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泉岳寺駅から恵比寿駅に行くにはまず都営浅草線で品川駅まで出て、そこから新宿・池袋方面の山手線。品川駅はいつも老若男女、国籍問わず人でごった返しているが、その中でも清花の着物姿は一際目立つ。決まって若い男性は足を止めて横顔と後ろ姿を凝視し、海外からの旅行者は自国の言葉で賛美の言葉をかける。その顔は決まって笑顔だから悪いことを言っているのではないと分かる。後者に対しては済まないという気持ちがあるが、両方とも完全に無視を決め込み、歩を進める。早く行かないと恋人の舜一郎を待たせるからだ。舜一郎は絶対に清花よりも早い時間に待ち合わせ場所に着いている。清花がどんなに早く行っても舜一郎よりも先に着いたことはない。東京の23区外の府中からはるばる目黒やってくる舜一郎を待たせてはいけないという使命感が歩の速度を上げて行く。
清花はそっと改札口を覗き込んでまたも負けたことを悟った。鶯茶色の着物を着、デパートのショーウィンドウに寄りかかった舜一郎の姿が見えたからだ。新宿・池袋方面の山手線の電車から降りて来た乗客が上がってくる度にそうしていたのだろう。乗客の顔一人一人を望遠鏡で覗き込むようにまじまじと見つめ、違うと分かると視線を逸らした。清花は急いで改札口を抜けた。
「舜一郎さん! 遅くなってごめんなさい」
清花が名前を呼んで詫びると舜一郎が眼を細め、ふっと笑った。清花が大好きで堪らない、冷静さと優しさを兼ね備えた笑み。
「遅くはないぞ。時間ぴったりだ」
「でも舜一郎さんはいつもお早いから……」
「それは俺がそうしたいだけだ。清は何も気にしなくて良い」
清花は眼を細めて恋人を見つめた。目と目がかちんと硝子がぶつかり合うような澄んだ綺麗な音をたてる。清花を「清」と呼ぶのは舜一郎、ただ一人だ。舜一郎にだけ許された、大事な呼び名。絶対に他の人間には許さない。
「着物、よく似合っているぞ」
「ありがとうございます。舜一郎さんもとてもお似合いですわ。本当にどの色をお召しでも素敵ですわ……」
「そう言われると照れるな……ありがとう。行こう。目黒川は今年も混んでる」
清花は伸ばされた舜一郎の手をぎゅっと握った。
全長四キロメートル、約八百本の目黒川の桜。橋の袂から川を覗き込む清花は川の水を鏡に桜の絨毯とその切れ目から美しい木々の姿を垣間見、その頭上では青空を背景に花や花弁が踊り舞っていた。
「綺麗ですわね……」
溜息をつくように呟いた。
「ああ。……だが、今年も目黒川で良かったのか? 浜離宮だって良かったんだぞ」
私は首を振った。
「良いんですのよ。去年は私の受験があって来られなかったから……ぜひまた来たかったの」
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