一.桜

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一.桜

桜と桜の若葉を風に散らした小紋、燕が田舎町を飛ぶ様を描いた名古屋帯を一重太鼓結びに、桜色の帯あげ、帯〆。髪留めは躑躅色と赤紫色の花飾り。全身鏡でお端折りや上前、襟元を整え、その出来栄えに満足すると清花は胡桃色の小さな鞄を持って母の美千代がいる居間に向かって軽い足取りで走った。 「お母さん、どうですか? 似合います?」 源氏鼠色(げんじねずいろ)の小紋を紬を着た美千代が振り返って、まじまじと清花の格好を観察した。 「ええ、似合いますよ清花。一段と着物を着るのが上手になりましたね」 「ありがとうございます。では行ってまいります」 「行ってらっしゃい。……今日は浅野さんと目黒川に桜を観に行くんでしたね。……あまり我儘を言うんじゃありませんよ」 「言いませんっ」 清花は言い返した反動で大きな音をたてて襖を閉めた。今度の足取りは怒りと不貞腐れの気持ちで弾んでいる。 「まったくお母さんはすぐそう言うんだから……」 清花は溜め息を一つついて首を振った。玄関の引き戸を開けると青空と強めの風に乗っ て桜の花弁が一枚、二枚飛んで行くのが目に入った。飛んで行くというよりも飛ばされると言った方が正しいのかもしれないが、自然万象の行く末は皆、一緒だから飛ばされているように見えても案外桜の花弁の想定内なのではなかろうか。 「おはよう、源川さんのお嬢さん」 泉岳寺駅に向かう途中で吉田さんたちに出会った。二人とも清花と美千代の二人が住む家の近くに住んでいる。 「おはようございます。吉田さん、種田さん」 「今日は一段と美人だね。デートかい?」 ぽぽぽと頬に赤い花が咲いた。 「はい。桜を観に行きますの」 「身頃は過ぎたけどまだ残ってるからね。楽しんでね」 「はい、失礼します」 駅に向かって静かに歩く清花の後ろ姿を見て吉田さんと種田さんはほーっと溜め息をつきながら見送った。 「源川さん()のお嬢さん、高校生になってから一段と綺麗になったねぇ……着物も素敵に着こなして……」 「あれ自分でやっているんでしょう? 信じられないわぁ。でも毎日あそこの家は着物を着ているもんねぇ」 「あれだけ毎日着てもらえれば死んだ旦那さんや、先代も本望でしょう」 「そうねぇ……それに清花ちゃん、可愛いし。昔から器量が良かったけど更に可愛くなったら男の子は皆、ほっとかないでしょうに」 「もちろん清花ちゃんにはいるわよぉ、お相手! 眼鏡をかけた大学生ぐらいの! 駅でちらっと見ただけだけどその彼も素敵に着物も着こなしてねぇ〜……何処かで見たことのある顔だったけど!」
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