、これが僕だ。  ――なんて、無様なんだろう。  どうしようもなく、笑いが込み上げてきた。  生きるとは、どうしたってこんな無様な姿を晒すということだ。  彼の――昨日の問いかけがリフレインする。もし人生やり直せるとしたら、おまえはどうしたい?  どうしたい、なんて、そんなもの、僕の人生には最初から、なかった。叶えたい望みだってない。  そのことが、初めて幸福なことだと――僕には思えた。 「僕は、僕であることを、やめたい」  一度目を閉じて、それから開く。鏡に映っているのは相変わらず無様な僕だ。  僕は来たときよりよほど確かな足取りでトイレを出た。僕の廃墟と化した部屋をのぞくと、カーテンに閉め切られたそこは薄闇の中に沈んでいる。  カーテンを開けた先ではもうすぐ朝が始まろうとしている。蝉たちは一斉に鳴き出す準備をはじめているのだろうか。  ゆっくりと薄闇に融けこみ、僕はベッドに近づいた。お気に入りだったクッションを手に取る。つい独り言を漏らしていた。 「これにしたのは正解だったな。誰も気づかないし、何よりベッドに持ち込んでいても変に思われない」  これ(ヽヽ)だけが、不本意な夜の僕の心のよすがだった。クッションの上からアレの輪郭をなぞり、触れて感じて、行き場のない心を慰めていた。  机をまさぐって探したカッターの刃をクッションに当て、僕はひと思いに切り裂いた。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!