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帰隊して報告を終えると、ヨクンに晩飯に誘われた。これはとりわけ珍しいことではなく、もはや大きな任務を終えたあとには恒例行事となっている。意外なことに、ヨクンのお誘いは外食ではなく自宅で彼の手料理を振る舞われることだった。ドルデモも断る理由がないのでだいたいいつもご相伴にあずかっている。
「独り身だとなかなか鍋ができないからな。ずっとやってみたかったんだ」
メニューの準備をしながら、ヨクンはそう言った。今日は極東にある国のおでんという料理を作るらしい。ヨクンは見た目に似合わず自炊を趣味としているようで、世界各国の料理のレシピを調べては試しているようだ。
ドルデモは隊員寮に入っているため自炊しない。本来は何か手伝うべきなのだろうが、かえって足手まといになりそうなので、お邪魔するときには部屋の片隅でおとなしくしているのが常だ。
ヨクンの家は、いつ来ても部屋がきれいな状態で維持されている。料理好きな一面を知っていたため、実は家庭的な人なのかと思ったこともあるが、改めて観察してそれはちがうと判断した。ヨクンの家には極端に物が少ないのだ。必要最低限の家具や道具しかなく、どこか人が生活している息づかいを感じない部屋だった。
引っ張り出してきたローテーブルに鍋を載せ、二人はそれを挟んで向かい合って座った。おでんをつつきながら、話は自然と共通の話題である仕事関係のものに流れていった。
「来月から、特殊狙撃部隊に異動が決まりました」
辞令はまだ出ていなかったが、二年半務めたバディであり、尊敬する先輩でもあったので、ドルデモは早々に明かすことに決めた。ヨクンはちらとドルデモの顔を見たが、たいした感慨は見せずにおでんへと視線を戻した。
「そうか。そろそろだと思っていた。おまえは優秀だから、向こうでも上手くやれるだろう」
現在、二人が配属されているのは警察組織の中の特殊部隊狙撃班である。ドルデモの異動先である特殊狙撃部隊は警察組織の中の別部隊であり、より精鋭が集まっているとされている。
「よかったじゃないか、出世コースだな」
ヨクンはにやりと笑ったが、ドルデモは表情を特に変えることなく淡々と告げた。
「おれは、どこに行ってもただ自分に任された仕事を遂行するだけです」
そこで一息吸い、ドルデモは核心に迫った。
「ヨクンはそちらに興味がおありではないのですか」
ヨクンは料理を食べる手を休め、食器がぶつかる音がやんだ。おでんに使うという極東の調味料のにおいが、ここはヨクンの部屋でないどこか別の場所を思わせた。
「……向こうへ行ったら、最新式の対物ライフルを使うことになるだろう」
最新式の対物ライフルというのは、引き金を引くだけで地上に一時的にブラックホールをつくることができるライフルのことである。
近年、宇宙研究開発機構がブラックホールの誕生における巨大エネルギーを人工的に再現することに成功し、その技術がさまざまなことに応用されはじめた。これまで問題になっていたウランをエネルギーとして利用する際に生まれる放射性廃棄物の処理に関しても、ブラックホールを一時的に発生させそこに放り込んでさえしまえば、ブラックホールが消えたあと地上への影響はまったくなくなるという解決方法が導かれ、エネルギー界に革命をもたらした。最新式の対物ライフルは、敵を撃ち抜くというより、巨大な穴を空間に出現させ、敵を呑み込み、存在自体を消すことがその用途にある。
「たしか、最新式の対物ライフルは我が国が他国やテロ組織などによって重大かつ危機的な脅威にさらされない限り使用しないと」
「それは政府見解だ。つまりは建前だな」
ドルデモがそらんじた公式見解をヨクンは一蹴した。
「それに、戦闘車両やそれに類する物に対する使用のみと発表されているが、実際には人に対しても使用されている。……公式見解とはそういうものだ」
ドルデモは反応に困って肯いた。なんとなくそんな気はしていたので、ショックは受けなかった。ただ、はっきり断言されるのと自分の中で根拠もなく思っているのでは、だいぶ心持ちがちがった。
「おまえは、今まで自分が撃ち殺した人が夢に出てきたことがあるか」
鍋からの湯気越しに見るヨクンの表情には、すべてを諦めきったような、冷めた微苦笑が浮かんでいた。
狙撃練習は数え切れないほど繰り返したが、ドルデモの本番は今まででたったの三回だ。しかも、とりあえず命中させることに必死で相手の顔を覚えるほどの余裕がなかった。しかし、そう正直に話していいものか悩んだ。
その迷いを読み取ったのかはわからないが、ヨクンが続けて口を開いた。
「おれはいまだに夢に見る。初めて殺した人の顔だ。……さすがに、もう何人も殺しすぎて、全員の顔は覚えていないが、やっぱり初めての人は特別なのかもしれん」
ヨクンは煙草を取り出し火をつけてから、食事中だったなすまなかった、と思い出したように詫びを入れた。ドルデモは、全然構いませんと首を横に振って答えた。
「おれは人を殺したことを後悔しているわけではない。世の中のために必要な人殺しもあるだろう。おれの仕事はそういう仕事だ。……だが、あの対物ライフルが人に対して使われれば、それは必要のない人殺しを生むだろう」
火がじわじわと煙草を蝕み、少しずつ煙草が短くなっていくのをドルデモは神妙に眺めた。
「警察組織に権威は必要だ。だが、必要以上の権威は脅威にしかならない。公務員である警察組織が、なぜ銃を持つのか? しかもただの銃でなく、場合によっては大きな危害を及ぼしかねないあの対物ライフルを使用する必要がどこにあるのか」
また煙を長く吐き出して、白く上る煙の先に何かがあるようにじっと見つめたあと、ヨクンはドルデモに視線を戻した。
「おまえはどう思う。正義のためか」
ヨクンにその気はなかったのだろうが、ドルデモはなんとなく馬鹿にされたような気がして、少々癇に障った。だがドルデモは感情の起伏が表情に出ない質なので、おそらくヨクンには淡々とした回答に聞こえたろう。
「おれは正義という言葉に酔うほどこの仕事に夢や期待を抱いていません」
ふっと空気がやわらいだのは、ヨクンが微笑んだからなのか。そのあとしたり顔で「ちがいない」と嘯いた。
食事を終え、ヨクンの家を辞する段になり、玄関まで見送りに来たヨクンの手首に装飾品がつけられていることに遅まきながら気づいた。制服だと手首がしっかり隠れる仕様になっているから、今までわからなかったのだろう。ヨクンの一部のようにしっくり馴染んでいて、今初めてつけたようには思えなかった。
そのブレスレットは、と訊ねると、ヨクンもああこれか、と思い出したように手首を持ち上げた。
「瑪瑙のブレスレットだよ。瑪瑙には、健康や長寿といった石言葉があるらしくて、お守りとして渡されたんだ」
誰から、という疑問をドルデモは飲み込んだ。なんとなく触れてはならない気がしたのは、ブレスレットにそそぐ眼差しがヨクンのものと思えないほど優しかったからかもしれない。
この人と組むのもあと一ヶ月もないのだと思うと、ここから離れがたい気分になったが、寮の門限が迫っていたのでそういうわけにもいかなかった。ドルデモは晩飯の礼を述べてから深く頭を下げた。
「さようなら」
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